ノーベル平和賞候補だった賀川豊彦先生(山形新聞) [賀川豊彦]
「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(承前) [賀川豊彦]
賀川先生の文章の中に「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(ヨハネー四・二七)があって心に掛かった。この節は、先の賀川先生一連の文章に目を通す中で行きあたったのだが、中にこんな箇所があった。
《私は神戸の四万五千人の大労働争議の時、捕えられて刑務所の独房に入れられた時の感謝を今も忘れる事は出来ない。独房は私の最もよき訓練所であり、道場である。/『小人閑居すれば不善をなす』と孔子はいっているが、閑居して最善をなし得るものにのみ天下をまかせ得ると私は考える。独居を楽しみ得るものに全能者は顔を見せ給う。》(「独居」)
熊野先生の言葉を思い起こしていた。
《斎行の時と次第を定めて厳修する御神前でのお祭を、タテと致しますれば、世俗の事に従うとき、人知れず修するものはヨコであり、顕斎と幽斎との別ちに似たものがあります。バスを待つ間とか、読書に疲れて閉目し椅子によるひとときや、朝のめざめの直後、或は就寝の直前床上に端座閉目して行うも宜しく、神気充溢の折は、事務室で人と雑談していても尾てい骨に熱気の移動を感じる人は多いと存じます。寸暇を惜んで常住座臥到る処で「保豆祢神語(ホズネノカムコト)」や「返本魂霊唱(ヘンホンコンレイショウ)」「招運魂神語(ショウウンコンシンゴ)」等を、口中に唱え奉る喜びは何ものにも替え難い黄金の時間帯であります。この自修鎮魂の妙味を知るときは、車中、週刊誌や新聞を読むなどは泥水で手を洗う愚であります、天行居同志にとってはまさに光陰の惜むべきを知らぬ行為でありましよう。通勤の電車の中などは誰に気兼ねも無い世に得難い独りの時間であります》
そして、まだ読み切らないまま埃をかぶっていた『シュタイナー ヨハネ福音書講義』はどういう見解かと引っ張りだして驚いた。賀川豊彦、熊野秀彦、シュタイナー、この三人が私の中でリンクしたのだ。『ヨハネ福音書講義』の最終講を見る。
「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」 [賀川豊彦]
昭和26(1951)年10月5日、賀川豊彦先生が宮内熊野講堂で何を語られたか。それを知りたくていて、その頃から最晩年に書かれたものに目を通した。(『空の鳥に養われて』『続・空の鳥に養われて』 ※キリスト新聞「不儘油壺」欄に昭和21年3月から昭和34年12月まで書かれた。全集22巻と24巻所収)親しく感じられたいくつかをメモしておく。
幼児を我に来らせよ 天国に入るもの かくの如し 賀川豊彦 [賀川豊彦]
宮内よもやま歴史絵巻「賀川豊彦と宮内」 [賀川豊彦]
(賀川豊彦 明治21年(1888) 〜 昭和35年(1960))
賀川豊彦は、貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャンでした。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなりました。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたといいます。生活協同組合の運動を立ち上げたのも賀川豊彦です。社会事業家として、政治家として活動の範囲は世界中に及びました。ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられています。
(昭和8年(1933)2度目の来訪時。熊野大社土社神社前。(前列中央))