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「須藤永次記念館」を! [吉野石膏]

so-netブログからssブログへの移行とかにうまく対応できず、自分のブログにログインできない状態が3日ほど続きました。毎日の朝仕事、手持ち無沙汰でしたが、「宮内歴史を語る会10周年記念誌」に本気になるきっかけになりました。今月中發刊を目指します(と、宣言しておきます)。

30日、「宮内から市民の新しい拠点をつくろう会」の定例会でした。この日出席できないので、文章にして出席の方に渡しました。9月16日の文章に続く第二弾です。どれだけ伝わってくれるか・・・

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天童市美術館「吉野石膏コレクション」 [吉野石膏]

天童市美術館3Scan 24.jpg昨日の南陽市民大学講座、「吉野石膏 須藤永次伝」を承けての第二講で、天童市美術館に行ってきた。現地研修「吉野石膏コレクションを訪ねて」。天童市美術館は平成2年に県内初の公立美術館としてスタート、当初は天童市出身の画家今野忠一作品や村山祐太郎コレクションの熊谷守一作品が中心だったが、平成5年から「吉野石膏コレクション」の寄託を受けて、コレクションのうち日本絵画が展示されることになって大きくレベルアップした。油絵の場合は常時展示が可能だが、日本画の場合は絵具の耐光度の関係で年間80日間の制約があるとのこと。したがって「吉野石膏コレクション」は258点収蔵されているが、年間3回に分けて展示するようにしている。最近は貸し出しも多く、現在30点が香川県に出張中とのこと。8月22日〜9月8日まで「吉野石膏コレクション 近代日本絵画名作展」の第二期展示中。建設当初吉野石膏コレクションなど全く想定されていなかったわけで、外見はごく地味な美術館。
天童市美術館外観f0048546_691027.jpg天童氏美術館DSC_1432.jpg天童氏美術館 大観コーナーDSC_1433.jpg

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永次の変身 [吉野石膏]

星清一さんDSC_1431.jpg昨日、市民大学講座を聴いていただいた星清一さん(昭和6年4月1日生 88歳。この度スタンフォード大学教授から移って東大経済学部教授になった星岳雄教授のお父さん)から呼ばれて1時間以上にわたっていろんなお話をお聞きした。肥料店を営んでこられた方なので、まずリン鉱石からリン化成肥料をつくるプロセスでなぜ石膏が出てくるかの化学的説明から始まった。聞き流すのはもったいない話が始まりそうなのでボイスレコーダーをこっそり作動させていた。

「桑サンべ」の話が出た。はじめて聞く言葉だったが「三兵衛商法」に関連してのことだった。「農産物というのは大抵直接消費が可能なのだが、桑だけは違う。桑を蚕に食わせて繭にする。桑の出来具合が繭の出来を左右する。そこで桑を売り買いする商売が出てくる。気象の具合でいい年もあれば悪い年もある。売れないときにも売らねばならない。そこで口八丁手八丁手練手管の商売になる。人を良くしていたのではやっていけない。『三兵衛商法』の由来は『桑サンべ』ではないか」ということで、なるほどと納得した。

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永次が浅野総一郎から学んだこと [吉野石膏]

後藤新平と五人の実業家Scan 20.jpg『後藤新平と五人の実業家』(後藤新平研究会 藤原書店 2019.7)が届いた。渋沢栄一(1840-1931 埼玉)、益田孝(1848-1938 新潟)、安田善次郎(1838-1921 富山)、大倉喜八郎(1837-1928 新潟)、浅野総一郎(1848-1930 富山)五人の有力実業家と後藤新平(1857-1929 岩手)との関わりが取り上げられている。

須藤永次(1884-1964)が東京磐城炭鉱株式会社浅野総一郎の代理人の訪問を受けたのは大正初期、30歳前後のことだった。永次は宮内周辺製糸業界の燃料を薪から石炭に替える役割を担うことになる。須藤永次飛躍の第一歩となった。須藤永次商店広告Scan 13.jpg大正8年の須藤永次商店の広告には、福島出張所、山形支店の記載もある。『須藤永次翁伝』に《石炭で浅野総一郎翁に目をかけられ、かわいがられたことは終生忘れ得ないことであった。翁は再度にわたって永次の家を訪れ「かせぐに追いつく貧乏なし忍耐」と揮毫して若い永次の人生訓として与えたのであった。》とある。浅野との出会いによって、永次はそれまでの田舎商売から脱却する。目は世界に開かれる。

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神が永次に石膏を与え給う [吉野石膏]

『吉野石膏90年史』本文の最後に、「種々の素材が開発されてきているが、いまだに石膏に代わる物質は生まれていない。おそらく将来にわたり、石膏のように単純な物質で、石膏の機能を代替するものは現れないと思われる」という瀬戸山克己工学院大学名誉教授の言葉があった。あらためて須藤永次の一生を辿ってみて、その成功のキモは「石膏との出会い」に尽きる。神が永次に石膏を与え給う。

石膏とは何か。吉野石膏サイトの説明がよくわかる。http://yoshino-gypsum.com/sitemap/index.html

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我々が目にする「せっこう」は2分子の結晶水をもつ硫酸カルシウムで、通常「二水せっこう」と言います。
  • 二水せっこうは120℃~150℃に加熱すると結晶水全体の3/2を失って「焼せっこう」になります。
  • 焼せっこう」に水を加えると水和反応を起こし、再び元の「二水せっこう」に戻って固まります。
この性質を利用し、2枚の厚紙(原紙)の間に水で練った「焼せっこう」を流し込み、板状に固化させて、せっこうボードはできています。

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須藤永次と伊東忠太 [吉野石膏]

昨日、ナセBAに行ったら平田東助展をやっていた。これまでJA全国教育センターにあった平田東助像が米沢に移転されることに伴っての開催だ。平田の妻は山県有朋の姪で品川弥二郎の妻の妹ということで、長州閥の中で枢要の地位を占め、健康を理由に辞退したが総理大臣就任を要請されたこともあったという。建築家伊東忠太(1967-1954)は平田の兄伊東昇廸(米沢藩藩医、後に陸軍軍医)の次男。松岡正剛によると《伊東は(辰野金吾らの)洋風一辺倒の明治建築に対抗し、ユーラシア全域を背景とする建築にとりかかる。しかしその建築作品と建築思想はいまなお、アジア主義の成果だとか、国粋主義的な建築物だとか、国威発揚に走ったとか、いやいやその造形力は日本建築史でも屈指の独創性をもっているとか、毀誉褒貶がはなはだしい》という。伊東も「置賜発アジア主義」の系譜に連ねてもいい一人であることに気づかされた。その伊東が、昭和11年(1936)完成の国会議事堂に使われたタイガーボードを高く評価した言葉が『吉野石膏90年史』にある。わざわざ伊東の言葉が紹介されているということは、須藤永次は伊東とも繋がっていたに違いない。また、《伊東忠太のパトロンとして有名なのが、大倉喜八郎》という。大倉は永次にとっては恩人とも言える浅野総一郎とも近い。『須藤永次翁伝』には、《(浅野総一郎は)渋沢栄一氏に見出され安田善次郎、大倉喜八郎氏と共同者として事業界に乗り出した》とある。サッポロビールは明治21年、株式会社札幌麦酒会社としてスタートしたが、創立発起人に渋沢、浅野、大倉の名が連なる

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須藤永次は結城豊太郎とつながっていた!? [吉野石膏]

24日の南陽市民大学講座で語ってきた「吉野石膏 須藤永次伝」、佐藤庄一結城豊太郎友の会々長の発言もあって、結城豊太郎にリンクした。

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・昭和7年(1932) 焼石膏の最大得意先タイガーボード製造合資会社に貸倒れ発生(1万6千円)→半年間の委託経営で石膏業者が経営すべき事業であることを確信→日本興業銀行によって競売。吉野石膏採掘製造所が落札(1万3千5百円)。永次曰く「実は私も保証金(一割)の外、資金は持ってません。この建物を自分の工場の方に移転します。その落成と共に担保に入れますから、残金の全部を何とか貸してもらいたい。」「興業銀行と申せば、国民の事業をおこすための銀行であると信じていますから、この破れ果てた工場を再興しようとお願いするのです。私には必ずやってみせる自信があります。そこを信じてください。」→日本興業銀行、承諾

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吉野石膏 須藤永次伝(南陽市民大学講座) [吉野石膏]


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吉野石膏 須藤永次伝

◎なぜ、須藤永次か
吉野石膏コレクションポスター 1.jpg・「吉野石膏コレクション巡回展」
2019年4月9日~5月26日 名古屋市美術館
・2019年6月1日~7月21日 兵庫県立美術館・
2019年10月30日~2020年1月20日 三菱一号館美術館
《石膏ボードを中心とした建築資材で知られる吉野石膏株式会社は、社内の創造的環境づくりを目的に、1970年代から日本近代絵画、1980年代後半からはフランス近代絵画の収集を開始しました。1991年、創業の地、山形県の山形美術館に作品を寄託し、モネ、ピサロ、ルノワール、シャガールらの作品を公開すると、市民の大きな反響を呼びました。2008年には、美術活動へのさらなる貢献を目的に、吉野石膏美術振興財団を設立、若手芸術家の育成や美術における国際交流の支援などにも力を注いでいます。収集の歴史は比較的新しいものの、今や日本ならびに西洋近代美術の名品を多数所蔵し、質量ともに充実した国内有数のコレクションとなっています。》(兵庫県立美術館)
・今年2月24日、日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」
《絵画に革命を起こした印象派の画家たち。彼らの作品は日本でも数多く見られる。アートをこよなく愛する3人の有名人が、日本にある印象派の殿堂を巡り、その魅力を味わう。》《ひろしま美術館を訪れたのは、高校時代にモネの絵を見て印象派のファンになった女優深川麻衣さん。モネが連作の手法で描いた「セーヌ河の朝」の1枚と出会う。山形美術館に向かったのは、自ら個展を開くほど絵に力を入れている演出家・作家の大宮エリーさん。シスレー、ルノワールの傑作と出会い、不思議な色彩表現に心奪われる。茨城の笠間日動美術館を訪ねた歌舞伎俳優尾上右近さんは、ある作品に歌舞伎との共通点を見いだす。》
須藤永次2.jpg・2月28日、連続テレビ小説「まんぷく」。戦争のひもじい思いが原点でインスタントラーメンを開発したはずの主人公(安藤百福)が、それをそっくり真似するメーカーの出現に怒りを爆発(その後の回で和解)→20年前に吉野石膏の須藤恒雄会長から聞いた、競争会社に特許を公開して石膏ボードを普及させた話を思い出す。→ちょうどその日、市民大学運営委員会。

平源助さんDSC_1927.jpg・平源助さんの話を聞いておきたい。『須藤永次翁伝』に、幼少時いちばん親身になってくれた叔父として登場する平角太郎の孫である源助さんには、身内ならではの話を折あるごとに聞いてきた。しかし断片的なので、今のうちにきちんと聞いて整理しておきたい。まだまだ元気だがもう82歳。

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須藤永次伝(平源助さんに聞く) [吉野石膏]

 「ええんつぁのわれごどだったらなんぼでもかだれる(須藤永次についての悪いことだったらいくらでも語れる)」という平源助(昭11生)さんの話を聴く機会があった。5日、琴平神社祭典の後片付けしながらのことだ。忘れないうちにメモしておく。(双松公園にある琴平神社の祭典は、昭和36年以来、吉野石膏からの祭典費助成を得ながら今に続く。粡町、横町、久保、仲の丁、足軽町の東部5町内が氏子となっている。その発見が吉野石膏発展のきっかけとなったという琴平神社に合祀される魚籃観音の祭事も併せて行われる。↓は粡町通りでの神輿参拝風景。人口減が如実)

琴平神社祭典 粡町参拝.jpg

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吉野石膏の歴史(8)最終回 [吉野石膏]

最終回です。

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  カッコ悪いけどね

 コンピナートがIカ所ばかりじやないからね、そっちこっちだからね、三菱系統なら三菱系統、住友系統なら住友系統だけならいいんだけども、そういう訳にはいかなくなってしまった。いま問題になってるけども、窒素(新日本窒素)とか宇部・今のセントラル硝子ね、三菱化成、三菱金属、コープ、そして日産化学とか多木建材とかね、大きいところばかりだ。だもんだから、資本金は六億のままなんだ。資金が必要であれば、やっぱり資本金六十億くらいになってなくちゃならない。少なくとも、資本金三十億くらい無くっちゃカッコ悪いんだけどね。外部の株主誰も居ない。自然にそうなってしまったわけだよ。
(こういう会社というのは、全国でも例がないんじやありませんか。)

 無いねえ、独特の格好だからね。住友系統なら住友系統で大きくなるとか三菱なら三菱系統でって、そういうことではなくなってしまったわけだ。

(衣袋監査役)原料のあるところからシェークハンドしてきたわけでね。で、株も半分半分、作って売るのは全部ウチでね。

(須藤会長)技術は全部こっち、販売もね。向こうは原料だけ、という独特な形というわけだよ。

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