秋野太作著『私が愛した渥美清』(付 早坂暁氏訃報) [メモがわり]
早坂暁さんの訃報を知った。ちょうど、秋野太作著『私が愛した渥美清』のアマゾンレビューに関連して、寅さんについて書いたところで、あとは山田洋次監督という人についてちょっと書き加えてアップしようと思っていたところだった。早坂さんと渥美さんはお互いデビュー前からの知友だったという。早坂氏が『私が愛した渥美清』の中で、最重要人物として登場している。以下、「二本で暮らすいい男」全文(294-299p/太字転載者)。
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いつ終わるともなく、まだ、映画『男はつらいよ」の作られていた、それは今から回想すれば、あの長大なシリーズの中ほどにあたる時期だった。
私はその日、所用があって、四国香川県松山市に滞在していた。『坊ちゃん」がらみのテレビ番組の取材旅行のためだった。
私は、その時、市の文化会館にいた。
仕事に一段落が付き、小休憩を迎えて、会館の二階にあるテイールームに立ち寄り、私はつかの間の休息をとった。スタッフからは離れて、私は一人だった。
公共施設のその喫茶室は実にのどかで、あきれたことには、午後の素晴らしい時間帯なのに、私以外にはお客さんの姿が一人もなかったのだ。その日は催し物がない日だった。
ウェイトレスを務める中年の女性が私を見ると、親しみを込めた微笑みを浮かべながら近寄ってきて、おっとりとした地元なまりの声で話しかけてきた。
「ついこの間ですけど、アツミキヨシさんが、そこの席でコーヒーを飲んでいらっしやいましたよ」
「……はあ?」と、驚いた。
突然だった。
……こんな所で、この女の人は何を言い出すのか? と、一瞬とまどった。
彼女は、私の座る前の席を指差してそう言ったのだ。
「渥美清さんがって?………そ、それは、どうして……なのですか?」
「早坂暁先生の講演会に一緒においでになられたのですよ」
「ええ? 渥美さんが? 講演をしたの?………ここで?」
「いいえ、ここのホールで、早坂先生が講演をしていらっしやる間、そこの席に座って、一人で静かにコーヒーを飲んで、講演の終わるのを待っていらっしやったんですよ」
「ああ〜」と、やっとわかった。
意外なところで、意外なことを言われて、私は、とっても驚いた。
ゆったりとした革張りの座席だった。
大きな窓ガラスから射し込んでくる陽の光を浴びて……一人、黙ってコーヒーをすすっている渥美さんの後ろ姿が……私の瞼に浮かんで……ふんわり消えた。
(渥美さんは、今、そんな暮らしをしているんだ)
はからずも、渥美氏がその当時過ごしていた日常の……何気ない一場面を、彼の意向に反してこっそりと後ろから覗き見してしまったような、奇妙な幻覚に陥った。
作家早坂暁氏は、この地、松山出身の著名人だ。渥美氏とは互いに世に出る以前からの知友であった。誘い合ってこの地を訪れたのか……。
これはその、少し以前の出来事になるのだが……私は自分の出演舞台の招待状を渥美氏に送っていた。観劇券だ。折り返し「旅行の予定があって見には行けない。良い仕事をするように」というハガキの返事を受け取っていた。
映画や芝居を誰よりも勤勉に見て勉強していると、業界内では定評のある人だったが、
(最近では出不精になっているのかなあ)と、私はフト思ったりもしていたのだ。
渥美さんは、いつの頃からか業界内で「一年を二本で暮らすいい男」と囁かれる身になっていた。年間二本の映画に出演するだけで充分な高額のギャラを貰っているという意味だ。それ以上働いても、多分、税金に持っていかれるだけ……と、噂をされる金額だった。
早坂氏は、この頃の渥美さんにいくつかの企画を提供していたそうだ。
脚本の仕上がりが遅く「おそさか、うそつき」とまで言われる称号を得ていた早坂暁氏
が、完成台本を見せてまで熱心に勧めた作品もあったが、渥美氏の腰は重かったという。
漂泊の俳人、山頭火のドラマだった。
「《寅》のイメージと、あまり違うことは……」
と、渥美さんは結局、二の足を踏んだという。(笑いがなかったからだと思う)
山頭火は酒乱だった。ボロクズのように四国松山の道端で野垂れ死にをするのだった(早坂氏は子ども時代に、泥酔して道に寝ているそのボロクズを何度か目にしているそうだ)。
――いつの頃からか、渥美さんは、公の場に……映画とは関係のない私的な立場で出ていても、常に、寅さんのイメージを守って振る舞うようになっていた。
テレビカメラやマイクの前では、あの寅さん口調を律儀に守った。
後に……
早坂暁さんが……
「渥美清の訃報」を聞いた時に……
求められて――発した――
というコメントが、新聞紙上に載っていた。
「渥美清は、松竹映画に、飼い殺されたのです」
これを読んだ時、私は(ナンテコッタ:・・・・)
と、思った。
まさしく……
これは……
正確に……
切なくも……悲しくも……
嬉しくも……
ズバリと……、
私の気持ちを、代弁してくれている言葉だったのだ。
あの時……
誰を、はばかることもなく、
即座に、ハッキリと、こう言い放ったのは
どこを、どう、見回して見て……
さすがの*天才・早坂暁、……ただ、一人だった。
*早坂暁さんには『天下御免」(NHK・一九七一〜七二)でも、私は一年間お世話になっている。これはテレビドラマ史上に残る大傑作喜劇だった。その後、シナリオが単行本として出版され、この種の本としては珍しく、いまだにロングセラーを続けている。
渥美さんは後に「あれ、暁さんが平賀源内役でおれにやらないかと勧めてくれていたんだよ」と、私に打ち明けてくれた。……とてもビックリした。
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秋野太作『私が愛した渥美清』(光文社 2017.10)アマゾンレビュー。五つ星。
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ほとんど半世紀前寅さんに出会い、以来寅さん映画をBGMのようにして生きてきた者にはほんとうにありがたい本で、読み進むのがもったいないが早く先を読みたい 、そう思いつつ読み終えた。
渥美清という人にも、山田洋次という人にもあらためて納得。蛇の目を秘めた渥美清と妥協を赦せぬ山田洋次の冷徹さと計算高さ(インテリさ)、相俟っての全48作であったかと。決して安易に積み重ねられた26年間ではなかった。寅さんを観る目に奥行きを得た。
いいエピソードがいっぱいちりばめられている。渥美清中央大学卒業説に納得。『夜明け前』の滝沢修の演技との対極性が際立つ話もいい。観念性に対する実存性とでも言うべきか。まさに「生きている」寅さんだった。だから何回見ても飽きないのだ。
秋野氏の人間性と筆力で、素(す)の渥美清を垣間見せてくれた快著。
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『男はつらいよ』の映画第一作封切が昭和44年8月。その年の1月に大学がストライキに入っていた。いろんなアルバイトをやったが、その土地でいちばん繁華なアーケード商店街で裏表に看板(何の宣伝だったか全く覚えていない)をぶら下げてアーケードを行ったり来たりする、いわゆるサンドイッチマンを何日かやった。ちょうどターン地点に映画館があってそこから流れていたのが「オーレがいたんじゃお嫁に行けぬ・・・」。テレビとは無縁の暮らしだったので、テレビの寅さんは全く知らないし、評判も知らない。その時からその歌は頭にこびりつくことになったが、はじめて寅さんの映画を観たのはそれからしばらく後のように思う。若尾文子がマドンナ役の第五作『望郷篇』(昭和45年)あたりからか。若尾文子が風呂に入っている時の渥美清と森川信のやりとりは、後々思い出すだけでもおかしかった。小便臭い場末の映画館で、未見の寅さん2本立てか3本立てをまとめて観た。映画館が湧きに湧いた記憶がある。何作目までだったかの簡易製本のシナリオ集がどこかにあるはず。映画のセリフをそのまま再現したシナリオ集で貴重だ。あまり知らない誰だったかに貸してあきらめていた頃に戻ってきたはずだが、今は探せない。5巻ぐらいの『山田洋次作品集』も買った。今、古い書棚から『世界の映画作家(14)加藤泰・山田洋次」を見つけてきた。津坂(秋野)氏の写真があった。山形に戻っても何回かは新作が出るたびに映画館に行ったものだがいつのまにか疎遠になった。それが数年前から土曜日の夜BSで全作放映するようになって、家に居ればそれに付き合う。観ながら酒を飲んだりすると途中寝入ってしまったりで、最初から最後まできちんと観ているわけではない。観るたびに新鮮に思えるのはそのせいかもしれない。マドンナ役では初期作品の佐藤オリエ(第二作「続・男はつらいよ」1969)や榊原ルミ(第七作「奮闘篇」)が心に残る。登場する土地では、ちょうど中林梧竹にはまっていた頃BSで観た佐賀の小城町がたまらなくよくて、いつか行ってみたいと思うようになっている。第42作目で、後藤久美子だった。(未完)
【追記 2023.12.25】
倍賞千恵子 私の履歴書(24)渥美さん
1996年8月6日夜。
電話のベルが鳴った。
山田洋次監督からだった。
「倍賞君……。渥美さんがいなくなっちゃったよ……」
消え入りそうな小さな声だった。
奥さんから連絡があり、2日前に病院で息を引き取ったという。移転性肺がん。68歳という若さだった。
(え? うそ……)
私は言葉を失い、すぐに頭の中が真っ白になった。
体調が思わしくないことは知っていた。でも、突然亡くなるなんて……。奥さん、長男、長女の家族3人で見取り、すでに密葬したという。
「死に顔だけは絶対に人に見せるな。火葬して骨にしてから世間様にお知らせしろ」
これが遺言だったそうだ。
実は秋から「男はつらいよ」シリーズ49作目の撮影に入る予定で1カ月ほど前、打ち合わせのために東京・代官山のレストランで会ったばかり。
渥美さんは珍しくステーキを注文し、ペロリと平らげていた。だからすっかり安心していたのだ。撮影に向けて自らを奮い立たせていたのだろう。食欲がないのに少し無理をしていたのかもしれない。
帰り際、渥美さんとこんな会話をしたのを覚えている。
「俺、少し老けたか?」
「うん。そりゃ、老けたよ。でもさ、もし同年代のクラス会があったら、一番若く見えるのは渥美ちゃんだよ」
「ほぉ、そうかい……」
細い目がニコリと笑った。
それが最後の姿――。
(そうだ、リリーさん)
山田監督から連絡を受け、私は浅丘ルリ子さんの自宅に電話をかけた。そうしなきゃいけない気がしたから……。
ルリ子さんはマドンナ役で地方のキャバレーをドサ回りする歌手リリーを演じていた。根無し草で寅さんと似た者同士。「いつかお兄ちゃんと結婚すればいいのに」と私はずっと思っていたのだ。
一時期、私は東京・西麻布に住んでいたのでルリ子さんとはご近所同士。食事をしに自宅にお邪魔するなど私生活でも大変仲良くしていた。
電話で訃報を伝えると、ルリ子さんは涙で言葉を詰まらせて押し黙ったまま。大きな衝撃を受けた様子だった。
渥美清さん――
69年に「男はつらいよ」が始まって以来、兄妹役で共演してきたが、私は本当のお兄ちゃんのように感じていた。
「さくら、幸せかい?」
「うまくやってるか?」
仕事や恋で悩んでいた時、渥美さんは食事に誘い出してくれた。でも細かなことを尋ねてくるわけでもない。ただ美味しいご飯をごちそうになって帰るだけ。黙って私の傷付いた心を癒やし、励ましてくれていたんだと思う。
世間から「さくら」として見られることに私が疲れた時にもこう諭してくれた。
「さくら、さくらって、ファンの方に言ってもらえて役者冥利に尽きるぞ。そんな幸せなことはないんだから」
小六さんと結婚した時にも10万円入ったご祝儀袋をくれた。それで北海道の別荘に置く冷蔵庫を買い、大切に使っていた。
「お別れする会」は8月13日に松竹・大船撮影所で開かれた。演出を手がけたのは山田監督。4万人近いファンや関係者らが駆け付けた。
優しく微笑む渥美さんの遺影に向かって弔辞を読んだ。
「お兄ちゃんと呼べなくなって寂しいよ……。人間として、俳優として誇りに思っています。出会えて本当に良かった。どうもありがとう」
ただ1人の"兄"を失い、私の心には今も大きな穴がポッカリと開いたままだ。
WEB小説「北円堂の秘密」を知ってますか。
グーグルやスマホでヒットし、小一時間で読めます。
その1からラストまで無料です。
少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
読めば歴史探偵の気分を味わえます。
気が向いたらご一読下さいませ。
by omachi (2017-12-21 13:58)
【追記 2023.12.25】
倍賞千恵子 私の履歴書(24)渥美さん
by めい (2023-12-25 04:58)