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「大嘗祭の本義」(折口信夫)(2)東国との関係 [『古事記神話研究』]

折口信夫「大嘗祭の本義」の全15章のうち8章から11章。10、11章からうかがえる東国との関係が興味深い。

万葉集の元明天皇御製健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも》。元明天皇は天智天皇の皇女で、即位前の名は阿閉皇女といい草壁皇子の正妃。草壁皇子が天皇になることなく世を去ってしまったのち、その子である幼い軽皇子が成長するまでの間、草壁皇子の母である沙羅羅皇女が中継ぎの天皇として即位し持統天皇となる。その後、無事成長した軽皇子が即位して文武天皇となるが、この文武天皇も即位後、十年ほどで亡くなってしまう。文武天皇には首皇子(後の聖武天皇)という皇子がいたが、この皇子もまだ幼かったため成長するまでの間の中継ぎの天皇として祖母である阿閉皇女が即位したのが元明天皇。)此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。・・・/ 大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。》そして、つぎの11章で曰く、諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、や歌をやる》その歌が「国風(くにふり)の歌」。《此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌やは、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。》つまり元明天皇即位当時、東国は「日本の国」にはなっていない。「日高見国」だった。当時物部の楯は東国を向いていたということか? 次の記事に出会った。(chiyokokkkのブログ

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飛鳥時代ー元明天皇ー1、和銅https://ameblo.jp/chiyokokkk/entry-12525587381.html
2006-08-05 20:17:31

文武天皇死後の翌月、 707年 2月、阿閉皇女(あへ)即位。47才。8年間。元明天皇です。異母姉持統天皇の歩んだ道を、彼女もまた歩むことになる。宣命「現つ神と大八州しろしめす倭根子天皇が『不改の常典』を守って即位する」と発表。嫡子・首(おびと・聖武)は、まだ 8才なのでやむをえず中継として自分が即位するとした。つまり、首皇子の皇位継承権を、あらためて強調した。

即位にあたって、歌を詠った。♪ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ)楯立つらしも(元明・47才)楯は、敵の矢・刀・矛などを防ぐ武具。8年前の、持統天皇即位式の際、石上(物部)麻呂が大盾を立てた。元明天皇も、同じものものしい儀式で、即位式を行なった。元明天皇の思いに応じ、同母姉の御名部皇女(みなべ)は詠った。♪我が大君 物な思ほしそ 皇神(すめかみ)の 副へて賜へる 我がなけなくに(御名部・50才)(わが大君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命をうけて、あなたのお後を継ぐ者として、ほら、ごらんの通り私がおります)当時、首皇子は8才、天武の皇子は穂積皇子・長皇子など4人もあり、元明天皇が即位することは、皇太妃という地位のもろさがあって、不安があった。

和銅元年(708)、元明女帝の治世は始まった。首脳は、右大臣、石上麻呂(物部)70才くらい。大納言、藤原不比等(首皇子の祖父)50才くらい。・大伴安麻呂(大宰府帥兼任)授刀舎人の制度を新設した。(元明天皇の親衛隊)

正月早々に、武蔵国から、朗報がもたらされた。秩父郡から自然銅が産出したという。早速、年号を「和銅」と改め、恩赦も行なった。武蔵国の庸と、秩父郡の調・庸を免じた。3月、石川麻呂を左大臣に。藤原不比等を右大臣に。大伴安麻呂を九州から呼び戻し、太宰帥は粟田真人に。

和銅 2年(709)春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯石湯(いわゆ)を征越後蝦夷(かい)将軍に任命し、東海・東山・北陸諸国の兵をさずけて、蝦夷征討に発遣した。前年の秋、越後の国司が蝦夷の住んでいた地に、出羽郡を新設し、統治しようとしたため、こぜり合いが起こったから。そして、3年後、出羽郡に陸奥国の最上・置賜(おいたみ・現在の山形県の大半)を加えて、出羽国を新設した

藤原京は、大宝律令がととのい、役所の数も役人の数も増え、手狭になってきた。

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この地置賜が「日本(やまと)の国」に組み込まれたのは、元明天皇の御代だった。

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大嘗祭の本義
折口信夫

     八

 元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。
 のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。
 高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。
 高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。
 天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。
それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。
 中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。
 今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた
 奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。
 かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。
 元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

 此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。
 寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。
 処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。
 元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。 処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
 後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。
 では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。
寿詞の大体の意味は、次の如くである。
 中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。
 つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。
 中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。
 譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。
 大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

 次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。
 一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、イソカミが栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。https://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/1040997.html
  健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)
 此歌に和せられたのが、
  我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)
 此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

 大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。
 さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀の斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。
 日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。
 天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。
 大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。


     一一

 昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。
此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。
 ふりは、マイにもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、を舞つて居ると、其の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。
 此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。
 大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。
 美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
 因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人
皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。
 何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。
 此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌やは、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。
 東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。
 平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。
 悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒ
が一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。
 此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。
 稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。
 警蹕の意味「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。
 悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。
 悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。
 かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。 故、出雲に到りまして、大神を拝み訖へて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐さしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐せまつりて、駅使を貢上りき。
 此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである
 此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。
 併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。
 先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた
 次に天子様の御禊の話をして見る。


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