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実存主義(ニーチェ)→現象学(メルロー・ポンティ) [メルロー・ポンティ]

はじめてのニーチェ.jpg副島隆彦著『ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ! 」―まず知識・思想から』を読みつつ、適菜収著『新編 はじめてのニーチェ』を読んで、アマゾンにレビューした。

 

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概念的理解を感覚的理解に変えてくれる

 

 ニーチェといえば「神は死んだ」。今までいた神がいなくなったということかといえば、そうではない。「神の視点=絶対的な視点など存在しない」(116p)。すなわち、「客観的世界」などは迷妄にすぎないのであって、「すべての認識は『パースペクティブ』に基づく」(119p)。「客観存在としての世界は存在しない。/個別の世界が発生するだけだ。」(124p)しかしそこに「権力の意志」が登場することで「世界」が構築される。すなわち自己保存の欲求を基盤にした「世界解釈」であり、それが虚構であれ誤謬であれ、そこに他者との共通世界が生まれるようになる。だからそもそも「世界は虚構であり、真理は誤謬なのだ。」(126p)神によって保障される概念やイデオロギーなんて通用しない。「真理を永遠なものと考えるプラトン=キリスト教的信念がデタラメであること。それが『神は死んだ』という言葉の意味です。」(117p

 実存主義の原点である。概念的理解を感覚的理解に変えてくれる。

 

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こう書いて、実はここから現象学に通ずる道筋が見えてきた。もう50年近くになるが、メルロー・ポンティを読んでいて「パースペクティブ」という言葉がとりわけ意味深く心に残ったのだが、このたびその言葉がまさにニーチェ思想の原点にあったことを知った。

 

50年も前書いたことを抽き出してみる。

 

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「われなし能う、ゆえにわれあり」 [メルロー・ポンティ]

コンピテンシー 奈須正裕.jpg

 年明けて最初の朝礼の昨日、たまたま手に取って開いた「私幼時報」1月号巻頭の「視点」は、奈須正裕上智大学教授の「『遊び込む』保育が高度な学力の基礎をもたらす」という記事で、次のような書き出しでした。(クリック拡大)


《 学習指導要領が「内容」(コンテンツ)を中心に描かれてきたように、我が国の学校教育は領域特殊的な知識を基盤としてきました。これに対し近年、領域を超えて働く汎用性の高い「資質・能力」(コンピテンシー)を軸にカリキュラムや授業を編み直せないかとの模索が、世界的に活況を呈しています。/それは、教育に関する基本的な問いを「何を知っているか」から「何ができるか」へと転換します。/そして、教育の守備範囲を知識・技能に留めることな<、思考力・判断力・表現力などの高次な認知能力、さらには意欲や感情の自己調整能力から対人関係的なスキルにまで拡充すること、すなわち学力論の大幅な拡張と刷新を否応なしに求めるでしょう。》


《教育に関する基本的な問いを「何を知っているか」から「何ができるか」へと転換します。》この部分、私にはほんとうに感慨があるのです。やっぱりこう言われる時代が来たと思い、人知れず悦に入ったのです。


学生の時ですからもう50年近くになります。教職単位のためのまったく面白くもない「教育原理」の講義、「日本の教育は主知主義を原理とする」と最初に言われたのです。そこでデカルトの「われ思う、われあり」も言われたと思います。私にはそのことに異和感をおぼえ、わだかまることになります。そのうち大学紛争の嵐があって、多少は揉まれてもみたり、渦から抜け出て斜に構えてもみたり、そんなこんな中でメルロー・ポンティに出合って、ようやく「あたりまえ」の大切さが少しずつわかるようになって、本気でメルロー・ポンティを読むようになって《意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。》("Phénoménologie de la perception" p.160の言葉を見つけたのでした。私には、「われ思う、ゆえにわれあり」に対する真っ向からの挑戦に思えて快哉・・・だったかどうだったか、じわーっとその意義がわかるようになったのかもしれないのであまりなことは言えませんが、とにかく以来、「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉が「われ思う、ゆえにわれあり」を駆逐する時がいつか必ず来るにちがいない、とずーっと思いつづけて半世紀近く、そしてようやく昨日の出合いだったのでした。


以下、十数年前に書いた文章です。(10年前再々録

 

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訃報 木田元先生 [メルロー・ポンティ]

木田元さん訃報260818山形新聞.jpg山形新聞 26年8月18日
追悼木田元 山形新聞260820.jpg山形新聞 26年8月20日

お会いすることはなかったが、40年以上も前、メルロー・ポンティの翻訳書(みすず書房)のほか『現代哲学』(NHK出版)や『現象学』(岩波新書)によって、私にとってメルロー・ポンティへの導きの師であった。あの頃、木田先生が山形県出身ということを知ってなんともうれしく親しみを感じたのを思い起こす。吉本隆明井上ひさしに感じたのと同じものだった。山形に帰ってあらためて「哲学」など考えることのない生活の中でも、木田先生のお名前はいつも気になっていたように思う。昨年あたりになってようやく『闇屋になりそこねた哲学者』を読んでおもしろく、いま『私の哲学入門』が読みかけだ。「哲学」が業(なりわい)と「なる」というのはこういうことなんだなあと思わされる。日本の「哲学業界」の一大革新者だったのではないか。



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最近見えてきた二つの『革命的』出来事(2) ミラーニューロンの発見 [メルロー・ポンティ]

2.DNA発見に匹敵する世紀の大発見」ともいわれるミラーニューロンの発見


ミラーニューロン:「霊長類などの高等動物内で、自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように""のような反応をすることから名付けられた。他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感能力を司っていると考えられている。」(ウィキペディア)


・誰かが転んでケガをするのを見たとき、思わず「痛っ!」。自分が転んでケガをしたときと同じ脳の領域が反応。

・「物まね細胞 ミラーニューロン」の働きで、他人の心理状態を自分の脳内で再現→他人の気持ちへの思いやり

・「ミラーニューロン」の形成は、生後間もない赤ん坊のときに既に始まっている。

・母親が笑いかけると、赤ん坊は笑い返す。また、母親が答えて笑う。この繰り返しにより、ミラーニューロンが、育まれ、これが、成長すると、他人の心理状態を理解する脳へと発展する。(共感能力の形成)



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もっと別の言葉/メルロー・ボンティ哲学における他者の問題 [メルロー・ポンティ]

19日に伊藤哲夫日本政策研究センター所長が来られるとのことで、久しぶりにビジョンの会例会に参加してきた。会場で「立ち上がれ!日本」ネットワーク山形支部の設立の会合であることを知った。地方支部としては第一号とのことだった。はじめての顔ぶれも多かった。

伊藤所長の話の中で、中国、北朝鮮を批判するに「自由と人権」を持ち出されることに違和を感じて質問した。「もっと別の言葉はないのだろうか」と。伊藤氏も自覚しておられるようで、「しかし、『自由』と『人権』という言葉は国際的には力を持つ」と答えられた。私には、アメリカによる占領下の「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」を批判し、その流れでサヨクの持ち出す「人権」に異議を唱えつつ、中国、北朝鮮を「自由と人権」の視点で批判するというダブルスタンダード、結局アメリカの言い分に巻き込まれている今の日本の「保守」の姿が見えてくる。日本本来の保守の立場とは、そうではないはずなのだ。としたら、「日本本来の保守の立場」とは何なのか。「もっと別の言葉」を本気で探したいと思った。

講演の後半で、教育における「情」の面の大切さを強調された。「知」も「意」も「情」の基盤の上にある、と。「情」とは要するに「共感の能力」だと思う。哲学的にはメルロー・ポンティが基礎づけてくれていると私には思えている。35年前に書いたものを正気煥発板に載せたことがある。正気煥発板が消えてしまったのであらためて引っ張り出しておきます。 

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