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石城神山 [神道天行居]

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神道天行居の修斎会と山上修法、お山に行ってきた。山上修法参加は平成13年以来11年ぶり。修斎会の全日程フル参加はいつ以来か記憶が無い。3年前に病を得たことからもう行けないものと自分で思い込んでしまっていた。1ヶ月ほど前、当時関西地方を旅していた息子に「山上修法に行ってこないか」と言ったら、「お父(とう)が行ったら」。そこから道が開けた。竹さんに「行かないか」と誘ったら即座に「行ぐべ」。しかしほんとうに行けるのかどうか、当日、電車に乗り込むまで不安だった。そしてついに来た、7日の午前9時33分、座席に坐ってようやく「ほんとうに行けるんだ」の安心感。「今日はゆっくり飲みながら行くか。」その解放感が悪かった。結構重いリュックが心臓に応えたのかもしれない。東京名古屋間、のぞみ33号の乗務員さん、ほんとうにご迷惑おかけしました。たまたま乗り合わせておられた看護士のWさん、ほんとうにお世話になりました。一時はお山に行くのを断念しなければならないかとも思った事態でした。名古屋で一旦下車して、態勢立て直し、今度は自由席で。重いリュックは竹さんが持ってくれました。

 

11年ぶりの天行居はそのままだった。8日の修斎会初日。この日を過ごしながら浮かんできた言葉が「なにもかも至福のとき」。掃除をしていても、食事をしていても、神前にあっても、修法をしていても、山道を歩きながらも、なにをしていても「至福のとき」。お山に居る間、ずーっとそうだった。その時その時がそれ自体で完結している、今だけを思っていればいい。お山の外の日常世界はどうか。いつもやがて来るはずのその時のための今、だからいつも追い立てられている。

 

以前、「モモ」を読んで書いた文章を思い出した。転載してみる。

 

  (転載はじめ)

 

モモを返してもらうために灰色の男から10万時間を貯蓄することを約束させられたモモの年取った親友掃除夫ベッポ。

彼はほうきを出し、それを持って町に行き、道路を掃除しはじめました。
 でもその掃除の仕方は、もう以前のように、ひと足進んでは一呼吸、ひと呼吸ついてはほうきでひとはき、というのではありません。せかせかと、仕事への愛情など持たずに、ただただ時間を節約するためだけに働いたのです。彼にはくるしいほどはっきりわかっていました。こういう働き方をすることで、彼はじぶんの心のそこからの信念を、いやこれまでの生き方ぜんぶを、否定し、裏切ったのです。≫(13章 P.245

仕事が、何か別のことのための手段になってしまう。いまの世の中、多くがそうか。

灰色の男のひとりが、モモに秘密をしゃべってしまったことで裁判にかけられる。

「わたくしは、時間貯蓄銀行のためによかれとのみおもってやりました。」
「きみがよかれと思ったかどうかなどは、どうでもいい。」と裁判官はひややかに言い返しました。「だいじなことは、その結果がどうだったかということだけだ。」≫(9章 P.155

結果よければすべてよし、すなわち目的のために手段を選ばず、ひいては未来のために今を耐えよ、この論理がいかに世を穢し、また犠牲を強いてきたことか。

モモの場所はその対極にある。
時間の国のマイスター・ホラがモモに出したなぞなぞ。

「3人のきょうだいが、ひとつの家に住んでいる。
 ほんとはまるでちがうきょうだいなのに、
 おまえが3人を見分けようとすると、
 それぞれたがいにうりふたつ。
 1番うえはいまいない、これからやっとあらわれる。
 2番目もいないが、こっちはもう家から出かけたあと。
 3番目のちびさんだけがここにいる。
 それというのも、3番目がここにいないと、
 あとのふたりは、なくなってしまうから。
 でもそのだいじな3番目がいられるのは、
 1番目が2番目のきょうだいに変身してくれるため。
 おまえが3番目をよくながめようとしても、
 そこに見えるのはいつもほかのきょうだいだけ!
 さあ、言ってごらん。
 3人はほんとはひとりかな?
 それともふたり?
 それとも――だれもいない?
 さあ、それぞれの名前をあてられるかな?
 それができれば、3人の偉大な支配者がわかったことになる。
 彼らはいっしょに、ひとつの国をおさめている――
 しかも彼らこそ、その国そのもの!
 その点では彼らはみなおなじ。」≫(第12章 P.203

答えは、
3人の兄弟はそれぞれ上から未来、過去、現在。
そして3人は時間の国を治めている。時間の国とはこの世界そのもののこと。

なぞなぞを解いたモモは、時間を司り、人間ひとりひとりにその人の分として定められた時間を配る役割というマイスター・ホラの案内で時間の源へと案内される。まだの方はぜひ読んでほしい。そして精いっぱいイメージしてほしい。考えうる最高の境地へといざなってもらえる場面が展開される。

マイスター・ホラのもとに戻ったモモに告げる言葉。

「おまえの見たり聞いたりしてきたものはね。モモ、あれはぜんぶの人間の時間じゃないいんだよ。おまえだけのぶんの時間なのだ。どの人間にもそれぞれに、いまおまえが行ってきたような場所がある。だがそこに行けるのは、わたしに抱いてもらえる人だけだ。それにふつうの目では、あそこを見ることはできない。」
「でも、あたしの行ってきたところは、いったいなんなの?」
「おまえじしんの心の中だ。」≫(第12章 P.219

日本古来の感覚を伝える古神道の訓え(目指す境地)に、「なにもかもかむながら、ますみのむすび、どうすることもいらぬ」というのがある。過去現在未来に対応する。「ますみのむすび」の体得は仏教でいう「悟り」に近いと思う。モモが体験した「時間のみなもと」とは、エンデにとっての「ますみのむすび」の体験を描写したものなのかもしれない。

「3番目のちびさんだけがここにいる。
それというのも、3番目がここにいないと、
あとのふたりは、なくなってしまうから。」≫

時間のみなもととしての「いま」、それだけが「ここにいる」。

  (転載おわり)

なにもかもかむながら ますみのむすび どうすることもいらぬ

お山はまさにその世界の具現化なのだった。



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めい

11年前だった。この時新幹線で倒れた時助けていただいたWさんが、ご主人と山形旅行の途中、我が家を探してお立ち寄りいただいた。ほんとうにびっくりして、そしてうれしかった。名古屋駅ホームで別れた以来のご対面。ずっと年賀状の交流が続いていた。いま、いわく言いがたいこの思いをかみしめている。
by めい (2023-07-11 14:58) 

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