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今ぜひ知ってほしい人― 元陸軍中将遠藤三郎(講話資料) [遠藤三郎]

今ぜひ知ってほしい人

元陸軍中将遠藤三郎(川西町出身)

平成29221日 熊野大社證誠殿 南陽市倫理法人会

 

遠藤三郎という人

 明治261893)年12日、川西町(旧小松町)に呉服商・遠藤金吾の三男として生まれ、仙台幼年学校、陸軍士官学校を経て陸軍大学校を優等で卒業(34)、野戦重砲第五連隊長、参謀本部第一課長、関東軍参謀副長、陸軍士官学校長等を経て、航空兵器総局長官で終戦。戦後は埼玉県狭山市陸軍士官学校跡地に入植、一農民としての生活の傍ら政治的社会的活動に取組む。護憲運動、日中友好の先覚者。昭和341959)年の第5回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選の経験あり。明治371904)年81日から昭和591984)年99日まで一日も欠かさぬ93冊の日記を残す(現在狭山市立博物館所蔵)。昭和591011日、狭山市にて逝去。著書『日中十五年戦争と私 -国賊・赤の将軍と人はいう』(日中書林 1974)。紹介・研究書として、宮武剛『将軍の遺言 遠藤三郎日記』(毎日新聞社 1986)、吉田曠二『元陸軍中将遠藤三郎の肖像―「満洲事変」・上海事変・ノモンハン事件・重慶戦略爆撃』(すずさわ書店 2012)、吉田曠二『将軍遠藤三郎とアジア太平洋戦争』(ゆまに書房 2015)、張鴻鵬いま甦る遠藤三郎の人と思想(陸軍高級エリートから反戦平和主義者へ)桜美林大学北東アジア総合研究所 2016.12遠藤三郎関連本.jpg


遠藤三郎との出会い

平成172005)年、小松生れの黒沢昭夫さん(昭和7年生れ/赤湯 双葉商事社長)によって初めて知る


遠藤元中将の自己紹介 

・衆議院予算委員会公述人として第28回衆議院予算委員会公聴会 昭和33225日)

《私は過去半生を軍人として生活しました老兵にすぎません。終戦後約一年巣鴨米軍拘置所に入りましたが、戦犯の事実がなく、裁判も受けずに、わずかに東京裁判の証言台に立っただけで出所いたしました。自来今日まで一開拓農民として農業を営んでおる六十五才の老農夫にすぎません。政治家でもなく、宗教家でもなく、学者でも評論家でもありません。また自民党、社会党、共産党等いずれの政党にも属しておりません。ただ一個の国民として申し述べるのであります。従って私の申し上げる意見には何人のひももついておりませず、また感情に走ったり、片寄ったイデオロギーにとらわれたものではございませんので、全く私自身の学習、特に体験を基礎としたものでございまするから、その点を御承知おきを願いたいと存ずるのであります。/
 そうしてその学習のおもなるものは、陸軍の幼年学校、士官学校、砲工学校、砲兵学校、大学等、日本の諸学校のほかに、フランスのメッツの防空学校、パリの陸軍大学、ヴェルサイユの通信学校等の課程を経たこと、並びに各国の著名な兵学書等によって自習したことであります。また体験のおもなるものは、明治四十年から昭和二十年に至るまでの軍人生活、ことに大正の末期には参謀本部部員兼海軍軍令部参謀といたしまして、直接国防用兵、作戦計画立案の任務を担当したこと、昭和二年ジュネーヴの海軍軍縮会議に列席し、次いで国際連盟の全般軍縮会議の準備委員といたしまして、軍縮問題に直接ぶつかったこと、また実戦の体験といたしましては、満州事変及び上海事変には参謀本部からの派遣参謀として、もしくは軍参謀として、北支事変には砲兵連隊長として、ノモンハン事件の末期には関東軍参謀副長として、支那事変及び大東亜戦争の初期には、飛行団長として直接第一線に従軍いたし、また教育関係では陸軍大学の兵学教官、大本営の教育課長、航空士官学校長等の実務につきました。また軍政方面では、航空本部総務部長として、次いで軍需省の航空兵器総局長官として軍需生産の業務等に携わったこと等でございます。》

自らの生涯を凝縮して綴った、昭和491974)年の年賀状「御挨拶
」『日中十五年戦争と私』より/太字は引用者)

《 幾度も死線を越えて八十一年を過しました。逆縁の悲しみもなく二曾孫まで儲けましたことは天地の恵み、神仏の加護、皆様のお情けによるものと感謝しております。/ 前半生は軍人、後半生は農民、功罪は別として随分我武者羅に我が路を歩み続けたものと思います。関東大震災の際は江東方面の警備に当てられ、孤立した数万の罹災者に独断深川の糧秣倉庫の米を分け、鮮人騒ぎの最中数千の鮮支人を習志野廠舎に護送して現地司令官に叱られ、二・二六事件には武力鎮圧に反対して単身反乱将校を訪ねて自首を勧め、自決した野中大尉を弔問して当局ににらまれ、聯隊長の時部下一等兵の所罰問題で軍法会議と争い師団長から「現代の法規を無視し新たに法を作ろうとする悪思想の持主」と烙印を捺され、関東軍副長の時中央の対ソ攻勢作戦に反対して消極退嬰恐ソ病者として職を追われ、飛行団長として中支および東南亜の戦場に出されましたが皮肉にも四回も感状を授けられたことは面映いことでありました。航空兵器総局長官の際は軍需産業を民間の営利事業に委するのを誤りとして国営に移し赤の将軍と呼ばれ、本土決戦に反対して徹底抗戦組から狙われ、敗戦直後軍備の全廃を日本の黎明と新聞に発表して軍人の激怒を買い、巣鴨戦犯拘置所に入れられてはマッカーサー司令官に報復的野蛮の裁判と抗議し、朝鮮動乱の際は「日本の再軍備反対と国際警察部隊設置の提唱」を公にして特審局から箝口令を敷かれ、一九五五年に新中国を視察し速かに中国と国交を結ぶべきを訴えて国賊と罵られるなど思い出は尽きません。/ 幸いにして日本の非武装は憲法に明示され、時の流れは日中の国交を正常化し、札幌裁判も自衛隊違憲の判決を下し、国連もまた私の主張する「国籍を離れた個人志願による国際警察」とはまだ隔りはありますが、国際監視部隊を紛争地に派遣する様になりました。/ 先のベトナム戦争も今回の中近東戦争も共に軍隊の価値の限界を示し、日本国憲法の正しさを証明しました。/ 私も恥なく祖先の許に行けると思います。老化も進みましたので今後御無音に過ぎるかもしれません。失礼の段は何卒御宥恕賜りたく、永い間の御厚誼誠にありがとうございました。/ 皆様の御多幸を御祈りして御挨拶と致します。》  

◎当時の感想                                                     遠藤中将の戦後のもろもろの発言に真摯に耳を傾けなければならないと考えるのは、占領軍による「洗脳」以前の、自らの痛哭の体験から発したものであるからです。大東亜戦争から何を学ぶかを考える時、中将の戦後の言葉そして生き様は、戦争を体験しないわれわれにとってのいわば「原石」のように思えるのです。》(「正気煥発掲示板」)

◎遠藤三郎のすごさ 
1. 80年間「日記を書く」という行為によって培われた倫理性。たとえ発表を前提としないものであっても、「書く」という行為によって自ずから「あるべき自己」が顕現し、そのことによって行動も律せられてゆくという典型としての生き様。 

2.. ≪航空兵器総局長の時、兵器産業を営利を目的とする株式会社に委することは不合理と思い、強引にこれを国営として「赤の将軍」のニックネームを附せられた≫とあるように、戦争の拡大が兵器産業の利潤追求と表裏の関係であることを体験を通して痛感し、その関係を断ち切るべく主張し行動されたこと。                

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置賜が生んだ「 憲法9条の守護神 」「日中友好の先駆け」遠藤三郎 [遠藤三郎]

遠藤三郎(毎日新聞)表.jpg遠藤三郎(毎日新聞)裏.jpg(クリック拡大)
毎日新聞山形版掲載記事のコピーを送っていただいたので、連載5回分にコメントを入れてA3両面にぎりぎり詰め込み、上記見出しをつけてあちこちに配っています。遠藤三郎さんについては知らない人がほとんどです。多くの人に知って欲しい。

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元陸軍中将・遠藤三郎(毎日新聞 山形版)(5) 取材を終えて [遠藤三郎]

取材を終えて.jpg

毎日新聞山形版に5回にわたって遠藤三郎元中将が紹介された。画期的なことだ。『将軍の遺言』によって広く遠藤三郎の名を世に知らしめた宮武剛氏も毎日新聞記者だった。今の日本を憂いて遠藤三郎の魂が動き始めている、そんな気がする。今こそ注目されねばならない人にちがいない。

連載の3回目731部隊との関わりをつらい気持ちで読んだ。その場に臨まずしてはわからぬ必然というものがある。そこを離れての批判はだれにでもできるし、それはそれだ。日本がソ連の兵力を凌ぐには強力な細菌兵器の開発と実用化が急務であった。自軍の兵の命を預かる責任ある立場にあって、そのことに躊躇っている余裕はない。そうしたもろもろのつらい体験から逃げることなく真摯に向き合った上に戦後の遠藤三郎は在る。そのことの重みをかみしめたい。


731部隊の石井四郎部隊長が秘かに遺した戦後日記をめぐる報道番組があった。

石井隊長の戦後1 - YouTube 

石井隊長の戦後2 - YouTube

石井隊長の戦後3 - YouTube

占領軍に研究データを渡す取引によって戦犯の罪を逃れたとされる。しかし見て思ったのは、石井隊長にとって「部下を守る」ことこそが第一義であったのではなかったかということだった。石井隊長ひとりの罪で終ることではなかったはずだ。とりわけ戦時の緊迫した中で、ひとりひとりの人間は二義的である。その場の必然(吉本隆明の言う「関係の絶対性」)を離れてその人を判断することにストレートであってはならない。「戦争という場」そのものを否定することだ。石井四郎との交わり、細菌戦に臨む現場体験、そうした自らの体験を踏まえての遠藤の「軍備亡国」論であったことに深く思いを致したい。この記事の末尾に『元陸軍中将遠藤三郎の肖像』の731部隊関連部分を転載しておきます。

 

「正直者上策也」遠藤三郎.jpg

連載最終回に「取材を通じて、各地に遠藤を慕う人たちがいることを知った。」とある。そのひとりに詩吟の平謙雄先生(昭和5年生れ)がおられる。先生に遠藤中将についてご存知かどうかお訊ねしたところ、ちょうど朝鮮戦争(昭和251950)の頃に遠藤元中将に会われた体験を思い起こして下さった。置賜農業高等学校玉庭分校勤務の時代、学校で使う用紙の販売に遠藤元中将が回っておられたのだという。生活の足しに商いをやられていたのかどうか、あるいは物のない時代、いくらかでも地元の教育のために役立ちたいという思いからの行為であったのか。その頃のことを日記で確かめてみたくなった。

 

その日記、今は埼玉県狭山市に寄託されてある。年ごとに閲覧希望者が増えているものの十全な管理とは言い難いとも聞く。http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000018339 それなら川西町がその任を引き受けてはどうか。どんな偉人でも生涯を閉じた場所は時代とともに人々の記憶からうすれてゆくが、偉ければ偉いほどその生地は輝きを増す。ちなみに井上ひさし氏の小説『一分ノ一』の主人公の名前は遠藤三郎。ただし井上氏、遠藤中将に特に思い入れはなさそうで、名前だけちょっと借用という感じ。井上氏にとっても気になる人ではあったにはちがいない。


最終回、転載させていただきます。毎日新聞さんにはなんとか全国発信をお願いしたい。

 

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元陸軍中将・遠藤三郎(毎日新聞 山形版)(4) 警察予備隊、日米安保 親善外交の重要性主張  [遠藤三郎]

1-DSCF4653.JPG

私が遠藤三郎という人を知ったのは、川西町小松生れの黒沢昭夫さんによってだった。11年前のことだ。先日仕事で行った先で隣町出身の陸軍中将遠藤三郎という人についてのお話をうかがってきました。戦後、巣鴨での一年近くの拘留生活を経た後不起訴処分となり、片山哲、茅誠司という人達と共に護憲運動に取り組まれたとのこと。遠藤中将は明治37年(11歳)から昭和59年91歳で亡くなる1ヶ月前まで、発表を前提にしない、それゆえ本音で綴られた膨大な日記を残しておられます。うかつにも、地元出身でこういう方がおられたとは全く知りませんでした。/その話をして下さったその方は昭和30年代の初め、高校を出てすぐ、戦後埼玉県で農業を営む遠藤元中将のもとで働いて来られたのだそうです。》と当時記している。黒沢さんは井上ひさしさんの一級上、ひさしさんの家が小学校へ行く途中だったことからいつも一緒に遊んだという。体格が良くて親分肌、いじめた方ではなくて面倒を見た方だと思う。今も「ひさし、ひさし」と言って懐かしむ。その黒沢さん、置賜農業校を卒業後埼玉に就職した。そこから休み毎に遠藤三郎さんのところに通って農作業を手伝ったという。連載第4回に黒沢さんの名前が出ている。

 

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元陸軍中将・遠藤三郎(毎日新聞 山形版)(3) 人体実験、克明に記録 [遠藤三郎]

吉田曠二著.jpg

吉田曠二氏の2冊の著元陸軍中将遠藤三郎の肖像―「満洲事変」・上海事変・ノモンハン事件・重慶戦略爆撃』(すずさわ書店2012)と『将軍遠藤三郎とアジア太平洋戦争』(ゆまに書房 2015)、なんとかがんばって買って手元にある。共に8,640円だったが、前著は売り切れて古書価格が2倍になっている。遠藤三郎という人への関心の高まりを思ってうれしい。ほとんど積読状態だったがこの機にあらためてて開いてみた。前著のプロローグと後著のエピローグの一部に目を通す。 

《 遠藤三郎は昭和の日本陸軍の名参謀であり、また名将のひとりであった。

 だから彼は一旦戦争がはじまると、東京の参謀本部で、作戦参謀として優れた頭脳を駆使して、日本車を勝利に導くための作戦計画を立案し、指揮官としては戦場でも勇ましく戦い、中国大陸や南方の島々で戦争の勝利に.貢献しようとした。しかし名将であり優秀な参謀でありながらも、彼は戦争が嫌いなタイプの珍しい軍人であった。

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元陸軍中将・遠藤三郎(毎日新聞 山形版)(2) 11歳から80年間書き続けた日記 [遠藤三郎]

なんと言っても遠藤三郎元中将のいちばんのすごさ(特異性)は、80年間一日も休まず日記を書き続けたことです。ギネスものではないか。「書く」という行為によって培われる倫理性、たとえ発表を前提としないものであっても、「書く」という行為によって自ずから「あるべき自己」が顕現し、そのことによって行動も律せられてゆくという典型としての生き様を見るように思います。

遠藤三郎という人には、どんな時代にあっても、どんな環境にあっても動じない「視点の確かさ」を感じます。そこにおのずから在る一貫性。ほんとうに頭のいい人だったのだと思う。そして遠藤三郎について知るだれもがそのことを認めていた。しかし、戦後そのことをほんとうに理解したのが、日本人よりむしろ中国人だったのではなかったか。周恩来首相との通り一遍でない交流にそのことがうかがえます。

以下、毎日新聞ネット版(12月2日)、転載させていただきます。http://mainichi.jp/articles/20161202/ddl/k06/040/107000c

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元陸軍中将・遠藤三郎(毎日新聞 山形版) [遠藤三郎]

遠藤三郎元陸軍中将についての連載(随時)が毎日新聞山形版で12月1日から始まりました。前回「もう戦争なんてやめようや」の記事を書きましたが、航空兵器総局長官として終戦を迎え、戦後は一貫して国防軍備の時代は去ったとする『軍備亡国論』」を唱えつづけた遠藤三郎元中将の紹介は実にタイムリーです。これを機会に先ず山形県から遠藤元中将への関心が広がることを切に期待します。ネット記事を転載させていただきます。http://mainichi.jp/articles/20161201/ddl/k06/040/102000c

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戦後71年・やまがた

元陸軍中将・遠藤三郎 日中戦争・太平洋戦争で数々の武功 敗戦で一転「軍隊不要」 /山形

遠藤三郎が生前に建てた石碑=埼玉県狭山市で

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 埼玉県狭山市の西武鉄道狭山市駅から南東に車で約5分。遠藤十九子(とくこ)さん(72)方の庭の片隅にひっそりとたたずむ石碑がある。風雨に打たれて読みづらくなってはいたが、確認したかった文字は刻まれていた。「軍備全廃を訴え続けた元陸軍中将 遠藤三郎茲(ここ)に眠る」--。川西町出身の遠藤は、太平洋戦争敗戦直後に軍隊の廃止を歓迎する談話を発表するなど、戦後は一貫して軍備全廃を主張した。理由を知りたくて関係者を訪ね歩いた。【佐藤良一】

 1945年8月24日の毎日新聞に遠藤の談話が載っている。

 「軍隊の形は時世の進運に伴い変化すべきは当然でありまして、(中略)必ずしも形の上の軍隊はなくても宜(よろ)しいものと思われます」

 当時の遠藤の肩書は軍需省航空兵器総局長官。戦後、一転して反戦を掲げた元軍人は少なくない。しかし、己が属した軍隊の存在を否定した高級軍人は珍しい。

 終戦直前に米、英、中が日本に無条件降伏を求めた「ポツダム宣言」に日本の武装解除が含まれていたとはいえ、軍隊の不要を明確に主張したのは、遠藤が初めてとされる。後に国防軍備の時代は去ったとする「軍備亡国論」を展開し、亡くなるまで固持した。

 日中戦争では作戦参謀として活躍し、太平洋戦争では数々の武功を挙げた遠藤。だが、戦後は一転して農民として暮らし、中国を5回訪問するなど日中友好の実現に奔走した。

   ◇ ◇ ◇  

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遠藤三郎中将の ”えっけばらない” 日中友好(5) [遠藤三郎]

遠藤三郎中将の ”えっけばらない” 日中友好(4)のコメント欄に書いたのですが、あらためて書くことにします。

以前、シベリアに抑留された方の話を聞いて記事を書いたことがあります。身近な方の戦争体験記二つ―「シベリア抑留記」と「満州からの逃避行」http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2011-11-22です。大変だった話を聞くつもりが、ロシア人女性のやさしさを懐かしく語られたのです。バイクでユーラシア大陸横断のブログを読みはじめ、納得させられています。

飯山一郎さんがこう書いておられます。

   *   *   *   *   *

708 名前:飯山一郎

2015/09/05 (Sat) 03:03:52

 host:*.ocn.ne.jp

>>702 とらたろさん

今の日本人の大半は、隣国と隣国人に対する憎悪心しかなく、隣国の文化を学びつつ、
隣国と友好関係を結びながら共に発展していこう!という気概が完全に失せてます。

これは…、「分断して(仲悪くさせて)統治する」という米国戦争屋の巧妙な策謀に
日本の政治家・官僚・学者・マスコミが迎合し、協力してきた結果です。

ほんと、日本国民の大半は、完全に洗脳されちゃってますな。

ロシア、中国、韓国、北朝鮮ですらも、隣国の現実と真の姿を、今の日本人は完全に
見あやまっています。その余りの無知ぶりは、可哀想になるほどです。

おかげで私などが、隣国に行くと…、
「貴殿は、我が国の真実の姿・文化・風習をキチンと理解している日本人です!」と
大歓迎されます。

ほんと、可哀想ですね! 隣国を憎悪心でしか見られないシトってのは。心も財布も
頭の中身も…、みんな貧しいんでしょうね。きっと。

   *   *   *   *   *

日本人こそ洗脳されている、遠藤中将の文章を読みながら感じていたことでした。敗戦が日本人の心を捩じ曲げてしまった・・・だけでなく、さらに近代の始まりまでさかのぼって考えなけばならないのかもしれません。明治政府は、雲井龍雄のまっとうさを葬ってしまったのです。

まだ途中までですが、ユーラシア大陸横断のブログ、ロシアの人たちのやさしさに心洗われます。
http://ameblo.jp/r80gs/entry-12038467478.html 

この方、出発にあたってバイクにふりかけられたお清めの砂は、神道天行居の「土乃美多麻」でした。
土の美多麻t02200146_0800053213327551191.jpg

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遠藤三郎中将の ”えっけばらない” 日中友好(4) [遠藤三郎]

遠藤三郎元中将の日中友好についての文章、読みっぱなしはあまりにもったいない、自分の頭の中にはとても留め置ききれない、そんな思いからOCRで読み込むことになった。だれか本気で読んでくれる人があるに違いないと思いつつの作業だった。


遠藤三郎中将の”えっけばらない”日中友好(1)で紹介した「◎中国訪問と日中友好運動」の中に次の文章がある。


一九七三年五月号の中国画報には日中国交正常化に関係のあった日本の多彩な人々の写真を四十葉載せておりますが、それを人生スゴロクか広重の東海道五十三次になぞらえますとちょうどその振り出しお江戸日本橋の所に私が毛主席と握手している写真を、そして上り京の三条大橋の所に田中総理と毛主席の握手している写真を最も大きく掲げてありました。そしてその写真は本(一九七四)年大阪ならびに東京晴見に開かれた中国展会場に掲げられました。心中誠に忸怩たるものがあり中国の私に対する深い好意に感謝しております。もし私のやって来たことが日中友好の促進に若干なりとも貢献し得たものとすれば満足です。》

 

中国にとっての「日中国交正常化」は、遠藤三郎で始まり田中角栄で実現した、そう考えられていた。では遠藤三郎は田中角栄をどう評価していたか。

 

実は、この記事の標題に ”えっけばらない”というこの辺の言葉をわざわざ持ち出したのは、田中角栄さんを意識してのことだった。角栄さんにはいつも ”えっけばる”という言葉がまつわりついてしょうがない。それに対して遠藤元中将は、終始一貫 ”えっけばらない”人だったように、私には見える。そういえば以前、”恬淡”という言葉で評したことがあった。

 

昭和56年か57年のことだったと思う。徳田虎雄さんの声がけでできた「南陽獅子の会」で、田中角栄さんを呼んで語ってもらおうということで、越山会に講演依頼の手紙を書いたことがある。ロッキード公判が始まった頃で、田中バッシング最中のことだった。徳田さんも口では烈しい角栄批判だったが、根っこでは共感するものがあったと思う。こういう時こそ、角栄さんのほんとうの思いが聴けるのではないか、だれからともなくそういうことになって手紙を書いたのだと思う。越山会から丁寧な返信をいただいた記憶がある。われわれの思いを理解しつつもそれどころではない、ということが読みとれる内容だった。徳田さんの熱気に巻き込まれていたあの頃のわれわれにとって、角栄さんの ”えっけばり”には、むしろ近親感を感じ取っていたのかもしれない。

 

以下、日清戦争から説き起こし、角栄さんについての評価で終わる貴重な文章。あわせて自衛隊についてどう考えるかの文章も挙げておきます。真の友好の実現のためには、遠藤三郎元中将からまだまだ多くを学ばなければならないとつくづく思います。遠藤三郎という人に関心を持つ方がなんとかどんどん出てきてくれることを切に願います。

 

   *   *   *   *   *

 

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遠藤三郎中将の ”えっけばらない” 日中友好(3) [遠藤三郎]

ネットで最高の書き手は誰かと問われれば、私はダントツで「小沢内閣待望論」さん(元「ポスト英米時代」さん)をあげる。その値打ちは日々リアルタイムで読まねばわからない。かりにこれまでの文章が活字化されてそれを読んでも、最大の魅力である「いま読む」ワクワク感は伝わらないだろう。ネットが生んだネット的文豪と思う。その待望論さんの昨日の記事の一つ学生ハンスト・118時間経過、一名脱落、私の全てを賭けて安倍を引き摺り降ろすのシールズからは参加なしが疑問です。」にこうあった


《・・・海賊であり盗賊であったドル詐欺陣営の先祖は、他人を騙して儲ける為ならば何でもありであり、二項対立の演出と両張りは連中のもっとも得意とする所であり、先祖代々、生まれたときから胴元のくそじじいにしてみれば両方に保険を掛けるのは当たり前で、阪神と巨人なら他愛ないですが、連中は善悪や正邪にも採用している訳でそれが天使と悪魔だの唯物と唯心だの資本主義か共産主義かなどで、現在は立憲民主主義と全体主義を戦わせている訳ですが、どちらも連中が作った上で民衆が勝ち取ってきたと思わせてきたものとそうでないものとを二項対立させて、当然に両張りしている訳です。
それじゃー、大衆というか奴隷には上がり目がないジャーン、頑張っても無駄ジャーンとおっちょこちょいが諦めてしまうかもしれませんが、それも早計で、答えは中庸にあり、それをもっとも得意とするのが日本人で、せっかく二項対立詐欺と両張り詐欺を用意しているのに、中間の普通を選択されてしまうと連中の完璧とも思われた罠をすり抜けられ、それでは三張りと考えた筈ですが、そうなると二項対立が必要なくなり、問題が解決して良かったじゃんという事になって、詐欺で利鞘稼ぎをしてきたくそじじいからすると営業妨害な訳です。・・・》


実は、遠藤三郎中将の立ち位置が、ここで言われた、日本人が「もっとも得意とする」ところの「中庸」であることを思ったのだった。佐藤栄作首相が、遠藤さんの親書に対して何の返事もなかったという非礼の裏には、「遠藤三郎は中共に洗脳されている」という思い込みがあったと思われる。それがまさに「二項対立の罠」なのではないか。ずっと遠藤三郎中将の中国との交流に関する文章を読んできて思うのは、「中国のほうが日本よりずっとおとな」ということだ。


と思っていたところで、「『元軍人訪中団』と毛沢東外交の戦略性—中国外交档案から見る軍国主義の清算—」(城山英巳)という論文をたまたま見つけて読むことができた。以下、その抄。

 

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