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ドル覇権の終焉 [30年後]

『お金の秘密』が示してくれたのは、実物経済からの逸脱が行き着いたところ、際限なく増加してゆく「幻想としてのお金」に振り回され脅かされる、日々生きる人間の現実の生(実存)でした。その「幻想としてのお金」の象徴的存在がドルであったわけですが、そのドルの覇権が今まさに崩れようとしているのかもしれない。中国が創設した「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)への雪崩的加盟現象がそれです。その現状と、そして日本はその中でどんな位置に在るのか。そのことを田中宇(さかい)氏が明らかにしてくれています。抄約してみました。原文はhttps://tanakanews.com/150322china.htmです。

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日本から中国に交代するアジアの盟主

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 3月12日、英国政府が、中国が創設した国際開発金融機関である「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)への参加を表明した。北京に本部を置くAIIBは、アジア地域の道路や港湾、発電所などのインフラ開発に国際投資する事業を行う予定で、中国が2013年秋から設立を提唱し、14年10月に正式発足した。

 従来、国際金融機関といえばIMFと世界銀行という「ブレトンウッズ機関」を筆頭に、米国の覇権運営を補佐する存在だ。アジアではIMF世銀体制下に、日本が歴代の総裁職を占めてきたアジア開発銀行(ADB)がある。

 中国は、経済力の増大とともにアジアでの政治影響力の拡大を望んでいるが、IMFやアジア開銀での発言権の拡大は、米国(日米)に阻止されている。経済成長が続くアジア諸国には巨大なインフラ整備の需要があるが、アジア開銀の投資はその需要に追いつかず、需給のギャップがある。

 中国は、その点を突いて、IMFやアジア開銀での中国の発言権の拡大が阻止されている以上、アジアでのインフラ投資需要の増加に応えるため、中国主導で新たな国際開発金融機関の創設するしかないという理論で、AIIBの創設を呼びかけた。

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安西正鷹『お金の秘密』を読む(まとめ) お金と時間の問題から現代われわれの実存的課題に迫る良書 [30年後]

国際金融資本がひた隠しに隠す お金の秘密』、(1)から(6)と長くなってしまったので、Amazonレビューへの投稿を頭に置きつつまとめてみました。

 

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「お金とは何なのか」、このことが読み終えて見事に腑に落ちている。現代人はすっかり馴らされてしまっているのだが、「お金」にまつわりつく様々な「いかがわしさ」に気づかされる。


日本でお金としての基本機能を有する最古のお金は、和同開珎に先立つ「無文銀銭(むもんぎんせん)」であった。銀の塊を細かく分割したもので、価値を記した文言のない秤量貨幣である。この段階では、実質価値と名目価値の乖離はほとんどなく、したがって国家の統制とは関わりなく流通する。次に登場する和同開珎は当初は「銀銭」だった。ところがわずか3ヶ月で和同開珎は「銅」銭となる。「無文銀銭→和同開珎(銀銭)→和同開珎(銅銭)」の変遷において、無文銀銭の実質価値(重量)を1とすれば和同開珎(銀銭)の実質価値(重量)は1/21/3、さらに銅の価値は銀の1/50なので、和同開珎(銅銭)は
実質価値において無文銀銭の
1/1001/150となっている。にもかかわらず、国家の統制によってその名目価値は等しいとされる。三段階をふむプロセスは、国家が民を「お金のいかがわしさ」に馴れさせるためのプロセスだったのである。国家はこのプロセスを通して、和同開珎(銀銭)の段階では23倍、和同開珎(銅銭)の段階では100150倍のシニョレッジ(通貨発行益)を獲得できたことになる。さらに現在の1万円札はといえば、ほぼ1/500であるが、だれもそのことを問題にすることはない。さらにさらにお金の仕組みのいかがわしさは「信用創造」において極まる。銀行から借金して通帳に書き込まれる数字には原価も何もない。しかしその数字が記入されるやいなや、その対価として、その数字に利息を加えて「稼ぎ」によって小さくしてゆかねばならない義務が生ずる。こうして国も企業も個人もこの幻に過ぎない数字に追いまくられた日々を強いられる世の中になってしまっている。

 

この本の内容に厚みがあるのは、時間泥棒の「灰色の男たち」と戦うファンタジー『モモ』を手がかりにお金と時間がリンクして、誰しも思い当たる現代われわれの実存問題にまで踏み込んでいることによる。


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安西正鷹『お金の秘密』を読む(6)お金の魔性(後) [30年後]

「利子」について考える。


自然界はあるものが増えればあるものが減るしくみになっている。ところが人間が作り出したお金は時間の経過とともにただひたすら際限もなく増加する。

 

《お金に作用する現象は増加だけなので、均衡していた力のバランスは崩れて歪みを生じ、社会を混乱の極みに陥れるのが歴史の常である。

 この不可解な現象は天の理の気紛れや意地悪などでは決してない。本来ならお金にはたらくべき収縮の力を故意に排除する、人為のなせる業なのだ。

 飽くなき欲望を満たそうとする邪悪な者たちはその他大勢の人々の欲望をも意図的かつ秘密裡に肥大化させ続け、これに寄生してきた。

 利己的な欲望で精神が劣化した人々の意識は、邪悪な者たちの意識と同調して巨大な負のエネルギーの塊となる。これか「増加するお金」となって具現化して社会を破壊し、不幸と苦悩を生み出す温床となっている。

 利子とは、収縮力を排し膨張力だけを加えてお金を魔物に仕立て上げるウィルスなのだ。》242-243P


利率には通常複利が用いられや、複利計算は放物線を描き、幾何級数的に増加する。その行き着くところ「共同体の死」である。


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安西正鷹『お金の秘密』を読む(5)お金の魔性(前) [30年後]

ジャン・ジャック・ルソーの引用があった。


《「魂が十分に堅固な地盤を見いだして、完全にそこに安住し、そこに自分の全存在を集めて、過去を呼び起こす必要もなく、未来に一足飛びする必要もないような状態、時間が魂にとって何の意味もなく、いつまでも現在が続き、しかもその持続を示さず、継起のあともなく、不足や享受の、快楽や苦痛の、欲望や恐れの感情もなく、ただわれわれの存在という感情だけがあって、その感情だけが魂の全体を満たすことができる、そういった状態があるとすれば、その状態が続く限りは、そこにある人は幸福な人といえる。」》233-234p


『モモ』の「時間の源」での体験に通じ、また、まさに「マスミノムスビ」の世界である。そういえば、あれからもう半世紀も過ぎるのだが、ちょうど大学受験をひかえた中で、なぜかルソーの『告白』をぞくぞくしながら読みふけったことがあるのを思い起こした。この文章は『孤独な散歩者の夢想』の中のものだが、ここでルソーに出会ったことでうれしくもなり、あの頃がたまらなく懐かしくもなった。もっともルソーにのめり込んだのはあの時だけだった。『エミール』は読んで間もなく挫折の記憶がある。(安西氏が拠ったのは真木悠介著『時間の比較社会学』だ。そこにルソーのこの文章が引用されるのだが、『時間の比較社会学』でその前に引用された部分も見逃せない。《夕方になると、わたし(ルソー)は島の頂を下りて、好んで瑚のほとりの砂浜のどこか隠れた休み場所に行ってすわるのだった。そこでは、波の音と水の動きとがわたしの感覚を固定させ、わたしの魂から他のいっさいの動揺を追いはらって、甘美な夢想に引き入れ、しばしば夜がやってくるのも気がつかないのたった。寄せては返すこの水は……たえずわたしの耳と目にふれて、夢想が消していく内面の運動にかわり、苦労して考えないでも、喜びとともにわたしの存在を感じさせてくれるには充分であった。》これは神道天行居が説く「音霊法」そのままではないか。音霊法の目指すところは「マスミノムスビ」の体感である。ルソーも同じ世界に在った。あらためて古神道の普遍性を思う。)


この引用のあと、「自然からの疎外」を前提に存立するユダヤ・キリスト教文明を批判しつつ断言する。

《ルソーが最古の時間意識に包まれた世界を桃源郷として理想化したことは、自ら招いた疎外感で恐怖におののくユダヤ・キリスト教文明が、太古の時間意識への回帰に救いを求めざるを得ないことを暗示している。・・・/いまや滅亡への道をひた走り、自分だけでなく全世界をも道連れにしようとする病的な文明圏を救えるのは「中今」の叡智を宿すわが日本文明を措いてほかにない。》234-235p

 

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安西正鷹『お金の秘密』を読む(4)われわれはどうやって「いかがわしさ」に馴れさせられたか(後) [30年後]

1819年、兌換再開について検討する英国議会の秘密委員会であるピール委員会が設立される。この委員会では銀行券と金とをどう関連させるかについて、物価高騰やインフレを阻止するためにはどうすればよいかをめぐって議論された。議論には二つの対立があった。


ひとつは、リカードに代表される「通貨学派(マネタリズム)」で、「銀行券の過剰な発行がインフレーションを引き起こすとして、発券銀行が金準備を超えて銀行券を発行することを規制するべきである」と考え、兌換復活を主張。もうひとつはトーマス・トゥック等の「銀行学派」で、「銀行券が金準備を超えて過剰に発行された場合、インフレ懸念が発生すると預金者は銀行券の償還(金地金への交換)をすすんで行おうとするため、通貨発行高の問題は自然と解決される」と考え、兌換不要を主張。


通貨学派は、ひたすら「お金」に注目、国の政策もお金をどうコントロールするかにかかっている。この発想が、自由貿易主義すなわちグローバリズムにつながる。


《(リカードの考えは)英国の帝国主義を経済的側面から支えただけでなく、現代のグローバル資本主義の礎を築いた。大英帝国は宗教と軍隊をあたかも砕氷船のように駆使して、世界中の国家を切り崩し、自由貿易による経済的収奪でとどめを刺して植民地に零落させた。》169p


一方の銀行学派(反マネタリズム)の根底にあるのは、世の中はお金だけが基準となって動いているものではないという考え。「お金は人間の欲望を経由して初めて商品の価値に影響を与えることができる」(167p)。お金では割り切れない「互恵」の関係もある。お金に換算できないその土地その土地の独自性も重視しなければならない。農業における自給への注目も重要である。お金に還元できない要素が絡み合い歯止めとなってインフレは防がれる。「すでに人間の欲望が十分に満たされている状態でお金の供給を増やしても、そのお金が商品の購入に向かうとは限らない。余分なお金は預金として銀行に還流してくる」(167p)はずと考える。


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安西正鷹『お金の秘密』を読む(3)われわれはどうやって「いかがわしさ」に馴れさせられたか(前) [30年後]

この著のいちばんの眼目は、第3章から第5章である。それぞれ「永久寄生者の詐術・信用創造のカラクリ」「複式簿記という魔術」「詐欺の芸術品・イングランド銀行」、自分なりによく納得したくてまとめてみた。   

 

先に、実質価値と名目価値の乖離の少ない秤量貨幣が、国家の統制の下、無文銭から銀銭を経て銅銭に到り、その間実質価値は1/1001/150になることを見た。さらに現在の1万円札はといえば、ほぼ1/500。それをいかがわしいとする感覚は、われわれにはほぼない。

 

《貨幣制度の歴史はまさしく、詐欺的金融手法の進化の歴史である。》106p

《お金を支配する者はお金の本当の仕組みを隠蔽するかたわら、似非学説やプロパガンダの流布に躍起となっている。真相究明の鍵を握るわれわれの直感力は、彼らの必死の工作で機能不全に陥っている。》102p

 

さて、お金の仕組みのいかがわしさは、「信用創造」において極まる。すなわち、銀行から借金して通帳に書き込まれる数字に至っては原価も何もない。しかしその数字が記入されるやいなや、その対価として、その数字に利息を加えて「具体的なはたらき」によって小さくしてゆかねばならない義務が生ずる。このことのいかがわしさが「複式簿記」の仕組みから解明される。

 

複式簿記において、左側を「借方」といい、資産(債権)を記入する。右側を「貸方」といい、負債(債務)及び資本・利益を記入する。なぜ資産が借りで、貸しが負債なのか。ここに複式簿記が訳が分からなくなるつまずきのもとがある。「釈然としないまま簿記に慣れていくうちに、やがて何の違和感も感じなくなる」(128p)ものらしいが、私などはずっとここでつまずいたままだった。この著をヒントに解釈してみた。

 

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安西正鷹『お金の秘密』を読む(2) 『モモ』に寄せて [30年後]

まずうれしいのは、エンデもまた、私にとっての上杉鷹山、宮沢賢治、井筒俊彦、小田仁二郎、若松英輔、そしておそらく宥明上人も・・・そのカテゴリーに括られる人だったことだ。


《彼(エンデ)は、直感に命じられるがままに黙って筆を走らせるだけだと、赤裸々に告白している。すなわち、エンデは自らの潜在意識に照射された神々の意思を忠実に代弁する霊媒の役割を担っていた。》193p


エンデにとってもやはり、「自分」という存在はとどのつまり、「通路」であり「器」として認識されていたのではないか。そこに徹し得た時、「時間」そのものの原点が姿をあらわす。時間が立ち現れる瞬間瞬間、その都度都度の完結、まさに「マスミノムスビ」の世界。著者(安西)は言う。


《未来が存在せず、いまこの瞬間に時間を創るという時間意識。それは、古代神道の「中今(なかいま)」に通ずるものがある。未来も過去もなく、この瞬間という一点に凝縮された「中今」こそ、人類史上最古の時間意識なのだ。》そしてたしかに、《このような創造的で緊張感にあふれた時間意識が支配的な世の中では、まだお金が凶暴な側面を発揮することはなかった》220p)にちがいない。

 

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安西正鷹『お金の秘密』を読む(1) お金にまつわる「いかがわしさ」 [30年後]

お金の秘密.jpg

安西正鷹著『お金の秘密』を読み終え、感想をまとめてみました。30年後の置賜を考えはじめたら出会った本です。読みはじめて間もなく、「『何でもタダでできる世の中』に向けて」でも書いています。こんどのは、読み終えて自分なりに噛み砕いてみたものです。

 

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「お金」にまつわりつく様々な「いかがわしさ」に気づかされる本である。現代人は「お金のいかがわしさ」にすっかり馴らされて、いかがわしさをいかがわしさとして感ずることができなくなってしまっている。しかし、和同開珎が出回った頃の日本人にはいかがわしさを嗅ぎ分ける能力が備わっていた。最終章「日本のお金の謎を解く」を読むと、そのことがよくわかる。


日本における鋳造貨幣は「富本銭(ふほんせん)」を嚆矢とするとのことだが、この富本銭には決済機能や価値保存機能はなくて、要するに賭博チップとして用いられた。その頃「お金の機能」を果していたのは、穀物や塩や保存のきく貴重品のような「商品貨幣」であった。賭博チップでしかない鋳造貨幣は、「力を誇示して他人を支配する権力欲と、他者に対して優位に立つ虚栄心を満たす」(47p)ためだけのものでしかなかった。つまり、なければないで生きてゆけるのだが、あればあるでついつい「権力欲」や「虚栄心」が発する源となるところのものであり、逆にそれが目的としてしまう魔物が取り憑くところのものである。そもそも貨幣がその端緒において、まずは博打用に発生したものであるということは、十分心に留めておいていい。(西洋でもそうだったと言う。46p

 

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「何でもタダでできる世の中」に向けて [30年後]

 三十年後、物やサービスのやりとりが、ほとんど何でもタダでできる世の中」になるためにはどうすればいいのか。このことを考えるために、安西正鷹著『お金の秘密』(成甲書房 2012)を読み出したら、次の文章に行き当たった。

 

《 さて、わが国のお金は、どのような歴史を辿ってきたのであろうか。

 日本最古の鋳造貨幣(コイン)は「富本銭」であるとされる。

 平成111999)年にこの学説が発表されるまでは、和銅元(708)年に発行された「和同開珎」が最も古いというのが通説だった。

 富本銭の誕生以前は、米や布といった商品貨幣が広く流通していた。当時、日本は律令国家体制の整備に余念がなかった。そのモデルとなったのが海の向こうの超大国・唐である。遣唐使や唐と朝鮮半島からの渡来人がもたらす文明は、大和朝廷にとっては垂涎の的だった。

 中央に孔の開いた富本銭もそのひとつだった。初めて目の当たりにする珍しい金属片は、お金ではなくコレクションとして人々に珍重された。富本銭の最大の用途、それはなんと厭勝銭(ようしょうせん)だった。厭勝銭とは宗教的な儀式物のことだが、実際には双六用のチップとして使われた。

 富本銭が出回った頃、世の中は天武天皇の治世下にあった。天武天皇は賭博好きで、博戯とよぱれる双六に興じていたようだ。

 人間の欲望をストレートに刺激する賭博にはまったのは、天武天皇だけではなかった。役人や庶民も富本銭を片手に双六の勝負に熱を上げていた。

 よほどの加熱ぶりで社会問題となったのであろうか。689年、持続天皇は日本で最初の賭博禁令となる「双六禁止令」を出した。698年、次いで754年にも同様の禁令が発布された。特に後者の内容は、違反した場合には六位以下であれば百回の杖打ちの刑、それ以上の者は現職を解任し土地は没収といった厳しいものだった。

 その理由が『続日本紀』には次のように書かれている。

 「この頃、宮人や人民が憲法(国法)を恐れず、ひそかに仲間を集め、意のままに双六を行ない、悪の道に迷い込み、子は父に従わなくなっている。これではついに家業を失い、また孝道にも欠けるであろう

 銅銭と双六は中国から輸入したものだった。支配者たちは先進的な中国の制度や文化を模倣し追いつこうとしたのである。しかし、双六は純粋な遊ぴにとどまらず、人々の欲望と結びつき、もの珍しい銅銭を追い求める手段となった。銅銭と双六が導入されると、いずれも負の側面ばかりが引き出され、社会的な大混乱を引き起こしてしまった。このありさまは、「先進的」と評された中華文明の本質とその限界を見事に象徴している。

 支配者は銅銭を決済手段や価値尺度として機能させ、経済活動を通じて円滑に流通する過程で価値貯蔵手段としての機能を漸進的に強めていく青写真を描いていた。

 だが、彼らの目論見はものの見事に外れてしまった。人々は銅銭の決済手段としての機能には目もくれず、銅銭そのものを手っ取り早く入手して自分の手元に貯め込む行動に走ったのだ。

 このように日本では、お金の形態が商品貨幣から金属の延べ棒や塊などの金属貨幣を通り越して、富本銭などの鋳造貨幣へと一足飛びに移行した。

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