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ノーベル平和賞候補だった賀川豊彦先生(山形新聞) [賀川豊彦]

賀川豊彦先生とノーベル賞.jpg今朝の山形新聞に、賀川豊彦先生の写真が載っていて驚きました。ノーベル平和賞の最終候補だったことが3回もあるという資料が開示されたという記事です。吉田茂元総理が平和賞候補だったというのがメインの記事なので、賀川先生はノーベル文学賞の候補にも2回なっていることについては触れられていません。賀川先生については宮内認定こども園の生みの親としてこれまでもしばしば取り上げてきましたが、一般的にはほとんど忘れ去られた人だったので、今日の記事はうれしいです。

これまで書いた賀川先生関連記事をあげておきます。

・幼稚園創立五十五周年にあたって
・神道への回帰?
・幼稚園創立60周年記念事業無事終了
・宮内幼稚園60年のあゆみ
・宮内よもやま歴史絵巻「賀川豊彦と宮内」
・芦名定道先生「子どもたちの未来へー幼児期、そして人生における『祈り』の意味」
・幼児を我に来らせよ 天国に入るもの かくの如し 賀川豊彦
・宮内の歴史(9)戦後、南陽市になるまで
・「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」
・「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(承前)
・「ブランド力」を高める (年頭講話資料)
・「宮内認定こども園」の歴史・「祈り」について(平成29年度辞令交付式講話資料)
その中から「宮内よもやま歴史絵巻」の「賀川豊彦と宮内」です。↓
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「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(承前) [賀川豊彦]

賀川先生の文章の中に「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(ヨハネー四・二七)があって心に掛かった。この節は、先の賀川先生一連の文章に目を通す中で行きあたったのだが、中にこんな箇所があった。


《私は神戸の四万五千人の大労働争議の時、捕えられて刑務所の独房に入れられた時の感謝を今も忘れる事は出来ない。独房は私の最もよき訓練所であり、道場である。/『小人閑居すれば不善をなす』と孔子はいっているが、閑居して最善をなし得るものにのみ天下をまかせ得ると私は考える。独居を楽しみ得るものに全能者は顔を見せ給う。》(「独居」)


熊野先生の言葉を思い起こしていた。


《斎行の時と次第を定めて厳修する御神前でのお祭を、タテと致しますれば、世俗の事に従うとき、人知れず修するものはヨコであり、顕斎と幽斎との別ちに似たものがあります。バスを待つ間とか、読書に疲れて閉目し椅子によるひとときや、朝のめざめの直後、或は就寝の直前床上に端座閉目して行うも宜しく、神気充溢の折は、事務室で人と雑談していても尾てい骨に熱気の移動を感じる人は多いと存じます。寸暇を惜んで常住座臥到る処で「保豆祢神語(ホズネノカムコト)」や「返本魂霊唱(ヘンホンコンレイショウ)」「招運魂神語(ショウウンコンシンゴ)」等を、口中に唱え奉る喜びは何ものにも替え難い黄金の時間帯であります。この自修鎮魂の妙味を知るときは、車中、週刊誌や新聞を読むなどは泥水で手を洗う愚であります、天行居同志にとってはまさに光陰の惜むべきを知らぬ行為でありましよう。通勤の電車の中などは誰に気兼ねも無い世に得難い独りの時間であります》


そして、まだ読み切らないまま埃をかぶっていた『シュタイナー ヨハネ福音書講義』はどういう見解かと引っ張りだして驚いた。賀川豊彦、熊野秀彦、シュタイナー、この三人が私の中でリンクしたのだ。『ヨハネ福音書講義』の最終講を見る。


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「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」 [賀川豊彦]

昭和261951)年105日、賀川豊彦先生が宮内熊野講堂で何を語られたか。それを知りたくていて、その頃から最晩年に書かれたものに目を通した。(『空の鳥に養われて』『続・空の鳥に養われて』 キリスト新聞「不儘油壺」欄に昭和21年3月から昭和34年12月まで書かれた。全集22巻と24巻所収親しく感じられたいくつかをメモしておく

揮毫する賀川先生.jpgお 賀川先生色紙.jpg

 

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幼児を我に来らせよ 天国に入るもの かくの如し 賀川豊彦 [賀川豊彦]

賀川先生色紙2.jpg
幼児(おさなご)を我に来らせよ 天国に入るもの かくの如し
              1951・10・5 宮内 賀川豊彦

宮内幼稚園の宝物、賀川豊彦先生の色紙です。

マドモアゼル愛さんが「愛の日記」5月5日号に「子供の日」と題して書いておられます。
うれしい文章がありました。

誰でも幼子のようにならなければ神の国にはいることはできない、、、とイエスは言ったが、それはすべてが仲間であり、すべてが自分だという意識を持てるかどうかということだ。

3月23日の宮内幼稚園創立60周年の記念品は、この色紙をプリントしたマグカップでした。
DSCF9441.JPGDSCF9438.JPGDSCF9433.JPG
色を何にしようかと迷った末、10何色、いろんな色のマグカップができました。

若干の設備投資が必要でしたが、染物屋の仕事領域が賀川先生のおかげで広がりました。
とはいえ、家内には「儲からない仕事ばっかり」とあきれられています。

以下、マドモアゼル愛さんの「子供の日」全文です。

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宮内よもやま歴史絵巻「賀川豊彦と宮内」 [賀川豊彦]

 賀川豊彦と宮内 [更新済み].jpg

   (賀川豊彦 明治21年(1888) 〜 昭和35年(1960))


賀川豊彦は、貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャンでした。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなりました。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたといいます。生活協同組合の運動を立ち上げたのも賀川豊彦です。社会事業家として、政治家として活動の範囲は世界中に及びました。ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられています。 


    (昭和8年(19332度目の来訪時。熊野大社土社神社前。(前列中央))

 

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神道への回帰? [賀川豊彦]

あれから1年、3月11日だ。
当然のことながら、死と共にその人の記憶は消える。安藤孝行教授が「文字として記録することによって魂は不死を得る」 と語られたのを思い起こす。このところ古い記憶をたどらせられることが多い。
 
「賀川豊彦」で検索していて、京都大学のキリスト教学科芦名定道教授の父芦名直道氏による「我が家族史」に行きあたった。その中に
≪昭和27年4月 、良子と能子は賀川豊彦の勧めにより宮内教会再建と幼稚園開設のため宮内の牧師館に移り住む。≫
とあるのを見つけた。
「良子」は直道氏の妻、つまり定道教授の母であり、「能子」は直道氏の妹である。良子先生については記憶がないが、能子(よしこ)先生は私にとって忘れようにも忘れられない先生だ。私の叔母がこの幼稚園に勤めたため、開設まもなく、私はそれまで通っていた保育園から無理やり転園させられた。そのとき必死で抵抗したことがはっきり記憶にある。その私を迎え入れてくれたのが能子先生だった。私が「教育された」と自分で意識できる最初の先生だ。この先生に出会わなかったら、その良し悪しはともかく全然ちがう人間になっていたにちがいない。

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