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アヤコ先生お別れ会(出雲のぞみ教会) [弔詞]

出雲のぞみ教会DSC_1079.jpg昨日31日、アヤコ先生お別れ会に参列してきました。タクシーの運転手さんも知らない小さな教会、参列者は30人。われわれ山形はじめ、九州からはアヤコ先生の甥御さん、姪御さん、地元島根各地から守先生の縁戚の方々、それから大根島から多勢久美子さんも。キリスト教式なので、弔辞と言っても亡くなった人に向けたものではなくて、参列者に向かって読みました。教会員の方も足立先生を入れて3人だけということで、牧師さんの仕切りも、あくまでアットホームなお別れ会でした。

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 山形県南陽市宮内から参りました学校法人南陽学園理事長の高岡と申します。平成26年にゼロ歳児から受け入れる宮内認定こども園になりましたが、それまでは宮内幼稚園の名称でした。宮内で講演された賀川豊彦先生の声掛けによって昭和27年に創立以来、67年の歴史を重ねて参りましたが、足立先生ご夫妻は、宮内幼稚園の歴史の半分以上39年間を宮内幼稚園のために御尽力され、今の認定こども園へと続く礎を築かれました。本日は私のほかに、アヤコ先生による薫陶というか、温かくも厳しい指導を受けて今があるという、宮内幼稚園の元先生と現役の先生が3名、アヤコ先生とのお別れのために参っております。

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E.Y君への弔詞 [弔詞]

12月17日、中学の同級生E.Y君の訃報。最後に会ったのは20日ほどまえ。かつてYの住まいだったこども園北側の土地を譲ってもらうことにして契約の日取りを20日に決めてきたのだった。「大丈夫、大丈夫、元気になれる」と言って別れてきた。そう確信しての声がけだっただけに、息子さんからの電話での訃報は思いがけなく、辛かった。胃がんからリンパ腺に入り、胃を2/3切断してその後は抗がん剤治療、発見時レベル3、以来3年の闘病生活だったという。中学を出て定時制へ通いつつ、宮城興業(株)へ。57年間勤務、営業部長を務めた。会社に捧げた生涯だったのは葬儀からもうかがえた。子どもの頃から亡くなるまで、顔かたちがそのまま、いい顔だった。

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獅子冠事務所 片平栄一さんへの弔詞(齊藤頭取) [弔詞]

精進固めの15日の朝、新聞で訃報を知った。享年87歳。今日が葬儀。今日から精進潔斎に入っているため、頭取はじめ獅子冠事務所員は参列できず、代読をお願いした。

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        弔詞

 故片平栄一さんの御霊前に謹んで弔意を捧げます。
 沖郷から門前片平家に入った片平さんは、敬神の念篤い片平家代々の伝統を継ぎ、晩年に至るまで獅子冠事務所にご奉仕されました。対外的には、その古武士の如き風貌によって、事務所の威厳を示す象徴的存在でありました。一方、事務所においては、「門前、門前」とだれからも慕われ、ただそこに居るだけで安心できる、そういう存在でした。普段は一切余計なことを語らず無口でしたが、酒が入って気分が乗ると、昔の武勇伝をうれしそうに語られることもありました。沖郷の学校時代、走ることにかけてはこの辺では敵無しで活躍されたことをお聞きしたものです。この親にしてこの子ありと、仁君を思ったものでした。その仁君は、栄一さんの跡を承け、事務所になくてならない存在として、納所長の重責を担っております。栄一さんが立派に後継にバトンタッチされたことを、事務所一同、あらためてありがたく思わねばなりません。
 獅子冠事務所は、昨日の精進固めに始まり二十四、二十五日のお祭りまで、お精進に入っております。ために本日の葬儀への参列が叶いません。お祭りが明けた後、あらためて御霊前に参らせていただく所存です。
 ご家族の手厚い看護のもと、六年にわたる闘病生活から解放されて旅立たれた片平さんは、神様になられたような清々しいお顔でした。
 これまでの獅子冠事務所へのご功績に感謝を捧げつつ、獅子冠事務所がこれからも存分にその役割を果たし、お祭りが無事斎行されてゆくことを、ギラッと光る眼でしっかり見守っていただきたく、事務所一同お願い申し上げ、弔詞とさせていただきます。衷心より御冥福をお祈り申し上げます。
 ありがとうございました。
 
  平成三十年七月十六日
 
        獅子冠事務所
          頭取 齊 藤 喜 一

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源司郎さんへの弔詞 [弔詞]

源司郎さん表.jpg源司郎さん裏.jpg昨日、源司郎さんの葬儀。今しみじみあらためて思うが、私にとって実にかけがえのない人だった。本来相性が良くないというか気線が違うというか、そういう人とのつきあいで世界が広がる。私にとってそうであったように源司郎さんにとってもそうだったのだと思う。言い出したのはきっと源司郎さんの方だが、残った方が弔詞を読むことになっていた。9日の夜8時半に亡くなって、竹さんから電話が来たのは10時近かったろうか。すぐ弔詞のことを思った。11日(日)の葬式かもしれない。翌朝、家に帰った源司郎さんに会いに行って18日(日)の葬儀になることを知った。書き上げるまで、いろんなことを思い出させられたし考えさせられた。時間があったのがよかった。一昨日の朝になって、葬祭詞を書くつもりで書けばいいと思うようになって書き始めた。葬儀当日の朝書き終えて涙がとまらなかった。読むときどうなるかと思ったが、淡々と読めた。今朝目覚めて、「ありがとうございました」で締めくくった意味があらためて分かった。世界を広げてもらったことへの感謝だったのだと思う。ある意味、私にとってサンドバッグの役割を果たしてくれたのかもしれない。私より3カ月と少し前の生まれで1学年先輩だった。

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板垣典男(つねお)さんへの弔詞 [弔詞]

板垣典男さん.jpg

思いがけなく弔詞を読むことになりあらためていろんなことを思い出しました。晩年体調を崩されてしまい、ゆっくりお話しする時間がなかったのがほんとうに残念。いろんなところからひっぱりだこで忙しくしているうちに体調を崩された。お元気でおられたら幼稚園だけでなく町のことも一緒にできたと思う。

昭和10年生。享年83歳。明治薬科大学卒で薬剤師の資格を持ち、県職員として主に公害の問題など環境衛生関係の分野で活躍された。退職後は県薬剤師会の副会長も務められた。県職としての経験を活かして会の組織改革に取組まれたと、薬剤師会の現会長の弔詞だった。私の隣りで弔詞を読まれた方が県職の後輩の方で、「バイタリティのある人で職場の野球でピッチャーをつとめ、3試合連投したこともあり『鉄人』と言われていた」とお聞きした。訃報を聞いて伺ったとき、同級生だったという奥さんには「小さいとき身体が弱かったのか、雨が降ったりすると女中さんがいつもむかえにきて大事にされていた。大学時代結核を患ったこともある」と聞いていたので、『鉄人』の称号は意志による克服の結果なのだろう。息子さんも「米沢商業高から薬科大学に進むのは並なことではなかったはず。努力の人だった」と言っておられた。まだまだ元気でいて欲しかった。(今ふと思い出して確認したらやはり、高橋正二先生が明治薬科大学の理事長だった。このことを板垣さんと語ったらきっと話題が広がったはず。一度も話が出なかったのはほんとうに残念)

 

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遠藤孝蔵さん葬儀参列、山栄さんを思う [弔詞]

遠藤孝蔵staffのコピー.jpg山栄(やまえ)さんこと、東の麓酒造有限会社々長遠藤孝蔵さんが19日に亡くなった。脳内出血とのこと。安らかなお顔だった。享年90歳。今年2月に奥様を亡くし、その納骨が14日の日曜日、その週の金曜日だった。葬儀が昨日28日。

 

娘さんが幼稚園からの同級生で、子供の頃から存じ上げていたが、当時からお顔立ちもそのまま、端正に淡々と一生を貫かれた。葬儀のお返しが「純米大吟醸 龍龍龍龍(テツ)」と「純米酒 東の麓」、共に純米酒で山栄さんらしいと思った。

 

葬儀会場の飾りが見事だった。白菊と紫の花(竜胆?)で残雪の雄大な吾妻連峰が表現され、その中に大きく白菊で「東の麓」のロゴ、中央にいつもそうだった山栄さんの笑顔の写真、葬儀社ナウエル渾身の作だったのだろう。

 

弔辞は46年間杜氏として山栄さんに仕えたという山田さんと、菩提寺護持会だけだったのが意外だったが、目立った公職などには一切就かず、いつうかがっても奥様と向かい合わせて事務所に居られ、ひたすら酒造りを思い、酒蔵を守って居られたことは、山田さんの弔辞を聞いても納得する。それでいて、心底から宮内を思うこと、山栄さん以上の人が思いうかばない。私が書いたものなどお持ちするたびにほんとうに喜んでいただいた。

 

思えば山栄さんは、私にとっては子供の頃から飛び抜けた存在だった。そういえば酒をご一緒する機会は一度もなかった。読書が好きだとどこかで誰かに聞いたようにも思うが、どんな本を読んで居られたかもまったくわからない。「淡々と、端正に、怒ることなく、笑みを絶やさず」、そうしてそのまま逝かれた。その心の中に入り込む機会はなかったが、宮内のほんとうにいいところを体現されていたように思う。それは山栄さんが育てた酒蔵東の麓の若い衆(「従業員」というのは似合わない)に引き継がれ、宮内人がどこに行っても自慢できる「東の麓」という酒とともに生き続ける、そう思う。

 

どうしても山栄さんのこと書いておきたかった。どうかお見守りつづけて下さい。ありがとうございました。


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山又さんへの弔詞 [弔詞]

8月22日、山又さんが亡くなった。6日目の葬式で、思い起こすことも多く毎日少しずつ書いていたらずいぶん長い弔辞になってしまった。将棋6段の腕前、何事も段取りのいい方で、戒名も告別式の会場も司会を誰にしてもらうかまでも決めておられたという。私が弔辞を読むことも段取りの中に入っていた。そうでないとしても、私にとっては当然読まねばならない人だった。


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弔 詞


 山又さんこと、江口徳(のぼる)さん、享年九十六歳、自らに向っては数々の道を窮めること深く、外に向ってはその影響及ぼすこと広く、堂々たる人生を終えられました。

 静かであれば埃は立ちません。波立つこともありません。動けば動いただけ、埃も立ち、波も立ち、波紋も広がります。一生を振り返れば言い知れぬ多くのご苦労、ご心労もあったにちがいありません。まわりへの波立ちも多々あったにちがいありません。多くを果された後、昨年脳梗塞に襲われ、以来療養の日々を送っておられました。しかしお盆も過ぎた時、致命的とも言える誤嚥性肺炎によって回復の道を閉ざされ、最後を家でとの配慮からご自宅に帰られました。私が最後にお会いしたのが亡くなられる四日前、穏やかなお顔でした。枕元で和子ちゃんとしばらく昔話をして、「また来っから」とお別れしましたが、次にお顔を拝したのは旅立たれた後のことでした。すべてを祓い清め、穏やかに静かに旅立たれたように私には思えます。

 最後まで心に懸けていただきましたことに感謝しつつ、山又さんと重なる私なりの思い出を振り返らせていただきます。


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大竹正弘さんへの弔詞 [弔詞]

昨日(7日)大竹正弘さんの葬儀で弔詞を読んできた。4月1日、仕事場で倒れていたのに家族が気づき救急車で運んだがだめだったという。最後に会ったのはいつだったか。工場の近くを通る度気になりつつ御無沙汰の数年だった。そのこともあって、報を知って弔詞の決心まで2時間ぐらいを要してそれから弔問に行った。2日のことだ。変わらぬいつもの顔に思えた。奥さんに「弔詞を読ませて下さい」とお願いした。葬儀まで時間があることもあって、いろいろ思い起こすこともあり長くなった。他の誰かと重複するようなところがあったら、端折ろうと思って臨んだが、弔詞奉読者の席に着いたのは私と地区長さんだけだった。私の後、同業組合の理事長さんが出られて原稿なしでの感極まる弔辞を捧げられた。あまり広くない会場だが、廊下まであふれてぎっしりだった。一見地味な人だったが、いかに慕われ信頼されていたかがわかった。40年近く前、お母さんが突然亡くなられた時もそうだったのだが、前日や数日前に会ったばかり、電話で話したばかりという人が、私が直接聞いただけで五指に余る。走りつづけて逝ってしまった。大竹さんにとって、現界と冥界の垣根は案外低かったのかもしれない。式場の最前列で遺影を見つめつつ、ずっとそこに居られるように感じていた。

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高橋俊信さんへの弔詞 [弔詞]

新規作成、しばらくのご無沙汰だった。書きたいこと、書かねばならないことがいろいろあったのに、ここに書くためのまとまった時間が取れない。そうこうしているうちに、同じ町内高橋呉服店、高橋俊信さんの訃報。2年前から、肺が悪くなる病(ヘビースモーカー)で、ポータブルの人工呼吸でがんばっていたが、今年はじめから入院しての闘病だった。弔詞に書いたがほんとうにお世話になり、また気にかけていただいた。昭和7年の2月生まれ、満83歳の生涯だった。商売の跡を継ぐ息子さんの喪主挨拶、「悔いのない一生だったと思う」。

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母のたいせつな友人への弔詞 [弔詞]

母にとってほんとうにたいせつだった友人が、10月21日息をひきとり昨日葬儀だった。弔詞をと頼まれ、当然の務めと引き受けた。
弔詞は書くものではなくて書かされるものだと、このたびあらためて思った。享年90歳(大正13年生)。見事な一生を見せていただきました。それにふさわしい葬儀でした。

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     弔詞


 ひとかたならずお世話になり、常に心にかけていただいた○○○○様に対し、謹んでお別れの言葉を申し上げます。

 私の母が一足先に旅立って三年半が過ぎました。私の母にとって、山又さんのばあちゃんは、昭和二十七年、できたばかりの宮内幼稚園に私が和子ちゃん、晴ちゃんと共に通うようになって以来、生涯にわたって、共に笑い、共に涙し、共に励まし合った、かけがえのない、たいせつななたいせつな友人でありました。いつもせき立てられるように走り回っていなければ気が済まない私の母に対して、しっかり大地に根を下ろした大樹のようにいつも変わらず悠揚たる山又さんのばあちゃんの存在からはいつも、「つぎちゃ、そげに気もまねごんだ。」というメッセージを受け取っては、我に帰らせていただいていたのではないかと思います。「山又さんはほっとする。」そんな母の言葉が今でも聞こえてくるような気がします。

 同じ嫁務めでも、豪快奔放なおじいさん、ほとんど病の床に臥せるおばあさんに仕えながら、山又製材所の大所帯を陰で支えるそのご苦労は私の母の比ではなかったはずです。

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