折口信夫は、当初の井筒俊彦や西田幾多郎に対するような感覚で、近寄りがたかった。
(井筒俊彦、西田幾多郎への道は若松英輔さんに導いていただいた。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-10-20-1)本気でその文章世界に入ってみると、理屈でなく響いてくるものがある。全15章のうち7章まで読み終えた。先般、『近衛上奏文と皇道派』
https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-10-13-2を読んで、著者の山口富永氏に感じた「当事者」感と共通したものが折口から伝わってくる。学者がするような「知識」の集積ではなくて、著者自身の、それ自体「真実」にちがいない「実感」が伝わってくる。学者感覚では、アマゾンレビューの月下乃讀書人さん「実証的研究とは言い難い内容」の題で曰く
《折口信夫のアプローチは文献調査に基づく語源推定によって祭祀の意義という精神世界を推論するという二重の推定になっていて、実証的研究とは言い難い内容です。フィールド調査が民俗学の基本とされるのは、体系的な文字記録に馴染まない事物を扱うからでしょう。例えば新嘗祭の次第を全国的にフィールド調査して、そこから何かを導き出そうとするのであればまだ理解できますが、それでも天皇の秘儀とされる事項にまで立ち入って推定するのは適切とは言えないでしょう。民俗学の対象にならないものを無理に取り上げて、どこまでが確からしいかも判然としない話に読めました。検証不可能なものは仮説にもなりません。》ということなのだろうが。