吉里吉里忌(5)置賜人 井上ひさし [井上ひさし]
吉里吉里忌(4)『組曲虐殺』 [井上ひさし]
吉里吉里忌(3) 井上ひさしにとっての宮内 [井上ひさし]
吉里吉里忌(2)井上ひさしと小田仁二郎 [井上ひさし]
「吉里吉里忌」(1) 栗山民也氏の思いの極み [井上ひさし]
追悼(3) 置賜人・井上ひさしさん [井上ひさし]
「週刊置賜」に寄せた追悼文です。
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井上ひさしさんが小松の生れであることを知ったのは、まだ学生の頃『手鎖心中』を他人事ではない思いで読んでから大分経ってからだった。隣町生れであることを知ったときの驚きは、当時畏敬すべき思想家であった吉本隆明という人が米沢で学生時代を送っていたことを知ったときの驚きに比肩しうる驚きだった。いずれも、マイナーな地域と思って育ってきた置賜を、まんざら捨てたものでもないと思うようになるきっかけとなった。
<追悼 井上ひさしさん(2)>「花よりタンゴ」「しみじみ日本・乃木大将」観劇記 [井上ひさし]
<追悼 井上ひさしさん> 「きらめく星座」観劇記 「生真面目」の復権 [井上ひさし]
井上ひさしさんが亡くなりました。昭和57年の夏、小松の学校の体育館で講演された時からのご縁があります。いや、さかのぼれば学生時代「手鎖心中」を読んだときからといえるかもしれません。その時、井上さんが小松生れであることはまったく知りませんでしたが。
井上さん関わりでいろいろ書いていました。
まず、昭和60年11月16日の「週刊置賜」に書いた「きらめく星座」の観劇記です。
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「きらめく星座」観劇記
「生真面目」の復権
開幕の十数分前、劇の舞台となる昭和15年当時の流行歌のメロディが静かに流れ出した。この音楽に誘われて、会場の中にまでひきずりこんでいた普段の暮しの気分が、演劇を観てるのだという気分へと変わっていくのを感じた。そのとき、これが「文化」というものか、ふとそんな気がした。「文化」を「東京」と言い換えてもよかったかもしれない、そんな雰囲気が漂った。子供の頃、東京からの汽車を見て、この線路がず-つと東京まで続いているんだなあと思った時の感慨に似ていたといえなくもない。そして、われわれ置賜人のために井上ひさし氏が果たしてくれつつある役割といったことも頭をかすめたのだった。さて、幕が開く。