母の臨死体験 [わが家史]
韮崎行(1) 大村博士の菩提寺で叔父の一周忌 [わが家史]
叔父(父の弟)の一周忌で山梨県韮崎市に行ってきました。1月23日がその日、奇しくも叔父の父(私の祖父)の47回の命日にあたっていました。祖父がいちばん気にしていたのが、息子3人娘4人の中でこの叔父のことでした。祖母のつくった梅干しができると「英輔に送るんだ」と荷造りする姿が今も目にうかびます。戦後東京に出た叔父は八王子で勤めた靴下工場で職場結婚し、50歳のとき奥さんの故郷に家を求めて韮崎へ。83歳までボイラー技士の仕事に従事したのが自慢でした。昨年91歳で亡くなったのですが、40年間過した土地がノーベル賞を受賞した大村智博士の故郷で、お寺も大村博士の奥さんの眠る寺でした。受賞決定報道の翌日「 ノーベル賞受賞の決まった大村博士は稀に見る大物日本人だった」の記事を読んで大村博士について知りたくなり、ネットであれこれ見ているうちに、生れ故郷の大村美術館の住所が韮崎市神山町鍋山、なんと叔父の住所と同じ、驚いて義叔母に電話、「あーら、こっちから山形に教えてやろうかと思ってたところだった! 美術館だけでなく温泉も掘ってもらって地元ではみんな感謝してるんだよ。ゲートボールに行く途中なのでいつも前を通るんだけど、昨日からずっと車がいっぱい停まってる」。そうこうしているうちに、大村博士の寺の名前に聞き覚えがあると思ったら、やっぱり叔父の眠る寺でした。ということで、俄然大村博士が身近な存在になったのでした。
さて韮崎の駅前、「祝 ノーベル賞」の看板が出迎えてくれます。町にはいたるところにお祝いの幟が立っていました。駅前からバスに乗って鍋山下(なべやましも)で下車、うろうろしていたら近所のおじいさんが行く先を教えてくれました。バスに乗る前も親切なおじさんが「そっちに行くならこのバスだよ」と教えてくれたし、人柄の良い土地です。叔父の選択は正解でした。
叔父の葬儀、山梨県韮崎市にて [わが家史]
2月1日に山梨県韮崎市に住む叔父が亡くなり、葬儀に行ってきました。享年91歳。水曜日に肺炎の疑いで入院、金曜に脳梗塞発症、日曜の朝帰天。7人兄弟の中で唯一人、同じ職場で「恋愛結婚」の愛妻が入院中もずっとそばに居てもらっての大往生でした。8年前に会ったのが最後でしたが、あれから全く変わっておらず、むしろ若くなって見えました。生前は左程似てるとは思わなかったのですが、あまりに祖父と似た顔になっているのに驚きました。祖父が、祖母の梅干しができるといちばん先に「英輔に」と荷造りしていた姿が思い浮かびます。戦前は東京の荏原製作所に勤め、戦火を逃れて帰郷、戦後しばらくして上京、最初の勤務地から八王子の靴下工場に引き抜かれ(今回初めて聞きました)、そこで結婚。50歳の時に奥さんの実家の近くに家を買ってボイラー士の資格を活かして仕事を得、富士山、八ヶ岳が見える韮崎市一望の自然豊かな高台の家で安穏な暮らしを送りました。甲府の銀行やデパートで82歳までボイラー管理の仕事を勤めました。私が生まれた頃はまだ上京前でだいぶ可愛がってもらった記憶があり、上京してからは鉄道大好きで、ふらっと帰郷するたびに大喜びで迎えたものでした。たいてい普通列車を乗り継いでの旅でした。棺の中には宮脇俊三の鉄道の本が納められていました。
3日の通夜に間に合うように出かけました。山梨県に入ると車窓から富士山が見えだしました。韮崎の駅から写真に収めました。線路沿いにある葬祭場へのタクシーからほぼ正面にちらちらと富士山が望めます。運転手さんが「甲府からの富士山は下が山に隠れているので、韮崎からの富士山のほうがずっといい。」と自慢してくれました。「今日は赤富士になる。」と言われてぜひともカメラに収めねばと思ったのですが、まず挨拶をと葬祭場に入って、気がついたらカメラどころでなく、いつのまにか外は暗くなってしまっていました。
慶長5年長谷堂合戦で討死した先祖供養祭 [わが家史]
先日(10月5日)、414年前亡くなった先祖の供養祭(御霊鎮め)を行いました。その経緯を記しておきます。
昨年の4月10日、NHKの歴史秘話ヒストリアで「“愛”の武将美しき絆 ~直江兼続と前田慶次会津にかけた夢~」が放映されました。実はわが先祖はこの二人とは結構近いところにいたのではないかと思われます。(エピソード3 激突!“北の関ヶ原” が「長谷堂合戦」です。)
我が家には和綴8丁(16頁)の「高岡氏累伝記」というのが残っています。私の曾祖父次作がその父吉信(栄四郎)が調べたことを明治20年(1887)に記したもので、時に吉信54歳、次作23歳。私の祖父信太郎が生まれる2年前でした。その後次作は明治34年に37歳で父に先立ち、父吉信は74歳まで生きて明治40年(1907)に亡くなっています。今住む家は吉信生存中に建てたものです。
「高岡氏累伝記」の書き出しは「そもそもわが先祖は上杉の臣にして慶長年間上杉氏越後より会津へ120万石にて御国替えの後、元和3年米沢松が岬の城へ30万石にて御国替えに付き、御供致し米沢城下に住居す。その後上杉氏御嗣絶えたるゆえ15万石に相成るによって、藩中の御扶持もはなはだ減少しゆえに、わが先祖も次第に貧乏を招きついにその名字を他人に譲り宮内村に下り住居す。寺は米沢猪苗代片町善行寺なるゆえ不便なり。故に仮墓地当村正徳寺に設けり。のち享保5年(1720)正月4日世を去れり。すなわち浄昌院釈氏西生居士(俗名勘兵衛)なり。」ではじまっています。
名字を売った先は鷹匠をしていたという家で今も米沢にあり、寺も同じ善行寺。総代長を務めておられます。ただ、この記録以前の事は調べもせずわからないままでした。にわかにその先が開けてきたのは、大河ドラマ「天地人」放映の前年、平成20年の秋、はじめて長谷堂城に登ってきた翌日です。たまたま朝、絶版本なので、定価よりかなり高い古本で買ってそのままにしていた『最上義光物語』をめくっていたら「高岡大隅守」の文字が目に飛び込んできたのです。
高橋卓志著「寺よ、変われ」を読む [わが家史]
高橋卓志著「寺よ、変われ」(岩波新書)を読んだ。いまの時代、出るべくして出た本だ。
すっ飛ばして読むつもりで読み始めたのだが、ずしりとした手応えがあった。観念で書かれた本ではなく、裏打ちある体験から搾り出された本である。言葉にしてもらいたくてうずうずしていた現実が次々に言葉となって繰り出され成った本である。
いま手元に、1年半前父が亡くなった際、和尚が私に渡したメモがある。