宮沢城内、板碑出土 [宮内の歴史]
宮内新町通り商店街すごろく [宮内の歴史]
きのうたまたま、40年ぐらい前の新町通りを再現してつくったという「宮内商店街すごろく」というのが手に入って懐かしんでいたら、今朝の山形新聞に記事になっていました。一軒一軒の店のイラストがものすごくよく描けています。見ていると、今はもう無い店でも40年前のようすがそのままそっくり眼に浮かびます。それにしても、40年なんてあっという間なんだなあ・・・ つくってくれた晴美さん、ありがとう。わが家では、お客さんに見てもらえるところに貼っておくことにしました。
宮内、賑わいの記憶(補遺) 民話「むかさり」 [宮内の歴史]
宮内、賑わいの記憶(6)近代宮内の礎をつくった佐野元貞 [宮内の歴史]
「北条」郷の関わりでたびたび登場の佐野家は鳥居の場の北西の角。かつて修験の蓮蔵院の家柄だが今は書店を営む。店の様子は外見も中の陳列の様子も私の子どもの頃と全く変わらない。最近誰だったか「不思議な店だ」と言ったが、たしかにそうだ。現当主は私の3級先輩、実にいい人だ。おじいさんもお父さんもよくわかる。そのおじいさんの親、つまり現当主のひいおじいさんが佐野元貞という人。安政4(1857)年5月25日、憲誠、みのの長男として生まれた。文久元(1861)年、コレラ大流行。父憲誠死亡。明治5(1872)年4月9日、宮内500戸の内300戸焼失する大火災。死者2名。鳥居の場掛舞台からの出火。佐野家類焼。明治2年2月から8年3月まで、旧米沢藩士西山乾三郎に就いて漢学修業。明治8(1875)年五等仮訓導。宮内小学校在勤。13年宮内村用係。17年学務委員、月給12円。20年、東置賜郡蚕糸業組長に選挙。21年、宮内養蚕伝習所所長。22年町会議員に選挙。すぐ宮内町初代町長に選挙。40年まで4期半務める。宮内町救育義会幹事。23年、宮内町外十四ヵ村連合会議長。24年、東置賜郡蚕糸業組長。東置賜郡教育会員。27年東置賜郡会議員。30年、宮内町農会会長・・・あらゆる分野に亘って信頼されていたことがわかる。この間、24年町役場焼失、26年5月宮内大火、粡町27戸焼失、33年、十文字風呂屋煙突から105戸焼失の宮内大火と度重なる火災にもあっている。大正4(1915)年12月21日、58歳で死亡。その功績については下記『山形縣紳士鑑』に詳しい。
「佐野元貞」でネット検索して『蠶業示要』なる著のあることを知った。ありがたいことに国立国会図書館に保存されていて、12ページ全文ダウンロードすることができた。いよいよ人口増加の萌し現れつつあるの発行だ。19年頃から次々に新たな工場の創設があり、蚕の需要が飛躍的に伸びた始めた時代だった。この小冊子は養蚕、製糸事業者にとって共通認識を得るのに重要な役割を果したのではなかったか。
小冊子ではあるが当時出版物の貴重さは計り知れないものであったことだろう。印刷社は東京日本橋の吾妻健三郎。実はこの人物、米沢の出身だった。安政3年の生れなので元貞の一級上。全国とび回る元貞とどこかで出会い、肝胆相照らすことがあったのではなかったか。そう思うとゾクゾクッとしてうれしくなる。
もうひとつ最後に付け加えると、『おみきばばちゃの夜噺』のおみきばばちゃこと佐々木みきは、元貞の3歳下の妹。この本の著者でおみきばばちゃの孫田島房子は田島賢亮先生の最初の教え子にして生涯を共にした奥さんです。実は南陽の語り部多勢久美子さん得意のお話に「むかさり」がありますが、その出典は『おみきばばちゃの夜噺』です。多勢さんが南陽を離れて島根の大根島に行ってしまう直前、青苧工房で南陽の人として最後に語っていただいた時、このことを知って驚きました。そのことを思い起こしながら、お姑さんを感心させた民話「むかさり」の嫁さんの和歌で最後を締めました。
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宮内、賑わいの記憶(5)「主要路に沿う職業、82年前と今」比較図 [宮内の歴史]
宮内、賑わいの記憶(4)頂点を極めた頃(昭和8年) [宮内の歴史]
宮内、賑わいの記憶(3) 勃興期を迎えた宮内(大正8年) [宮内の歴史]
手元に大正8年発行の『宮内町案内」がある。この年の11月に宮内小学校を会場に『山形縣蚕糸品評会』が開催されたが、それに合わせて発行されたものだ。須藤流蔭こと須藤多蔵の編集による。須藤多蔵は須藤克三の父。宮内女学校の書記官として学校の一切を仕切っていたという。その人となり、結城亮一氏による山形新聞連載『翠松の丘—宮内高校人脈物語』(2015)に拠って知った。結城氏の取材源はまだ健在でおられるはずの大正9年生れ遠藤きよ子さんと思われる。米沢に住む私の叔母が同級で親しく、最近まで年賀状のやり取りがあったと聞く。それにしても結城氏の取材力はすごい。『翠松の丘』は宮内の歴史に関心ある者には宝の山だ。結城氏はNHKの朝ドラ「いちばん星」(1977)の原作者。
今回のテーマが決まってまもなく、宮内なんでも資料館「時代(とき)のわすれもの」館長の鈴木孝一さんから松風座の昭和15年から17年の入場料明細帳を借りることができた。入場税の支払いのために刻銘に記されたものだ。1年分を表にしてみた。大人の入場料を記入してみたが、6月までは20銭、7月から30銭になっている。いちばん高いのが広沢虎造で1円。今の貨幣価値は当時のおよそ3000倍ぐらいと考えてよさそう。とすると30銭は900円。当時の女工さんの平均日給は約80銭だったという。
品評会の直前に宮内小学校に赴任したのが田島賢亮先生だった。『宮内小学校 百年のあゆみ』にほぼ50年前の当時を思い起こして書かれた貴重な文章があった。大張りきりだった様子がうかがえる。宮内全体大変な盛り上がりだったのだろう。菊まつりのはじまりが大正元年、菊まつりも年々盛大になりつつあった時にちがいない。こう書きつつ、私自身心が高揚してくる。
上野甚作の歌でまさに当時の宮内の情景が思い浮かばされる。「小黒郷」という言葉をこのたび初めて知ったが、まさに「スモールブラックカントリー」、産業革命後のイギリスの工業都市を彷彿させる風景だったのだ。ちなみにこの時、結城哀草果も同行し歌を遺した。
日は照れど汽車の窓より入る風の流石(さすが)に寒き置賜に来つ
宮内、賑わいの記憶(2) 宮内の人口推移 明治5(1872)年〜平成27(2015)年 [宮内の歴史]
宮内、賑わいの記憶(1) 宮内人「矜持」の由来 [宮内の歴史]
◎はじめに
宮内人の矜恃(矜は「ほこり」で、外に向けた思い。恃は「たのむ」で、内に向けた思い)は何に拠るか。
※地域エゴ?
《私が宮内に戻ったのは合併して10年近く経っていたが、何かというと「地域エゴ」が言われつづけた。その言葉はとりわけ宮内の人間に対して発せられた。それだけ宮内の人間に共同体意識が強かったのだ。「地域エゴでなぜ悪い」と気持ちの中では思っても、表立っては言うことがはばかられる空気だった。そうした中で開催したのが「いかにして”南陽衆”たりうるか!?」というシンポジウムだった。当日資料の冒頭にこう記されていた。/「新しい時代は,決してタテマエ論からは,はじまらない。/虚ろな中味の市民憲章,゛地域エゴをなくそう”のお題目,そんな耳ざわりのいいきれいごとがもっともらしく通用しているとしたら,その地域はごくひとにぎりの人だけで動かされているから。/わたしたちの南陽市を,南陽市民みんなのものに。/きれいごとはいらない。ホンネで思いっきりいいあおう。/まず混沌を生みだそう!/きょうの集いで生まれた小さな渦が,南陽市全体をまきこむ大きな渦に育っていくことを願って。/”講演と討論の集い”実行委員会」》
「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」 [宮内の歴史]
宮内小学校の先生方に「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」のテーマで語る機会を与えられました。子ども達に宮内の歴史を伝えるためには願ってもない機会です。張り切って語ってきました。1時間という限られた時間なので、あとで参照していただけるように多くの資料を用意しました。以下です。()内 小文字は、その時語ったことと今思って書き加えたことです。画像はそれぞれクリックで大きくして読むことができます。
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「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」
〜ふるさと学習(地域学習)の授業づくりのために〜
平成27年8月17日 於 南陽市立宮内小学校 会議室
◎宮内人の矜恃(矜は「ほこり」で、外に向けた思い。恃は「たのむ」で、内に向けた思い。好きな言葉です)
○「北条」郷の由来
・背景にある「北条氏の仁政」《「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があった》(「国際派日本人養成講座」 ※末尾に資料掲載)
○置賜の床の間「宮内」(平成になるちょっと前の転がったと思います。熊野大社を中心とする置賜に於ける神社と山岳配置の不思議の発見は、宮内の歴史に深入りする大きなきっかけでした。)
・「四神相応」の地
・宮内熊野大社を核にした5000年の歴史
○菊まつりの源流
・製糸業の繁栄