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「大嘗祭の本義」(折口信夫)(2)東国との関係 [『古事記神話研究』]

折口信夫「大嘗祭の本義」の全15章のうち8章から11章。10、11章からうかがえる東国との関係が興味深い。

万葉集の元明天皇御製健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも》。元明天皇は天智天皇の皇女で、即位前の名は阿閉皇女といい草壁皇子の正妃。草壁皇子が天皇になることなく世を去ってしまったのち、その子である幼い軽皇子が成長するまでの間、草壁皇子の母である沙羅羅皇女が中継ぎの天皇として即位し持統天皇となる。その後、無事成長した軽皇子が即位して文武天皇となるが、この文武天皇も即位後、十年ほどで亡くなってしまう。文武天皇には首皇子(後の聖武天皇)という皇子がいたが、この皇子もまだ幼かったため成長するまでの間の中継ぎの天皇として祖母である阿閉皇女が即位したのが元明天皇。)此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。・・・/ 大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。》そして、つぎの11章で曰く、諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、や歌をやる》その歌が「国風(くにふり)の歌」。《此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌やは、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。》つまり元明天皇即位当時、東国は「日本の国」にはなっていない。「日高見国」だった。当時物部の楯は東国を向いていたということか? 次の記事に出会った。(chiyokokkkのブログ

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飛鳥時代ー元明天皇ー1、和銅https://ameblo.jp/chiyokokkk/entry-12525587381.html
2006-08-05 20:17:31

文武天皇死後の翌月、 707年 2月、阿閉皇女(あへ)即位。47才。8年間。元明天皇です。異母姉持統天皇の歩んだ道を、彼女もまた歩むことになる。宣命「現つ神と大八州しろしめす倭根子天皇が『不改の常典』を守って即位する」と発表。嫡子・首(おびと・聖武)は、まだ 8才なのでやむをえず中継として自分が即位するとした。つまり、首皇子の皇位継承権を、あらためて強調した。

即位にあたって、歌を詠った。♪ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ)楯立つらしも(元明・47才)楯は、敵の矢・刀・矛などを防ぐ武具。8年前の、持統天皇即位式の際、石上(物部)麻呂が大盾を立てた。元明天皇も、同じものものしい儀式で、即位式を行なった。元明天皇の思いに応じ、同母姉の御名部皇女(みなべ)は詠った。♪我が大君 物な思ほしそ 皇神(すめかみ)の 副へて賜へる 我がなけなくに(御名部・50才)(わが大君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命をうけて、あなたのお後を継ぐ者として、ほら、ごらんの通り私がおります)当時、首皇子は8才、天武の皇子は穂積皇子・長皇子など4人もあり、元明天皇が即位することは、皇太妃という地位のもろさがあって、不安があった。

和銅元年(708)、元明女帝の治世は始まった。首脳は、右大臣、石上麻呂(物部)70才くらい。大納言、藤原不比等(首皇子の祖父)50才くらい。・大伴安麻呂(大宰府帥兼任)授刀舎人の制度を新設した。(元明天皇の親衛隊)

正月早々に、武蔵国から、朗報がもたらされた。秩父郡から自然銅が産出したという。早速、年号を「和銅」と改め、恩赦も行なった。武蔵国の庸と、秩父郡の調・庸を免じた。3月、石川麻呂を左大臣に。藤原不比等を右大臣に。大伴安麻呂を九州から呼び戻し、太宰帥は粟田真人に。

和銅 2年(709)春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯石湯(いわゆ)を征越後蝦夷(かい)将軍に任命し、東海・東山・北陸諸国の兵をさずけて、蝦夷征討に発遣した。前年の秋、越後の国司が蝦夷の住んでいた地に、出羽郡を新設し、統治しようとしたため、こぜり合いが起こったから。そして、3年後、出羽郡に陸奥国の最上・置賜(おいたみ・現在の山形県の大半)を加えて、出羽国を新設した

藤原京は、大宝律令がととのい、役所の数も役人の数も増え、手狭になってきた。

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この地置賜が「日本(やまと)の国」に組み込まれたのは、元明天皇の御代だった。

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