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『安藤昌益からの贈り物 石垣忠吉の物語』 [安藤昌益]

安藤昌益からの贈り物―石垣忠吉の物語

安藤昌益からの贈り物―石垣忠吉の物語

  • 作者: 萓沼 紀子
  • 出版社/メーカー: 東方出版
  • 発売日: 2000/12
  • メディア: 単行本
安藤昌益の晩年を明らかにした二井田資料の発見者石垣忠吉の物語である。プロローグにこうある。《二井田資料から窺い知ることのできる安藤昌益は、温厚そうな、ごく普通の田舎親父像だ。烈しい革命家でもなく、高邁な哲学者でもない。彼、孫左衛門は医者としての見立ての確実さで村人の信頼を集め、預言者的な不思議な魅力によってカリスマ性を発揮する。あるときは村人独特の猥談で人を笑わせ、その猥談にも理屈のあることを語ってみせる。人はみな平等でなければならないと語り、自己中心主義的行為に激しい嫌悪の情を示す。こうした昌益の姿はあるところで石垣忠吉と重なって見える。昌益と同じようにさまざまなことを独学で習得し、すべての人に差別なく真剣に向き合う。自己中心の考え方に、ことのほか抵抗し、人間の真実を見つめようとする。その忠吉が昌益の足跡を捜し当てたのだ》。安藤昌益という人はきっとこんな人だったのかもしれない、石垣忠吉という人について、たしかにそう思わせられた。何よりもその夫婦の関係についてである。恥ずかしながらドキドキさせられつつ読み終えた。

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安藤昌益は本居宣長に通底する [安藤昌益]

聴衆DSC_0310.jpg矢内氏の一通りの講演を終えた後の質疑で、北野達熊野大社宮司から重要な指摘があった。資料に挟んだ《(補遺) 「安藤昌益の「身分制批判論」再考》を読まれてのことだった。《私は古事記を勉強しておりまして、本居宣長(1730-1801)の『古事記伝」というのがあって、私は寝ても覚めても宣長さんなんです。宣長の思想がどこまで安藤昌益(1703-1762)とつながるかわかりませんけれども、宣長は、いわゆる人間の理性とかイデオロギーとかそういうものはインチキで、そういうものをなくした人間の自然、素直な自然のままに帰ったところこそ価値あるものなんだと言っているんですけれども、もしかすると安藤昌益はそういうところで思想的につながるんじゃあないかなと。そうすると「日本のルソー」的な西洋基準の見方でない、日本本来思想の具現者として安藤昌益を位置づけることができるんじゃあないか、そんな思いもしているところです。》

検索したら尾藤正英(岩波版「日本思想大系」で安藤昌益を担当)が「安藤昌益と本居宣長」と題して「文学」1968年8月号(岩波書店)に書いている。ちょうど大学紛争まっただ中、全共闘の時代だ。どんな意図で書かれたのだろうか。また家永三郎が『日本近代思想史研究』(東京大学出版会 1953)に、安藤昌益と神道について書いていることがわかった。「神道」との関係:昌益は儒教を排斥しながら,儒教から決定的な影響を受けていた。しかし神道に対しては,必ずしも正面からこれを排斥していない。昌益は「私制神道」を攻撃したが,「自然神道」は自然真営道の現れとしてこれを承認した。物部守屋の排仏論は,まさしく神道者流のそれである。昌益の復古思想は,儒教からのものであると同時に復古神道からのものである。これは賀茂真淵の思想と共通する。昌益にば国粋主義的色彩があり,彼の概念的かつ無条件的な祖国賛美の羅列は,神道者流の神国論の継受である。 昌益はしばしば語源の説明を行い,そこに自己流の牽強付会の説をなしているが,この仕方も神道者流の常套手段のひとつであり,それを彼が多用しているのは,両者の関連の深さを実証するものである。昌益の特色ある種々の立論(たとえば男女平等論)も,町人の非封建的意識を代弁する神道家・増穂残口などの主張と共通するところがある。津田左右吉博士(1873〜1961)によれば,神道は本来の民俗宗教と異なり,民俗宗教を看板とした中国思想の一変態にほかならないものである。だから、昌益が一種の神道家であることと,彼が広義の儒教思想家であることとは,矛盾しない。》(伊達功「現在の安藤昌益研究—分裂と拡散ー」松山大学論集 第10巻第2号) 

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安藤昌益講演会資料 [安藤昌益]

安藤昌益講演会DSC_0311.jpg30名弱の参加者でしたが、中味の濃い講演会、懇親会になりました。講演資料を転載しておきます。

A4冊子1P-P16表紙.jpg

A4冊子2P関係図.jpg

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同門 細井平洲と舟山寛 [安藤昌益]

会場看板.jpgいよいよ今日が講演会。関係者には声がけして固定票は固めていますが、チラシで足を運んでくださる方(浮動票)がどれだけかは見当つきません。用意した資料は50部です。矢内氏から送っていただいた資料(A3に3枚をA4判6頁に編集)に加え、安藤昌益についてぎっしり詰め込んだ4頁、A4判フルカラー16頁(表紙共)で、それにA4の補遺がつきます。資料代300円です。資料だけでも値打ちものと自負します。

とっておきの新しい情報を得ることができました。舟山本家(当主林太氏)に行った時です。「家にはもう古いものは何も残っていない」というおばあちゃん、「ただ、先祖は昔医者だったと、お姑様の実家の漆山さん(田町)から聞いている。」早速漆山さんへ。留守なのでそのうちまたあらためてと、チラシを玄関先においてきました。しばらく経ってから漆山さん(現当主怜子さん。昭和9年生)から電話がありました。家系についていろいろ詳しく説明されるので、「電話ではわからないからうかがいます。」行ってみたら宝の山でした。漆山家は、長谷堂の戦いで活躍した北條十八騎のひとり漆山牛蔵の流れを汲み、菖蒲沢一帯に多くの土地をもつ地主でした。怜子さんの父親源次郎さん(明42〜昭42)は宮内町議から南陽市議になった方で、58歳のとき議場で倒れそのまま亡くなられたとのこと。田島賢亮先生の教え子のひとりです。奥さんは「おみなさ」と呼ばれた有名なおばあちゃんで、木村武雄代議士の有力な後援者でした。舟山家とのつながりは、源次郎さんの異母姉(キヨ)が舟山家(林七)に嫁いでいますが、その前に源次郎さんの祖母可の(万延元〈1860〉〜昭9)が、舟山家から嫁いでいます。可のは「医師舟山林次郎のニ女」とあります。林次郎は舟山寛(?〜1819)の孫か曾孫と思われます。いろいろうかがいましたが、可のの息子久四郎(怜子さんの祖父の弟)から聞いていたという話が貴重です。

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安藤昌益は「神道思想家」に近い! [安藤昌益]

「宮内の歴史」講演会チラシ表.jpg『安藤昌益の実像—近代的視点を超えて』(山崎庸男 農文教2015)に目を通した。6日の講演会資料作成のため山形県立図書館に足を運んで見つけてきた。「案の定」だった。《昌益の立ち位置は明確である。異国の儒教聖人、釈迦を糾弾する「康正ノ神道」を擁護する、「神道思想家」に近い昌益の立ち位置・姿である。》(218p)とあった。

安藤昌益を検索して地に潜む龍というサイトに巡り会った。(一)「狩野亨吉による発見」、(二)「戦後の昌益発見史」「昌益理解の深化」、(三)「研究者評価」「神山仙確と昌益」「転真敬会」、(四)「北千住と門人たちの謎」「炎の言 断片」、(五)「百科全書派 昌益」「版元 小川屋源兵衛」「暦論」、(六)「多くの名を持つ昌益像」「息子 周伯」「江戸アジト 千住掃部宿」、(七)「昌益研究史」「仏教批判」「安藤家」「京都修学」「入寺」「医師修業」(勝手に標題をつけてみました)。2016/01/07で途切れているが、まだ続くかもしれない。

(三)「神山仙確と昌益」の、昌益の最側近神山仙確が『自然真営道』の序に記した昌益の人物評によって、昌益の人となりが眼前するように伝わってきた。

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講演会「安藤昌益につながる!?舟山寛と宮内漢方医の伝統」 [安藤昌益]

安藤昌益は、高校の日本史で大井魁先生に習って以来ずっと気になる思想家だった。今年の3月、いとや旅館の女将から「宮内の歴史について知りたい人がいるので会ってほしい」ということで、家に来ていただいたその人が「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」矢内信悟事務局長だった。安藤昌益の名前が出たとき、正直驚いた。その日の以後の展開とさらにその後について何回か記した。

・安藤昌益、宮内にリンク!(1) 昌益研究家矢内氏の来訪
https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2018-03-14
・安藤昌益、宮内にリンク!(2) 漢方医 舟山寛
https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
・安藤昌益、宮内にリンク!(3) 舟山寛←川村寿庵←・・・←安藤昌益 
https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2018-04-17-1
・漢方医舟山寛のこと
https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2018-08-02

6月の矢内氏3度目の宮内訪問時、10月に講演会を開催することにした。7月の宮内歴史を語る会でそのことを話した。「宮内よもやま歴史絵巻」が一段落したところでチラシができた。宮内地区全戸配布することにして裏面に「宮内よもやま歴史絵巻」の「安藤昌益につながる宮内漢方の伝統」をそのまま入れた。18日の市報配布に間に合うように昨日公民館に置いてきたところです。

昨日語る会メンバーのHさんにチラシを届けたら、「この前の例会で安藤昌益と聞いて家に帰って見てみたら、山下惣一さんとのつながりで何冊か安藤昌益に関する本があった」ということだった。今検索して「安藤昌益→中島正→山下惣一→井上ひさし」の線を知った。川西町にチラシを置いて来ねばと思ったところです。

「宮内の歴史」講演会チラシ表.jpg「宮内の歴史」講演会チラシ表 宮内漢方の伝統.jpg

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漢方医舟山寛のこと [安藤昌益]

家内は「昔の夏はこういうものだった」と言うが、この暑さただ事でない。数日前台風12号がほんのお湿り程度の雨を齎してくれたが、それ以外20日以上ずっと降ってない。祭りが終わった後の「オミサカアライ」、このところ毎年まちがいなくあったので、今年もあるにちがいないと思っていたのだが、ついになかった。(それほど異常だ。)大正10年(1921)に熊野のお獅子を大清水神社まで御出動願って雨乞いした記録がある。お獅子が集結する8月7日の七夕、雨乞いしなければならないのではないか。

よもやま歴史絵巻 表紙.jpg例年のことだが祭明けのこの時期、本業はじめ何やらかにやらでとにかく忙しい。とりわけ今年は「よもやま歴史絵巻」、なんとか8月18日のえくぼプラザ出張展に間に合うように冊子化にこぎつけたい。新たに今年度版5枚追加したくて、それも冊子に含めたくてまだその段階でまごまごしている。資金調達の予約は1000冊分ほど集まって資金的には大丈夫。2000冊発行できそうだ。500円を300円(10冊単位)、しかも予約部数に合わせて広告を掲載します、といういい条件なので、できてから「言ってくれればよかったのに」と言われることも心配しなければならない。(まだ間に合います。ご希望の方はご連絡ください。)

安藤昌益 通信2018.7.1.jpg新たに作る分に、今年になって急浮上した、安藤昌益の医統に連なるという「舟山寛」を取り上げたいと思っていたところに、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の矢内信悟事務局長から「会通信第86号」が、私が答えねばならないいくつかの課題とともに届いた。矢内氏による「調査研究の『新たな10年』に向けてー川村寿庵の弟子舟山寛について報告する(その二)―」が掲載されている。実は矢内氏とは6月にもお会いしているのだが、ここに書かねばと思いながら書きそびれてしまっていた。とりあえず、その中から宮内関連部分を転載させていただきます。

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安藤昌益、宮内にリンク!(3) 舟山寛←川村寿庵←・・・←安藤昌益 [安藤昌益]

4月6日の地区長会総会、懇親会の席、新町の新地区長高橋晃俊正徳寺住職と「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の矢内事務局長のことを話題にしていたら、それをすぐそばで聞いていた果樹栽培の篤農家片平文男田町下新地区長、なんと20代からの安藤昌益マニアで安藤昌益全集(農文協)も全巻そろえているとのこと。明18日開催の「宮内歴史を語る会」に参加していただくことにした。どういう経緯で安藤昌益に入れ込むようになったか、そのあたりあらためて聞いてみたい。

前回正徳寺にある「舟山先生墓」の舟山寛を紹介したが、この舟山先生の医統を遡ると安藤昌益につながる。

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安藤昌益、宮内にリンク!(2) 漢方医 舟山寛 [安藤昌益]

前回からだいぶ日が開いた。私の中で安藤昌益と宮内とが必ずしもがっちりかみ合ったわけではない。冷静になって整理してみる。「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」事務局長の矢内氏が宮内に注目することになったのは、その経緯については聞きそびれたが、昭和38年に書かれたガリ刷り「宮内文化史資料第4集」所収の山田二男「里人巷談」の発見による。その稿はその後「置賜文化」に活字化されている。ガリ刷りの方は判読に苦労するが、ありがたいことに「置賜文化」が鈴木孝一さんの「時代(とき)のわすれもの」に所蔵されていた。以下その項全文。

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山田二男 里人巷談(下) (宮内文化史資料第4集/置賜文化第十八号)
▽第十三話 (舟山寛のこと)

 宮内では一寸風格の変った気骨のある、名利を超越した人物を語ろう。
 今の横町花屋のあたりに舟山寛という漢方医で、然もすぐれた漢学者があった。寛先生名は与市、字は公綽(しゃく)、隆庵と号した。
 細井平洲先生(1728-1801)上杉鷹山公に聘せられて、明和八年四月九日米沢到着、馬場御殿(松桜館)に寓して、学生定附二十人を命じて教養を受けさせた。一日
「宮内の舟山寛を呼べ」
との平洲先生の仰せ、藩命を受けたので、早速肝煎羽田平兵衛同道伺い出た。

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安藤昌益、宮内にリンク!(1) 昌益研究家矢内氏の来訪 [安藤昌益]

3月11日「宮内のことで聞きたいことがある」ということで、矢内信悟さんという方の来訪を受けた。いただいた名刺には「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の事務局長とあった。すぐ本題について語りはじめられた。滔々とした語り口、次々初めて聞く名前が出るが、安藤昌益はもちろん狩野亨吉、森鴎外の名も。一通り来訪の意図が明らかになったところで、打ち合わせていた「時代(とき)のわすれもの」の鈴木孝一さんに同道、そこでの話が一段落したところで酒酌み交わしつつ談論、そこに舟山昇さん(81歳熊野大社楽長)も加わることになって、得がたい時を過した。いただいた「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会通信」掲載の矢内氏論考「川村寿庵の弟子舟山寛について報告する」等を参照しつつ整理してみる。

まず千住と安藤昌益のつながりについて。安藤昌益の『自然眞営道』稿本は「北千住の仙人」とも言われた橋本律蔵が所有するものだった。律蔵の死後、古本屋を通して狩野亨吉の手に入り(明治32年)、明治41年、雑誌『内外教育評論』1月号に「大思想家あり」として初めて紹介、昭和3年発表の論考「安藤昌益」(青空文庫で読める)によってさらに広く世に知られるようになった。千住は江戸から北へ向かう起点となる宿場町として北方との多くの交流がある土地であり、矢内氏らの調査研究によって、江戸末期千住の医師たちの間で安藤昌益の思想が学ばれていることがわかった。(京都帝大の史学の基礎をつくった内田銀蔵(千住の川魚問屋「鮒与」の出)が京都大に残した資料から、佐藤元萇という医者の日記に、江戸末期米問屋藁屋橋本家(橋本律蔵の4代前)に出入りし、その頃から安藤昌益の思想を学ぶ動きがあったことが書いてある。元萇は漢詩を能くし、鼻っ柱の強い森鴎外が「私には師と言える人はふたりしかいない」と言ったそのひとりという。20年間書き綴られた「佐藤元萇日記」を残す。)

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