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山口富永著『昭和史の証言ー真崎甚三郎・人その思想ー』を読む(1)上海事変(1932) [政治]

真崎大将写真.jpg10月13日に「『近衛上奏文と皇道派ー告発 コミンテルンの戦争責任』(山口富永)」の記事を書いた。それから間もなく、ほんとうに偶然だったのだが、薄暗くて普段は見ることもない本棚の隅から、山口富永著『昭和史の証言ー真崎甚三郎・人その思想ー』が「読んでくれ」とばかりに現れた。日本義塾出版部発行平成20年1月28日付納品書が挟まっていた。その頃、太田龍さんの「週刊日本新聞」を欠かさず読んでいた。しかしこの本を買った記憶は全然ない。アマゾンでも日本の古本屋でももう手に入らない本だ。初版が昭和45年5月、昭和58年11月まで5版を重ねている。発行所が政界公論社。今はもうない。発行者が高橋是人、この本を発行するためだけの社名だったのかもしれない。なんとか復刊の途はないものかと、読み終えて切に思う。

序にあった清水謙一郎氏の言葉がずっーと響き続けた。天下は一人を以ておこり、一人を以て亡ぶ、という。この言葉は、真崎大将を偲ぶとき私の胸にぴたりと迫ってくる。》(32P)名宰相管仲について蘇洵が言った言葉として伝わる。清水氏は、昭和10年真崎教育総監更迭に際して差し上げた手紙以来、真崎大将とはその生涯にわたって親交があった。著者山口富永氏の恩師であり、大将と著者の縁は清水氏による。

唯物史観の対極と言っていいこの言葉、真崎大将の弟勝次からも発せられている。「歴史」としての解釈以前、というか、生の「歴史」そのもの、「歴史の当事者」が真崎甚三郎という人物だった。真崎甚三郎という人物を追うことで「歴史の実態」が見えてくる。なぜ「大東亜戦争」になったのか。その解明の鍵となるのが第一次上海事変。

まず弟勝次の述懐、
昭和7年の上海事変の陸軍の作戦は私の兄が参謀次長としてやったのです。私としては説明しにくいのですが、私はあのときの次長としての兄のやり方を見ておって成る程 ”一国はを一人を以って興り、一人を以って亡ぶ” というが、ほんとにその通りであると思ったことがあります。小畑作戦課長の手腕も大したものでした。/あのとき、 陸兵をウースンの上流七了ロから上陸させるさせないで、又上陸できるでききないと言うので陸海軍の間で大変なもつれがあったのです。軍は末次第二艦隊長官が七了口上陸に同意して陸兵を援護して行なったんです。そして立派な敵前上陸が出来ると、上海方面の敵はすぐ退却してしまった。昭和7年の二月十三日から総攻撃をやったんです。そして三月二日に陥落させて三月三日には停戦協定を結ぶと同時に、陸兵が全部撤兵してしまったんです。 くずぐずして兵隊を残しておいたらろくな事はない。此の間の第一次世界大戦の様に問題がもつれて来るからとて、兄は誰にも話さず、荒木陸相と二人だけで撤兵してしまったのです。私もこれには全く敬服しました。” 一人の力”というものの偉大さを、このときしみじみと味わったのでした。/時の総理大臣犬養さんも、意外な早や業に驚いて、「陸軍は又外に何か考えておるのではないか」と言われた。/「冗談言われては困ります。上海にぐずぐずして、長く兵隊を残して置くと何が起るか分らんから、当面の問題が解決したから即時撤兵したのです。陸軍は外交が分らん等と言われますが、是れ以上の外交はないでしょう」と、いっておりました。/あの時、陸兵があそこでぐずぐずしておって残っておれば、あの時点で世界戦争に誘導されてしまった事でしょう。 日本を支那大陸に引きづり込んで世界の袋叩きにせんとする大きなソ連の除謀は実に巧みに動いておったのです。》(209-211p)
昭和6年9月、石原莞爾、板垣征四郎主唱する「満州国」構想に向け仕掛けた南満州鉄道爆破(柳条湖事件)に発する満州事変、それに対して起きた、上海における抗日運動への対抗と国際批判をかわすために仕組まれた昭和7年2月上海事件(首謀田中隆吉)、この一連の関東軍主導の動きの中で、満州事変収拾解決の責を担って昭和7年1月参謀部次長(部長は高齢の閑院宮)に就任していたのが真崎甚三郎。日本の正念場だった。一連の経緯を真崎の「遺書」に見てみる。
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 先ず満州事変に就いて説明する。昭和の初め頃より国際情勢は、日本を孤立に追いやりつつあって、軍幕僚の一部には、日本国家を改造して、ナチス張りの国防国家を建設せんとする気運が盛り上りつつあった。然れども此が実現には見込はなかった。丁度当時は、中国殊に満州に於て張作霖父子二代に亘り、 排日の気勢漲り、我が同胞は悲憤慷慨の極に達し、満鉄の従業員だけにてでも蹶起せんとする勢に迫った。
 関東軍幕僚の一部と連絡し、此の気運を利用して所謂満州事変を起した。
 即ち理想の国家を満州に作り、是より逆に日本に及ぼし、日本を改造せんと欲して起したものである。当時政府は此の真意を知らず只徒に之を抑ゆることに苦心し、不拡大を声明した。軍首脳部に於ても此の方針を奉じて処理したけれども、第一線に於ては遠慮なく拡大し政府を悩ました。
 私は満州事変を収拾すべく昭和七年一月参謀次長の職を拝命し、着任するや間もなく上海事が起り、次いで熱河討伐となった。当時関東軍には北京天津をも一挙に占領せんとする企図があった。曽てハルビン郊外で、馬占山討伐中、石原莞爾が私に洩らしたことがあった。故に数次の制止をも肯かず、関東軍は長城の線を超越せんとする勢であった。当時陛軍の準備として北支に兵を入るる余力もなく, 又中国軍に対し極め手と云うものがなかったので、 動もすれば深田に足踏み込んだ様になる恐れありて、私も拡大を避ける方針であった。
 偶々海軍も拡大に反対であり、 天皇陸下も拡大を好ませられず、或る時は奈良侍従武官長を参謀本部に遣わされ、 関東車が、軍司令官の命令通り行動せざることを非難し、大いに私を叱責せられたことがあった。私は武官長に対し、既に全力を尽し、あらゆる手段を以て長城の線に停まる如く処してあるから私としては、今や他に手段もなく、如何に御叱資を受け、又は処罰せらるるとも、有難く頂載しますと、答えしこともあった。
 或る時は日曜に宮中に召され、関東軍が長城の線を越ゆる恐れあることを指摘せられ、私を責められた。私は前に述べた様に既にあらゆる手段を尽し、有力なる使者も派遣し、又場合によりては軍司令官の更迭をも促す却き合蓄ある私信電報を二回も発送しあったので、事茲に至れば、私自ら長城の線に立って身を以て止むる外余す手段はなかった。
 夫れ故に当時小田原に居られたる閑院総長宮殿下に、宮中より直接に伺候して、即刻満州行の許可を乞うた。殿下は御一考の後、其は最後の手段なる故、今一寸待てと仰せられた。
 兎角して居る内に、武藤関東軍司令官の徳望により
塘沽に於ける停戦協定が成立し、一同安堵することを得た。
 此の如く上海方面に於ては、種々の議論ありしも、軍事外交の事情よりして、 私は一兵も残さず引き揚ぐることとし、又満州方面も大体都合よく終了することを得た。
 而して昭和七年七月十五日に拝し、満州は独立せしむるにあらざれば、治まらざることを私が上奏したることに基いて独立し、政治、外交、軍事、経済も整えらるる様になったのである。
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 停戦協定が昭和8年5月31日。先に挙げた弟勝次の言、あの時、陸兵があそこでぐずぐずしておって残っておれば、あの時点で世界戦争に誘導されてしまった。真崎甚三郎の固い決断による上海からの撤兵で、その事態は当面ことなきを得たのだった。しかし、真崎の苦難はここに発する。
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 斯の如く満州事変の拡大を私が許さざりしことが、陰謀家幕僚連に私が疑わるる様になった。従来の同僚までが私に反対する様になった。小磯、板垣等は死ぬ迄私の不拡大を非難して居た。此が真崎排撃の最初の動機である。比の点特別の注意を要する。往年満州独立の記念祝賀会が新京にて行なわれたことがあるが、 其の時満州事変関係者の主なる者は悉く参列したが、只私のみが案内せられなかった。

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めい

『告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派』(山口富永著)に言及の、放知技板、亀さん発言です。http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17289842/253/

       * * * * *

253:亀さん:2021/04/27 (Tue) 13:25:30
http://bbs6.fc2.com//bbs/img/_409100/409098/full/409098_1619497530.jpg
>>250

自己レスです。

> 微力乍ら小生も菅政権の批判を、精力的に続けていきたい

早速、第一弾www 林千勝氏と三橋貴明氏が、「菅政権を影で操る国際金融資本の正体」と題する、興味深い動画をアップしている。
https://www.youtube.com/watch?v=30PhiYWVM70&t=189s

最初に、本投稿に添付した近衛文麿を囲む↑人間関係図↑、これは林氏が作成したもので、西園寺公望、風見章、山本五十六、米内光政、牛場友彦、白洲次郎、尾崎秀実、松本重治といった、歴史に関心のある読者であれば、お馴染みの顔ぶれが雁首を揃えているのが分かるだろう。この図についてだが、拙稿「二・二六事件と現代」で取り上げた二・二六事件の背景、および『告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派』(山口富永著)を、思い出していただきながら眺めていけば、今まで見えなかったモノも見えてくるはずだ。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1721.html

ところで、動画で特に面白かったのが林氏の牛場友彦評www 竹中平蔵の〝昭和版〟だという評価には笑った。その通りだからだ。

また、後半部で拙稿「世界権力vs.ナショナリズム」と繋がる話、すなわちナショナリズムについて林氏は語っていたが、やはり林氏が作成した、ロスチャイルド年表は注目に値しよう。詳しくは上掲の動画で確認していただきたい。

ところで、2019年5月9日(現地時間)に突然、当時は官房長官だった菅義偉氏が、訪米したことを覚えている読者は多いことだろう。菅氏の訪米目的については様々な憶測が流れていたが、NWOに次期首相のお墨付きをしてもらう、というのが最大の狙いだったと小生は睨んでいたが、今回の動画を観て、小生の推測が当たっていたことを知った。

それから、林氏の解説を聞いて成る程と思ったのは、85年前に近衛文麿も貴族院議長時代の1934年(昭和9年)に訪米、次期首相としてのお墨付きをもらっていたという〝事実〟を知り、そのあたりの林氏の話に思わず唸った次第である。以下はウィキペディア・・・
__________
1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
まさに、歴史は繰り返す・・・

余談ながら、上掲の動画は前半部と後半部とに分かれており、前半部は「共同体」が話の中心であり、小生の共同体観と多くの部分で、林氏の共同体観とが重複しており、嬉しく思った。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し
by めい (2021-04-28 05:20) 

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