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白川前日銀総裁は結城豊太郎をどう評価したか(1)結城総裁登場前史 [結城豊太郎]

mespesadoさんによる1億人のための経済談義(33)財政経済政策から見た現代日本史で、大東亜戦争に至る滅びの道は、大蔵大臣井上準之助の経済政策の失敗に端を発すると理解して、こう書きました。デフレで滅んだ戦前の日本で、 金解禁に係る井上蔵相の二つのミスが指摘されています。①円とゴールドの交換レートを以前の水準のままにした結果、金解禁のために準備したゴールド3億円 の70%以上がわずか6ヶ月で海外流出したこと ②金解禁前年の世界恐慌の始まり(1929)を甘く見て、結果的に日本の輸出産業を壊滅状態に追い込んだ こと、この二つです。結果的に昭和7年(1932)5月15日の犬養首相殺害を経て政党政治の終焉、軍部による実権掌握、そして戦争への道を歩むことにな ります。とすると結城豊太郎の役割は井上蔵相の失敗の始末をつけることではなかったのか、というのが今朝の段階の私の理解です。ただ結城に「井上蔵相の失敗」という認識があったのかどうか、その辺に関心を向けてみたいと思ったところでした。》
白川講演会14323832070.jpeg昨日のmespesadoさんによる1億人のための経済談義(36)財務省と日銀、そのバランスの取り方の議論は、「インフレ恐怖→デフレ→自殺者1万人増」の戦犯として白川方明前日銀総裁を槍玉にあげる事から始まっています。白川前日銀総裁は3年前に南陽市で講演しています。白川氏は、井上準之助、結城豊太郎をどう評価しているか。「2.昭和初期から昭和12年までの経済・金融情勢」でこう語っています。
《ここで結城総裁の時代を議論するために、昭和初期からの金融経済情勢を振り返ってみたいと思います。多少縁遠いと思われるでしょうが、当時の情勢を分かっていませんと、結城総裁が行った仕事を理解しにくいと思いますので、少しお付き合い願います。
  大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発し、大正7年(1918年)に終了します。大戦中はブーム(好景気)で、終戦後は一旦不況が起きますが、そ の後景気が良くなり、大きなバブルが発生します。ちょうど目本の1980年代後半と同じようなバブルが発生するわけです。
 このバブルの崩壊によって、昭和2年3月に金融恐慌が始まります。片岡直温という大蔵大臣が議会で失言をしたことをきっかけに金融恐慌が広がったことは、教科書にも載っていますので皆さんよくご存じかと思います。色々な銀行で取り付け騒ぎが 起きてきます。取り付け騒ぎが起きると、日本銀行が銀行にお金を貸し付けて、銀行が預金の払い戻しに応じられるようにすることが不可欠になります。お金を 貸し付けること自体は日本銀行が帳簿に書き付ければできるのですが、銀行券(お札)の印刷は間に合いませんでした。これも有名な話ですが、このときはお札 の裏側が印刷されていない真っ白な銀行券——裏白銀行券と呼ばれます——が発行されています。この金融恐慌のときに、いわばリリーフ役として井上準之助総裁が再度、日本銀行総裁として登場してくるということになります。
 この金融恐慌の爪痕は大きく、景気は悪く、失業者も多く発生しました。娘の身売りといったことが起きたのもこの時期でした。
  金融恐慌がある程度鎮まった後に大きな論点となったのは、金本位制に復帰するかどうかということでした。当時のお金の発行の仕方は、お金の背後に金が存在 し、最終的に金に交換できるという安心感をバックに発行されるというものでした。これは、お金が過剰に発行されない一つの仕祖みであります。第一次大戦の際に各国とも金本位制を維持できずにいったん離脱するのですが、戦後は多くの国が金本位制に戻りました
 井上準之助大蔵大臣は、できるだけ早く金本位制に戻った方が良いと主張していました。大きな論争を経て昭和5年(1930年)に日本は金本位制に戻ります。その前年、1929年にはニューヨークでの株価の大暴落をきっかけに、世界的な恐慌が始まるのですが、そうした時期に金本位制に戻ったわけです。金本位制に戻ること自体もさることながら、「金本位制に戻るときにどういった為替レートで復帰するのか」ということがより重要な論点でした。このときに金本位制離脱以前の戦前の—より円高の―レートで復帰したために、経済は大変な苦境に陥ってしまいました。金本位制復帰後、日本の景気は非常に悪くなったのです。
たしかに井上準之助の政策失敗です。


《そこに登場するのが高橋是清です。昭和6年(1931年)12月に再度大蔵大臣に就任し、「高橋財政」を始めました。高橋財政には大きく三つの柱がありました。ーつめの柱は、金本位制の停止。先ほど無理な円高レートで金本位制に復帰したと申し上げましたが、金本位制を停止するということは無理な円高を止めるということで、円安になるということです。二つめの柱は、積極的な財政拡大。三つめの柱は、財政拡大に際して発行される国債の全額を日本銀行が引き受けるということです。こうした高橋財政によって、景気は回復に転じました。そのことから、高橋財政のような積極的な政策を日本も採用すべきではないかということが、この十数年間、ずっと議論されてきたわけです。》

白川氏が現在の日本経済をどう考えているか。
《少し話が横道にそれるかもしれませんが、高橋財政と過去十数年間の日本経済を比較して「高橋財政は非常に積極的な政策だったので上手くいった」とよく言われますが、私自身は必ずしも正しい説明ではないと思っています。先ほど、「高橋財政の開始後為替レートが円安になった」と申し上げました。「円安誘導」と言われることがありますが、これは不正確な言い方だと思っています。高橋財政以前は、非常に無理な円高為替レートを維持していました。高橋是清がやったことは手を離し、実勢に任せたということです。政府がドル買い介入を積極的に行って円安を実現したということではなくて、手を離し実勢に任せることによって為替レートが円安になったということですから、「円安誘導」とは違います。
 「高橋財政は量的緩和を採用したのか?」ということもよく言われますが、これもそうではありません。日本銀行は確かに国債を全額引き受けましたが、同時に引き 受けた国債を民間金融機関に対して売っています。高橋財政の初期は、売却は上手くいっていましたから、日本銀行が保有する国債の残高がそれほど増えたわけでもありません。
長期金利.jpg  金利水準も今と比べて高い水準にありました。過去15年程、日本ではゼロ金利が続いているわけですが、 高橋財政の初期には、金利は6〜7%という高い水準にあり、金融緩和を含む積極的な政策の結果、5%程度に下がりました。金融緩和のメカニズムとしては、 量的緩和ということではなく、ごく普通のメカニズムです。要は金利が下がる余地が十分にあったということです。これに対してここ十数年間の日本は、短期金 利がゼロですから下げる余地がありません。長期金利もここ10年程は1%を切っていますが、高橋財政の頃はもっと高く、それが下がっていったのです。ごく普通の金利政策が発動されたというのが当時です。従って、今日でも高橋財政のようなことをすれば日本は上手くいくのではないかという議論は妥当しないと、自分自身は思っています。》髙橋財政に倣うとも言われるアベノミクス批判が込められているように思えます。

《 いずれにせよ、高橋財政が始まって最初の数年間は、景気が回復して良かったわけですが、徐々に生産の余力が消滅してきます。エコノミストの言葉を使うと、 需給ギャップが解消してきたということです。そうなってくると、積極的な政策、特に積極的な低金利政策は、結果としては国債を消化するための政策に段々と変質していきました。景気が良くなり、生産余力がなくなっても低い金利が維持されましたので、当然インフレ圧力が高まってきます。一方で戦争が拡大してい ますから、政府は資金を調達したいですし、軍需産業も資金を調達したいという状況になります。こうなると本来、金融はひっ迫するわけですが、低金利を維持する政策が続きました。こうした状態は、もちろん長続きできないわけで、昭和10年6月——昭和11年度予算編成の時期——に、それまでは積極財政を進め ていた高橋是清大蔵大臣は、国債の漸減方針を発表して軍事予算を切ろうとしました。
 当然軍部から激しい抵抗に合い、翌昭和11年2月に起きた有名な「2.26事件」で高橋是情は凶弾に倒れるわけです。以後、軍事予算が拡大し、お金がどんどん出ていくという状態が抑えられなくなりました。》「井上による緊縮財政の失敗→髙橋財政による積極策で景気回復→インフレ回避策の結果としての軍事予算削減→2.26事件(髙橋暗殺)→軍事予算拡大という経過です。

《 高橋是清や高橋財政に対する評価は今日に至るまで分かれています。評価する人は、「日本のケインズ」である——景気の回復に成功した——と評価します。評価しない人は、高橋財政は激しいインフレをもたらしたとします。今風に言いますと、「高橋財政は出口戦略に失敗した」ということになります。高橋財政を考 える際のポイントは、「最初は上手くいった」ことと「後は悪かった」ことを、どう考えるかです。「最初に上手くいったことと、最後の非常に難しい問題は繋がっていない」と捉えるのか、「最初に上手くいったことが、最後の非常に難しい問題に繋がった」と捉えるのかということです。もし前者であれば最後を上手 くやれば良いということになりますが、後者であれば違ってきます。
 ここまで、結城豊太郎が総裁に就任する直前の経済情勢について説明しました。正にこうした難しい時期に結城総裁は就任したことになります。》
(つづく)

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めい

白川前日銀総裁に対する批判。下記グラフ↓が決定的です。
https://gen-ron.com/wp-content/uploads/2018/11/9868f6dca0768cfeab26f34d559f7680-300x166.png
「米英欧の中央銀行は数倍に資産を拡大した一方、日銀はなにもしなかった」

   *   *   *   *   *

【デフレとの戦い】なぜ日本銀行は無策だったのか
2018年11月7日前参議院議員 金子洋一

■紙幣の増し刷り競争を拒否した日銀が元凶
 
 なぜ、我が国だけに大変な自国通貨高(円高)がおきたのでしょうか。なぜ輸出産業を中心に大打撃がおきたのでしょうか。

 リーマンショックへの米、英、欧州のそれぞれの中央銀行の対応はすばやいものでした。中央銀行の本来の役割は、その国の経済が落ち込めば金融緩和で刺激し、また金融機関が経営不振に陥ればそれを救済することの2つです。どちらか一方が欠けてもいけません。

 不況を打開するためや、金融危機によって経営危機に陥りかねない金融機関に対して具体的手段としてはおカネを供給します。その際に国債をはじめとする資産を市場から買い、その代わりに市場に通貨を供給することを「バランスシートを拡大する」といいます。こうすることによって、中央銀行の資産(国債、ETFなど)と負債(日本銀行券や市中銀行が日銀にもっている預金残高など)がバランスシート(総資産)の貸方借方両建てで増えることになるのでこうよばれます。簡単にいえば中央銀行が総資産を拡大するのです。

 下のグラフはリーマンショックに際して主要国の中央銀行がそれぞれどのようにバランスシート(総資産)を広げて通貨供給量を増やしたのかを示したものです。米英欧の中央銀行は数倍に資産を拡大したのにもかかわらず、日銀はなにもしなかったのです。

「米英欧の中央銀行は数倍に資産を拡大した一方、日銀はなにもしなかった」
https://gen-ron.com/wp-content/uploads/2018/11/9868f6dca0768cfeab26f34d559f7680-300x166.png
(資料)各国中央銀行統計より  現・日銀審議委員の片岡剛士氏作成

 破線で楕円形に囲まれた部分を見てください。リーマンショックへの対応で2008年の夏から秋にかけて、米英欧の中央銀行と違いただ日本銀行だけがまったくおカネを増やしていないことが一目瞭然に分かります。先進諸国は、民間部門を救うために財政出動や中央銀行が市場から国債などの債券を大量に買い入れ、直ちに総資産を2倍から3倍に膨らませ、それによってベースマネー(中央銀行が市場に直接供給するおカネのこと)をふんだんに供給するという、戦後初の大規模な金融緩和を行いました。その結果、各国は深刻なわが国と比較するとリーマンショックによる傷は浅くてすみました。一方で、我が国の中央銀行である日銀はこうした紙幣の増し刷り競争に参加しなかったのです。それが災厄をもたらしました。

■金融機関のことしか考えなかった日本銀行

 我が国では当時の経済財政相の与謝野馨氏は「日本にももちろん影響はあるが、ハチが刺した程度」と嘯き、また、当時の白川日本銀行総裁も「全体として、わが国金融システムの安定した状態が脅かされることはないとみています。」と、円高で輸出に大打撃を受けることが明らかな産業界を無視して、金融セクターのことしか考えませんでした。金融機関への気遣いとして短期的資金は供給されましたが、肝心の円高の及ぼす生産や輸出への悪影響といった実際の経済の動きをまったく無視しました。

 我が国だけおカネを増やさないことで大変なことが起きました。円がドルやポンドなどに対して高くなる急激な円の独歩高です。上のグラフで分かるように他の国がお札の供給をリーマン前に比べて2、3倍も増やす一方で、世界中にある日本円の量はほぼ変りません。円と外貨の交換をする為替市場で需要と供給の関係が働き、相対的に円の希少価値が高まり、市場原理が働いて急激な円高が生じたのです。

 例を挙げれば、我が国の主要な輸出産業である自動車産業全体では当時、年間1円の円高ドル安は損益計算書上で約800億円の損失を生むとされていました。トヨタ自動車単独では1円円高で340億円の損失となります。1ドル110円から90円への20円の円高ともなればトヨタ一社で単純計算で約7千億円の損害です。しかも、この数字には円高による現地価格上昇による海外での販売数減少は考慮に入れていません。

 日銀は自らのOBの天下り先である金融機関のことしか考えなかったのでした。彼らにはリーマンショックが円高を通じてどれだけ我が国の輸出産業に打撃を与えるのか想像する能力に欠けていたと言わざるを得ません。

 これだけ為替レートでハンデを背負うと企業単位でどう努力しても焼け石に水です。今から20年前、アジア各地に行くと現地の家電は多くが日本製でした。町を歩けば日本企業の看板も至る所にありました。自動車産業も同じでした。しかし、長くうち続いた円高の悪影響で、気がつけば日本企業はアジア諸国の後塵を拝してしまいました。 一つ一つの企業の努力では克服がとてもできません。我が国企業の創意工夫が足りないことがこの衰退の原因でしょうか。いえ、政治の無策による円高が最大の要因です。企業も個人も金融政策を左右できません。企業も労働者も現場で一生懸命がんばったのですが、政府と日本銀行の無策には勝てませんでした。

 平成20(2008)年10月31日には0.2%の金利引き下げと形ばかりの金融緩和が行われましたが、その後の記者会見でも白川総裁は、「金融緩和効果を上げていくことだけに焦点を合わせれば、金利引下げ幅を大きくするという考え方も出てくると思いますが、一方で、金利引下げ幅を大きくしますと、短期金融市場を中心に金融市場の機能に悪影響が及ぶ可能性があるため、両者はトレードオフの関係にあると言えます。」と金融セクターにのみ気を配って、まったく的外れな危機感のない発言をしていました。

 こうした金融無策により、リーマンショック後のわが国経済は円高に打ちのめされ、失業率も戦後最悪となってしまったのでした。

■日銀の行動をただす「リフレ政策」が必要だ

 私も、参議院議員として予算委員会などで、当時の白川日銀総裁をはじめとする日銀官僚に対して「円高対策を行え」と求め続けましたが、既に金融緩和は十分に行われているとして、日銀の総資産を拡大しない方針は変りませんでした(このあたりのやり取りは8月12日に刊行した拙著「デフレ脱却戦記2」(桜町書院)をお読みください)。

■やるべきことは世の中におカネをどんどん供給すること

 リーマンショック後の最大の政策課題は円高デフレの克服でした(実は現在でもデフレ脱却は引き続き課題でありつづけています)。この経済の停滞の最大の要因は、かつて喧伝されたような金融機関の不良債権などの構造問題ではありません。その解決のためには、先ほどの円の独歩高が生じたロジックを逆回しにすればいいのです。つまり、日銀が金融政策を直ちに転換し、市中におカネを供給するために、国債などを大量に買い入れることによって、先進各国が採用している中央銀行の総資産の拡大をすればいいわけです。こうした「おカネを供給することによって円高やデフレを解決しようとする政策」を「リフレ政策」と呼びます。

 実は、日銀の怠慢はリーマンショックへの対応にはじまるものではありません。日銀の資産を拡大しておカネを供給すべきだということを私は平成22(2010)年から当時与党であった民主党のデフレ脱却議員連盟の事務局長として唱えていたのですが、実現されたのは安倍政権の下でした。実はそれがアベノミクスの「第一の矢」でした。

by めい (2018-11-09 05:09) 

めい

異色の経済学者 小宮隆太郎氏は何を残したか
2023年4月12日 16時12分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230412/k10014029451000.html

   * * *

白川方明氏 論争に“勝つ”ではなく…
白川方明氏(左)と小宮夫妻
日銀総裁を務めた白川方明氏。大学のときに小宮氏の著書を読み、経済学に興味を持つようになった。

そしてゼミで小宮氏の指導を受ける。
白川方明氏
「先生の前で話をするのは緊張しました。どなるとかそういうことではない、語り口はゆっくりした感じ。いいかげんなことを言うと、それはどういう意味?それは間違っているよ、とかぴしゃっと言うわけですよね。そうすると、こっちもさらに緊張する。非常に論理的で、主張に対してファクトの裏付けがあるのかとか、君の使っているその概念はどういう意味なのかとか、自分たちがいかにいいかげんにしゃべっていることを気付かされる。そういう意味で、知的な怖さを感じました。たぶん、それは僕だけでなく、みんな感じていたと思います」
幹部として金融政策を担当していた2000年前後、日本が低成長に陥った原因について、日銀の金融緩和策が不十分だからだという批判の声が高まっていた。

白川氏自身は、すでに金利がゼロのもとで金融緩和策では根本的な問題は解決できないと考えていた。

なぜ、理解されないのか、歯がゆさを感じていたころ、小宮氏から一本の電話が入った。
「休みの日の朝、先生から電話がかかってきて、『あまりにも日銀バッシングがひどいので、自分が反論の論文を出したい』と言われました。いくつかの技術的な質問に答えると、その後、先生が一連の反対の論文を出しました。その後も『意見の対立はあるけど、論点を明らかにした上で、きちっとした議論が必要だ。自分はそういう議論の場をつくりたい』と声をかけられました。賛成派と反対派と集まって、座談会をやり、反論やその反論、そのまた反論を繰り返しました」
後にこれらの”論争”は一冊の書籍にまとまった。

恩師が議論を交わす場を提供してくれたことに、白川氏は100万もの援軍を得た気持ちになったという。

そして2002年、白川氏が理事に就任する際、小宮氏から長文で、お祝いのメールが送られてきた。
「これからの君の役割は、論争に勝つことではない。多くの人に説明をし、理解を得ることが大事だ」
争いに勝つことでなく、理解を得る努力を。

理事という職責を意識させてくれた恩師のことばは白川氏の心に響いた。
白川方明氏
お別れの会で弔辞を読んだ白川氏。

小宮氏の遺影の前で、感謝のことばを述べた。
「私が日本銀行で金融政策の運営の責任を担うようになった際、難しい判断のたびに、先生の姿勢を思い起こすことで先生に背中を押されているように感じ、仕事に必要な勇気をいただいた」
日銀を退任後、白川氏は、小宮氏が教授を務めていた青山学院大学で教壇に立つようになった。

by めい (2023-04-14 06:23) 

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