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mespesadoさんによる経済談義(158)日本人にとっての「企業」観 [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

元来、日本人の「企業」観は西洋人のそれとはまったく違う。《「企業とは、従業員たちが集まってモノやサービスを提供して国民を経済的に豊かにするために存在する、そしてその見返りとして得たオカネは従業員で山分けする」》、これが日本人本来の「企業」観。それに対して西洋人にとって「企業」とは、自分たちが儲けるための道具であり、その必然的な帰結として、「労働者」という存在は、企業の活動を直接担って企業の儲けを出すための単なる「道具」に過ぎない。》。ゼニカネ換算の「儲け」が目的になったとたん、世の中の歯車は狂いはじめる。

《金を先んじ諍(いさか)い世の常と成し人の命軽んじて顧みぬ穢(きたな)き企(たくら)み世にはびこることなく諍ひの源祓(はら)ひ清め世の萬(よろづ)の皆々心ゆるやかに和(なご)み合ひ神の心の人の心なる世に移り行かしめ給へと畏(かしこ)み畏みも乞祈(こひの)み奉(まつ)らくと白す》(「神道天行居御分霊月例祭祝詞」)
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3mespesado :2019/11/23 (Sat) 00:20:12
リストラを進めるドイツ銀行では、すでにロボットが人間に取って代わりつつある
https://www.businessinsider.jp/post-202709
> ドイツ銀行は、削減を予定している1万8000人の行員の一部の代わりにロ
> ボットを活用している。

 西洋では日本のゆっくりしたAI化と比べてAI化の本気度が高い。これは、私見だが、欧米では「科学」というものが日本のような「舶来品」として実業の外にあるのではなく、科学が「土着」の文化であるため、科学を直接実業に生かすことが「自然に」できているからではないかと思っている。

 さて、問題は、こういったトレンドに対する評価だ。例によって弓月恵太さんが以下のように警告を発している↓
弓月恵太@ssomurice_round
> 『ドイツ銀行はロボットバカ』
> 人を活かせず、2万人もリストラする企業に何の価値があるのだろう。
> この企業は何のために存在しているのかさえわからない。
> 科学技術の最も醜い活用の仕方だ。
> 日本が目指す技術立国は、人間が主役でなければならない。

 そもそも現代の「企業」という存在は、徹底的な機械化により大量生産によるモノ・サービスを供給することができる組織のことであり、その起源は、当然にルネッサンスにより自然科学が勃興し、それを実業の世界に応用して産業革命を引き起こした「欧米」である。

 ところが「欧米」においては、そもそも市民革命なるものが、(貴族階級でないという意味での)「平民」の中で、産業革命以降の大量生産で大儲けをした人たちが貴族階級が独占していた政治権力を奪おうとして起こしたものであることからもわかるように、彼らが企業を経営する際の基本方針は、本来的に「利己的」なものである。
 従って、彼らにとっては「企業」とは、自分たちが儲けるための道具であり、その必然的な帰結として、「労働者」という存在は、企業の活動を直接担って企業の儲けを出すための単なる「道具」に過ぎない。だからこそ、欧米においては、企業の経営者は、自らの儲けを増やすためにAI化を進め、労働者を減らして賃金という「コスト」を削減するために努力することは、経済合理性の観点からは全く真っ当な行為なのである。
 これに対して日本はどうか。
 日本においては近代的な「企業」という概念それ自体が舶来品である。従って、日本にとっての「舶来品」の常として、その舶来品が、本国において、その地位を獲得するまでに至った歴史はすっ飛ばして、いきなりその「結果」だけを有難く受け入れ、そこに日本古来の伝統を吹き込んで受け入れるのが常である。いわゆる「和魂洋才」とよばれているものに他ならない。
 高度成長が終焉するまでの日本においては、企業とは、経営者を含む企業の「従業員」が、世の中にモノやサービスを供給することを目的として集まって「創設」したものである。つまり、その企業の「持ち主」は、その企業を構成する「従業員」なのであるから、企業がモノやサービスを供給することによって得られた対価は、当然に企業の持ち主である「従業員」が「山分け」するわけである。
 この価値観においては、従業員の「給与」とは、企業収益の各従業員に対する「分け前」以外の何ものでもないのだから、この思想の下では、従業員の「給与」を、企業の利益拡大のために「削減」する、などという発想は出て来るはずもない。

 ところが高度成長が終焉したとき、日本人はその終焉の原因がわからず、ここで日本の「西洋崇拝」の悪い部分が出てしまって、この低成長か抜け出すために、藁をもつかむ思いで、英米で流行った「新自由主義」に嵌ってしまい、企業人は西洋流の「利己主義」に徹することが最良の解決策であるかのように勘違いしてしまい、日本でも企業は経営者が儲けることを目的とす「べき」である、という思想が蔓延するようになってしまった。そしてその結果、従業員の給与は企業が儲けるという目的にとっては単なる「コスト」に過ぎない、という発想に染まるようになってしまったわけである。
 高度成長が終焉し、バブルも崩壊した後の日本が経済の低迷を続けている主要因は、政府会計を家計と同一視するという勘違いから来る「緊縮財政」を続けている事実にあることは紛れもない事実ではあるが、ではこの緊縮財政をやめて「積極財政」に方針転換すればすべては解決するかというと、私はそうは思わない。企業の存在の意味を、西洋式の「経営者が儲けるための手段」であるという、新自由主義の採用以降の考え方を止め、それ以前の日本のような、「企業とは、従業員たちが集まってモノやサービスを提供して国民を経済的に豊かにするために存在する、そしてその見返りとして得たオカネは従業員で山分けする」という、日本本来の思想に復帰する、というプロセスを踏まないと、日本はいつまでたっても「無駄」に不幸が続いて、せっかくの技術進歩による豊かさを享受できる世の中は永遠に来ることは無いだろう。

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