米沢英語研究懇話会で「置賜発アジア主義」 [アジア主義]
・上杉茂憲公漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」、そして「戊辰雪冤」へ
・雲井龍雄から曽根俊虎へ
・宮島誠一郎、雲井龍雄、内村鑑三に共通する政体論(「民主主義」への懐疑)
・宮島誠一郎の生涯
・河上清、遠藤三郎、平貞蔵の「アジア主義」
・大井魁の思想的意義
・これからの時代
「置賜発アジア主義」(最終回)むすび [アジア主義]
むすび
戦前の対外的膨張ナショナリズムに同化させられたアジア主義とは異質な、もうひとつのアジア主義の流れが、この置賜から流れ出していることに気づかされ、その都度メモっていたものを一本にまとめてみました。
なぜ置賜なのか、思い当たるのはやはり、謙信公に発し直江公を経て鷹山公によってしっかり根付かされた置賜のエートス(精神風土)です。≪雪の深い一本道で誰かが出逢ったその時に、自ら避けて人を通そうと思う心は素直な人間の自然にとる道であろう。≫(「興譲館精神」)―― 何も難しくはない、要するに自然の情理に沿うことです。置賜発アジア主義とは、主義をことさら標榜したわけではなく、目覚めた日本が世界に目を向けた時、置賜の空気で育った先人達が自ずと歩んできた道行きです。振り返ると、一本の道筋がついていたのです。
ではこれから先に見えてくるのは何か。
明治中期以降現在までの国民総生産の変化のグラフです。(貨幣価値変動は調整済 https://s.webry.info/sp/naga0001.at.webry.info/201610/article_6.html)
戦前の伸びと戦後の伸びではそのスケールがちがいます。この勢いで、豊かに、便利に、楽に、暮しやすくなったのです。さらに2045年にはAIが人間の知能を超える(シンギュラリティ)と言われ、それに合わせて想像を越えた生産力の発展が考えられます。
生産力の発展が人間の欲望の進化を上回るようになれば、貧しさゆえの争いは無くなります。争ってまで他のところに「王道楽土」を求めなくてもよくなるのです。孫文の言う「王道」と「覇道」で言えば、あえて「覇道」を求める必要はなくなったと言えます。
「置賜発アジア主義」(10)復興アジア主義 [アジア主義]
復興アジア主義
戦後「ナショナリズム」がタブー視されていた時代にあって、いちはやくその必要性を訴えたのは米沢興譲館高校の大井魁先生でした。私も高校3年で日本史を習いました。中央公論に「日本国ナショナリズムの形成」を発表し、当時の言論界に大きな反響を巻き起こしたのは昭和38年、私が高校1年の時でした。その論文は『戦後教育論』(論創社 1982)で読むことができます。(https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-04-07)
《日本国に理性的なナショナリズムを形成することが、今日の急務である。》とするもので、それには《日本帝国時代の日本人と日本国の今の日本人との、歴史的な一体感の回復をおいてはほかにない。国家としての(戦前戦後の)断絶を超えて、帝国臣民の主体的体験を日本国国民が自己の体験としてうけとり、帝国時代の日本を今の日本人の自我のうちにつつみこむことが、日本国にふさわしいナショナリズムの形成の条件である。》とし、最後を《何よりも望まれるのは、日本の五十万の教師の自覚である。日本国の理性的ナショナリズムの形成は、まず日本の教師たちの先覚者的任務の自覚からはじまらなければなるまい。》と締めくくっています。その翌年刊行の『大東亜戦争肯定論』(1964)で、林房雄は大井論文を高く評価しました。締めの文章について《あまりに「先覚者」すぎる日教組の現指導者諸氏はそっぽを向くかもしれぬが、少なくとも半数の二十五万の教師諸氏の胸底には同じ憂いと自覚が芽生えはじめて いるのではなかろうか。憂いは哲学的となり、形而上学的となり、もやもやの雲となっているが、やがて雨となって日本の乾いた土をうるおしてくれるかもしれない。》と記しています。
「置賜発アジア主義」(9)「九州発アジア主義」と「置賜発アジア主義」 [アジア主義]
「九州発アジア主義」と「置賜発アジア主義」
孫文は大正13年(1924)神戸で2000人の聴衆を前に「大亜細亜問題」と題する演説を行いました。《東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義合理によって人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧追するものであります。》とし、公刊された演説原稿の最後は《貴方がた日本民族は、既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の手先となるか、或は東洋王道の防壁となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な選択にかかるものであります。》と締められています。実は演説の前日、孫文は頭山満と会談、満州をめぐっての意見の対立が明らかになっていたのです。「九州発アジア主義」は満州利権確保を狙う帝国ナショナリズムの側に絡めとられてしまっていました。満州権益をめぐる日中立場の違いが表面化しつつある中での孫文演説だったのです。
「置賜発アジア主義」(8)宮島誠一郎と宮島大八(詠士) [アジア主義]
宮島家(猪苗代片町/西大通り2丁目 善行寺南隣)
宮島誠一郎と宮島大八(詠士)
宮島誠一郎は、米沢藩の名誉を挽回し明治国家の中で生き残っていく道を模索しつつ、進んで新政府に合流し国家的見地に立って左院・修史館・参事院・宮内省 に奉職、後進の道を切り開きました。米沢からの数多の海軍登用は、実弟小森沢長政(1843-1917)の功はさりながら、勝海舟以来の誠一郎の力あってのことでした。明治29年には貴族院議員に勅撰されています。また明治5年左院少議官時代に、「国憲を立つるの議」(「立国憲議」)を提出して憲法制定の必要を説き、「日本民主政治の先駆け」との評価もあります。宮内省御用掛として明治天皇に親しく仕え、帝室典範制定の中心的役割を担います。明治天皇の厚い信頼について詠士門下の平貞蔵が記しています。 《宮島誠一郎は東亜の情勢に通暁していた。東亜問題に関する知識と識見のほどは、重要な問題の発生した折、「そのことに就て宮島の意見を聞いたか」と、度々明 治天皇から係りの者に御下問あったことによって知られよう。政治的意見の対立がある時、有力な政治家の間に立ってしばしば調停役をはたしたことも文書や書 翰が伝えている。》(『宮島詠士先生遺墨選』)
誠一郎は、嘉永3年(1850)から明治41年 (1908)までの詳細な日記のほか多くの貴重な文書を残しました。それらは、早稲田大学、国立国会図書館、上杉博物館 に「宮島誠一郎文書」として所蔵され、近年になってようやくその研究の成果が論文、著書として次々発表されるようになってきました。私には、宮島誠一郎こ そ大河ドラマに取り上げるにふさわしい人物に思えます。日本の近代の出発を、「白河以北」の立場も加えた視点から見直すことになるだけでなく、誠一郎を軸 に「雲井龍雄→曽根俊虎→宮島大八」の生き方、思いを追うことで、アジアユーラシア世界の明るい未来ビジョンが拓けてくるような気がします。
「置賜発アジア主義」(7)宮島誠一郎と雲井龍雄 [アジア主義]
10月14日「上杉メモリアルフェスタ戊辰戦争150年」 の一環として開催された、米沢御堀端史蹟保存会による友田昌宏氏(東北大学 東北アジア研究センター助教)の講演「雲井龍雄から受け継がれたもの〜米沢の民権家を素材に〜」は実に聴き応えがありました。後世雲井龍雄が広く世に知られるようになったのは、全国に広がった自由民権運動と共にであったことが、よく腑に落ちてわかりました。それから間もなく、友田著『東北の幕末維新: 米沢藩士の情報・交流・思想』が上梓され、一気に読ませられました。
その「おわりに」で、幼少より深く交流あった宮島誠一郎と雲井龍雄とが対比されています。二人を分けたのは生来の気質個性に加え、それぞれが出会った師の存在でした。
《誠一郎は慶応四年の戊辰戦争のおり、勝(海舟 1823-1899)と出会うことで、封建体制から中央集権体制へと国家意識転換の契機をつかみえたのであるが、龍雄は慶応元年に江戸に上り、安井息軒(1799生)の薫陶をうけることにより、その封建思想をいっそう強固で揺るぎないものとした。そして、それは戊辰戦争での探索周旋活動を経ても変わることがなかった。》
多くの詩に込められていた雲井龍雄の精神は、自由民権運動の中で息を吹き返します。《明治十年代、立憲政体を樹立すべく自由民権運動が全国的に隆盛を極めるが、その民権運動に身を投じた壮士たちが愛唱してやまなかったのが、龍雄の詩であった。》しかし一方、《誠一郎はと言えば、明治五年にいち早く立憲政体 の樹立を提唱したにもかかわらず、民権運動を蛇蝎の如く忌み嫌った。》なぜなら誠一郎にとっての立憲政体構想は、「君民同治」の理念の下に考えられていました。すなわち《立法権を君と民が分有することとしつつも、政府をあくまで天皇の代理者とし、その政府のもとに行政権を置こうとするものであった。》したがって《民権運動が目指す議院内閣制では、選挙でもっとも多くの人民から支持を得た政党が内閣を組織し、行政をも担当することになる。両者の政権構想が相容れないものであったことはここに明らかであろう。》
「置賜発アジア主義」(6)雲井龍雄と内村鑑三 [アジア主義]
その内村が雲井龍雄を評価する文章を書いています。友田昌宏氏の著で知りました。
《内村鑑三は「萬朝報」(明治30年4月20日) の社説で、「起てよ佐幕の士」と題して「諸士に賊名を負はせ、諸士の近親を屠り、諸士をして三十年の長き、憂苦措く能はざらしめたる薩長の族ハ今や日本国民 を自利の要具に供しつゝあるに非ずや、若し雲井龍雄をして今日尚ほ在らしめバ彼等ハ何の面ありてか此清士に対するを得ん」と雲井を引き合いに出しつつ薩長藩閥の専制を批判し、「嗚呼諸士の蒙りし賊名を洗ひ去るハ今なり、諸士何ぞ起たざる」と「佐幕の士」に呼ぴかけた。彼らは内村の呼び掛けを待つまでもな く、このような思いをより深く胸に刻み付け、自由民権運動に邁進していたのである。》(友田昌宏「雲井龍雄と米沢の民権家たち――精神の継承をめぐって」『東北の近代と自由民権―「白河以北」を越えて』所収)
雲井龍雄は自由民権運動の中に甦ったのです。
「置賜発アジア主義」(5)雲井龍雄と曽根俊虎 [アジア主義]
曽根俊虎は三歳年上の雲井龍雄(1944-1971)を敬愛して止みませんでした。尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の場面に、極めて印象深く曽根が登場します。
明治3年8月、雲井龍雄が米沢から東京に檻送され、小伝馬町の牢に送られる前の三日ほどを藩邸の獄で過します。名詩の誉れ高い「辞世」はここで生まれました。
死不畏死 死して死を畏れず
生不偸生 生きて生を偸(ぬす)まず
男児大節 男児の大節
光興日争 光、日と争う
道之苟直 道苟(いやしく)も直くば
不憚鼎烹 鼎烹(ていほう)を憚(はばか)らず
渺然一身 渺然たる一身
万里長城 万里の長城
龍雄拝
尾崎は言います。
「置賜発アジア主義」(4)置賜的「アジア主義」 [アジア主義]
米沢藩士の「アジア主義」
明治14年の福岡黒田藩士が中心となった玄洋社発足に先立ち、明治13年、日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり源流とされる興亜会が設立されています。その前身は、米沢藩士曽根俊虎(1847-1910)、大八の父宮島誠一郎(1938-1911)等による振亜社でした。曽根は孫文(1866-1925)を宮崎滔天(熊本出身/1871-1922)に引き合わせた人物としても知られます。宮崎滔天は、中国革命の日本人支援者として中心的役割を果すことになります。
曽根俊虎については、狭間直樹京都大名誉教授がその真っ当さを評価しています。曽根にある「万国公法」に基づく公平性、そしてその根底には、儒学的教養に忠実な「政治とは民生の安定にある」とする思想があったといいます。
「置賜発アジア主義」(3)宮島大八(詠士)と中野正剛 [アジア主義]
明治14年(1881)旧福岡(黒田)藩士、頭山満(1855-1944)、内田良平(1874-1937)らが中心となって結成された玄洋社(黒龍会)があります。アジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する「大アジア主義」を標榜した団体で、日本最初の右翼団体ともいわれます。「我が国勢を伸張する」という「遠大の見地から支那革命に参画」(黒龍会)、しかし大東亜構想の行き着くところ、帝国主義的野心と一体化、悲惨な敗戦への道をたどることになります。一時期、中野正剛(福岡出身/1886-1943)はその中心的イデオローグでした。
実はもうひとつの「アジア主義」の潮流がありました。帝国主義的野心をもって戦火への道を開くことになる中野らとは明確に一線を画す、米沢藩と深く関わる「アジア主義」です。ふたつの「アジア主義」のちがいわかるエピソードが、木村東介(1901-1992)の『女坂界隈』(1956)に記されています。田中角栄時代のご意見番として「元帥」の異名をもつ木村武雄代議士(1902-1983)の一歳違いの兄で、無頼の人生を経て民族美術の発掘紹介に生涯を捧げた東介が、宮島大八(1867-1943)との一度きりの出会いを記した一文です。日支事変(1937)から間もなく、木村が「雲井塾」を立ち上げた時のことです。