「大嘗祭の本義」(折口信夫)(3)「神話世界」へのリンク [『古事記神話研究』]
「大嘗祭の本義」(折口信夫)(2)東国との関係 [『古事記神話研究』]
2006-08-05 20:17:31
文武天皇死後の翌月、 707年 2月、阿閉皇女(あへ)即位。47才。8年間。元明天皇です。異母姉持統天皇の歩んだ道を、彼女もまた歩むことになる。宣命「現つ神と大八州しろしめす倭根子天皇が『不改の常典』を守って即位する」と発表。嫡子・首(おびと・聖武)は、まだ 8才なのでやむをえず中継として自分が即位するとした。つまり、首皇子の皇位継承権を、あらためて強調した。
即位にあたって、歌を詠った。♪ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ)楯立つらしも(元明・47才)楯は、敵の矢・刀・矛などを防ぐ武具。8年前の、持統天皇即位式の際、石上(物部)麻呂が大盾を立てた。元明天皇も、同じものものしい儀式で、即位式を行なった。元明天皇の思いに応じ、同母姉の御名部皇女(みなべ)は詠った。♪我が大君 物な思ほしそ 皇神(すめかみ)の 副へて賜へる 我がなけなくに(御名部・50才)(わが大君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命をうけて、あなたのお後を継ぐ者として、ほら、ごらんの通り私がおります)当時、首皇子は8才、天武の皇子は穂積皇子・長皇子など4人もあり、元明天皇が即位することは、皇太妃という地位のもろさがあって、不安があった。
和銅元年(708)、元明女帝の治世は始まった。首脳は、右大臣、石上麻呂(物部)70才くらい。大納言、藤原不比等(首皇子の祖父)50才くらい。・大伴安麻呂(大宰府帥兼任)授刀舎人の制度を新設した。(元明天皇の親衛隊)
正月早々に、武蔵国から、朗報がもたらされた。秩父郡から自然銅が産出したという。早速、年号を「和銅」と改め、恩赦も行なった。武蔵国の庸と、秩父郡の調・庸を免じた。3月、石川麻呂を左大臣に。藤原不比等を右大臣に。大伴安麻呂を九州から呼び戻し、太宰帥は粟田真人に。
和銅 2年(709)春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯石湯(いわゆ)を征越後蝦夷(かい)将軍に任命し、東海・東山・北陸諸国の兵をさずけて、蝦夷征討に発遣した。前年の秋、越後の国司が蝦夷の住んでいた地に、出羽郡を新設し、統治しようとしたため、こぜり合いが起こったから。そして、3年後、出羽郡に陸奥国の最上・置賜(おいたみ・現在の山形県の大半)を加えて、出羽国を新設した。
藤原京は、大宝律令がととのい、役所の数も役人の数も増え、手狭になってきた。
「大嘗祭の本義」(折口信夫) [『古事記神話研究』]
北野達著『古事記神話研究—天皇家の由来と神話—』(3)「はじめに」を読む(後) [『古事記神話研究』]
宣長の「神の道」、小林の「伝統」、吉本の「共同幻想(関係の絶対性)」、これらは重なったものとして在る。(おおざっぱに私はこれらを「共感の体系」という言葉で括っている。)北野の認識では、三者の思いの背景には「個の過剰への根本的な批判」があるという。よくわかる。宣長の結論は「ほどほどにあるべきかぎりのわざをして、穩(オダヒ)しく楽(タノシ)く世をわたらふほかなかりし」ということだった。いいではないか。今の私もそう言える。
さて、「小林の立場」に立った宣長『古事記伝』の読み方とはどのようなものか、という問いに戻る。折口信夫がからんでくる。その前に柳田国男も入り込む。
《柳田国男が「新国学」と称した民俗学は、やはり、日本の価値の体系を再発見しようとする試みであった。》「神の道」「伝統」「関係の絶対性」(さらに「共感の体系」)に連なる言葉として「日本の価値の体系」が加わった。
* * *
柳田が出てきたところでちょっと脱線。
北野達著『古事記神話研究—天皇家の由来と神話—』(2)「はじめに」を読む(前) [『古事記神話研究』]
北野(「宮司」と言うのが私には自然ですが「北野」あるいは「著者」で書き進めることにします)が語るところによれば、5年ぐらい前に一冊の本に仕上げるための視座が固まったらしい。この著に所収なったそれ以前の論文はすべてその視座から書き直されたという。本居宣長、平田篤胤、柳田国男、折口信夫、小林秀雄、吉本隆明、それぞれの思想の根幹に触れた議論が展開される「はじめに」は、著者の基本的姿勢の表明として読める。とはいえ、その理解は一筋縄では行かない。なんとか私なりに整理してみたい。
結論は《筆者は、小林(秀雄)の立場に立って『古事記伝』をよむことができることになる。本書は、宣長をよみ、その導きによって『古事記』が語りかけているところを読み取ってきた成果である。》ということだ。図式にすれば、「北野達←小林秀雄←本居宣長←古事記」の流れで本書は成立した。
ではまず、「小林の立場」に立った宣長『古事記伝』の読み方とはどのようなものか。
北野達著『古事記神話研究—天皇家の由来と神話—』(1) 序 [『古事記神話研究』]
われわれにとっては「宮内熊野大社北野達(さとし)宮司」であるが、山形県立米沢女子短期大学国文学科北野達教授による大著『古事記神話研究—天皇家の由来と神話—』(おうふう 平28.10)を毎日少しずつ読み進めている。『神社新報』に掲載された「『古事記』成立論に一石を投じる一冊」と題する書評にこうある。(クリック拡大)
《『古事記』研究の停滞が危惧されるこの頃、心配を吹き飛ばすやうな大著が刊行された。山形県立米沢女子短期大学教授で南陽市の熊野神社宮司・北野達氏の著書である。
この書の構成は、第一部を「『古事記』の成立」、第二部を「『古事記』神話論」として全十七章。・・・・・その説かれるところ、博引傍証、随処に新見を呈しながら穏やかなものである。・・・・・
『古事記』成立論に一石を投じた、堂々たる六百七十頁の大冊である。》
書評者は古事記研究の大御所という菅野雅雄氏。
700頁に近い大著を前に、たとえ身近な北野宮司の著とはいえ、最初は読み通せるものかどうか心もとなかった。それが昨日時点で第一部(〜162p)を読み終えた。詳細な議論がどこまで理解できているかはともかく、行きつ戻りつしながらなんとかたどりついたというのが正直なところ。第二部はいよいよ神話に入るので楽しみなのだが、著者の薦める『新版古事記 現代語訳付き」(中村啓信 角川ソフィア文庫)を注文したところで小休止。現時点で思うところを書いておくことにした。
「本気で読んでみよう」という気が起きたのは、2回目に「はじめに」を読んだ時だった。昨年暮れに手に入ったその時も「はじめに」はおおいに関心をひいたものの、あとでじっくりと閉じたまま一ヶ月以上すぎていた。あらためて開いて読んだ「はじめに」が本気をよび覚した。そこにはいつも接する北野宮司とは別人の北野達がいた。深いところから見えた「北野達」だった。
実は昨日、書評をいただきながら北野宮司と語った。宮司は「なにものかに書かされた」という意味を話した。そのとき「なにものか」とは神様だったかもしれない。それはあるいは「時代」と言い換えてもいいか、と今ふと思った。宮司は私の5級下だが同じ時代を生きてきた。ここに、私がいま読んで書くことの手がかりがあるかもしれない。
まず「はじめに」について私なりの理解を書くことから始めたいと思って書き始めたのだが、時間がかかりそうなので今日はとりあえずここまでにしておきます。(つづく)