直江兼続公400回忌、東源寺で [直江兼続]
かねたんママ 蘭子さま、米沢デビュー [直江兼続]
昨日、尾崎世一氏自叙伝「わが人生を顧みて」の出版祝賀会が米沢第一ホテルで開かれた。セレモニーのあと、1時間ほどステージ座談会が行われ、パネラーのひとりとして登壇した。パネラーはほかに、安部三十郎米沢市長、長瀬哲飯山市教育長、伊藤精司米沢市農業委員長、そして主役の尾崎世一米沢食肉公社社長。司会は成澤礼夫米沢日報社長。
あらかじめ私に与えられた課題は、「飯山市の歴史団体(桜会)との20年にわたる交流について」「上杉の国替えで飯山から宮内に移った尾崎重誉について」「昨年、長野県立歴史館での直江兼続の母親は尾崎重歳の娘『蘭子』であることを確認したことについて、南陽ではどう受け止められたか」というものだった。
和光神社が結ぶ歴史的奇遇 [直江兼続]
米沢御堀端史蹟保存会が発行する年刊誌「懐風」に寄せた文章です。
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和光神社が結ぶ歴史的奇遇
―― 兼続の母の実家、尾崎家との関わりの中で
〇はじめに
現実感覚では不思議としか言いようがない偶然の出会いというものがあります。フロイトの精神分析を継承発展させたユングはそれをシンクロニシティ(共時性)と名づけ、原因があって結果がある現世的因果律とは別レベルのこととして説明しようとしました。ユングはシンクロニシティが起こる根底に集合的無意識というものを想定します。集合的無意識とは個人の無意識のさらに深層にあって、その視野は個人を超え全生物の深層心理にまで及ぶと考えます。普段の意識では窺い知れない深い意識のレベルでは世界は普(あまね)くつながっており、そのつながりが偶然の出会いを演出しています。表層の意識レベルでは偶然でも、深層からみれば必然です。その次元には、すでに現世にはない先祖の意識もあれば、いわゆる神々の世界もあるのです。こんなことを現実のこととして実感させられた平成二十一年十一月十五日の出来事について記させていただきます。
四百年の歴史を越えて―兼続公の母がとりもつ?奇跡の出遇い [直江兼続]
“直江兼続公の母がつなぐ縁”信州飯山市との交流の集い(2)で書いたことを、その後のことも含めて「週刊置賜」に書かせていただきました。転載しておきます。
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四百年の歴史を越えて――兼続公の実母がとりもつ?奇跡の出遇い飯山からの来訪
十月の末、旧知の元飯山市議服部一郎氏から、飯山市尾崎地区の団体で南陽に行くのでよろしくとの電話があった。その時、一九九八年に国替四百年を記念して立てた宮沢城址の標柱が朽ちてしまったことを伝えた。数日後、ずっと丈夫な標柱を用意して持ってゆく旨の連絡が入った。柱は建築会社を営む元飯山市議会議長の上村力氏から寄贈を受け、石田正人飯山市長が揮毫してくれることになっているとのこと。こちらも個人的な対応で済むことではなくなって、十一年前と同じく南陽文化懇話会としてお迎えすることになった。 十一月十五日のその日、南陽文化懇話会の役員のほか、ゆかりある方々にも声を掛け十五名で迎えることになって準備を進めていた。正午到着の予定だったのだが、ここ数年道路状況がよくなっていたこともあってか一時間も早い到着となった。急遽予定を変更して、最初に熊野大社に参拝していただくことにした。飯山から勧請された和光神社には正式参拝していただくべく、北野宮司にはあらかじめお願いしてあった。 神社境内の東北の角、丑寅の方角に鎮座する和光神社は、丑年寅年生れの人をお守りする虚空蔵様として親しまれている。実はこの神社は、尾崎氏の先祖泉氏以来代々の氏神様、秀吉の命による上杉転封に伴い、慶長三年(一五九八)、宮沢城主として宮内を差配することになった尾崎重誉が飯山からお遷しした神社である。尾崎重誉は泉氏尾崎家の第十代、直江兼続公の母、すなわち樋口兼豊の妻は、重誉の曽祖父である尾崎家第七代重歳の娘であることが明らかになっている。江戸時代新井白石によって著された大名や武将の系譜書「藩翰譜」以来、兼続の母は、兼続の妻お船の方の叔母、すなわち与板城主直江景綱の妹であるとされてきたのだが、近年の研究は尾崎家の出であることを正しいとするようになってきた。飯山の方々の久しぶりの来訪も、当然このことへの関心が背景にあってのことである。大河ドラマ「天地人」は、忘れかけていた四百年前の様々な記憶を、関わりある人たちの心によみがえらせてくれたのである。
“直江兼続公の母がつなぐ縁”信州飯山市との交流の集い(2) [直江兼続]
この日、尾崎家の御先祖、尾崎家の氏神様のお計らいとしか言いようのない出会いがありました。
飯山からの御一行19名が予定より1時間も早く着かれたので、スケジュールを急遽変更して最初に熊野大社参拝をしていただくことにして一行をご案内しました。石段の途中まで来たとき、宮司が上からこちらに向かって「奇遇だ、奇遇だ」と声を上げています。なんと、そこに福島市上名倉の和光神社の氏子さんたち28名の一行がおられたのです。
慶長3年(1898)旧暦3月秀吉の命による国替えで、信州飯山尾崎を本貫とする尾崎重誉が宮沢城主として宮内に入ります。いま宮内熊野大社境内にある和光神社は、その時飯山から勧請した泉氏尾崎家代々の氏神様で和光大明神と呼ばれていました。その後重誉は半年そこそこで福島に移ります。そしてその地福島市上名倉にも和光神社が今も大切に祀られていたのでした。
そしてなんと、飯山の一行と福島の一行が何の打ち合わせもなしに、宮内の和光神社のご神前でばったり出会うことになったのです。しかもこの日は、和光神社に正式参拝していただくべく神社にお願いしており、期せずして和光神社に縁ある3つの土地の代表が玉串を捧げることになったのでした。こうしてこの日つながった縁が今後どういうふうに展開することになるのか、尾崎の御先祖、ゆかりの神様にお任せ、やらねばならないことがありましたらどうかやらせていただきますという思いです。
福島の一行とはこれからの交流を約束してそこで別れ、その後は地元宮内の一団と飯山の一行で宮沢城址での立柱式へ。北野宮司に立派な祝詞を上げていただきました。
降ったりやんだり時には荒れたりで朝から心配していたお天気が、あとで写真を見て気づいたのですが、このときばかりは青空になっていました。
記念写真もみんな晴れ晴れとしています。
そして熊野大社證誠殿での直会。乾杯の音頭は大正5年生れの菅野俊男前南陽文化懇話会会長にとっていただきました。
できたてのスライド「続・直江兼続公と南陽―尾崎氏と色部氏」を見ていただきながら食事、そして懇親。お土産には「宮沢城絵図」を布に拡大プリントしたのをさしあげ喜んでいただきました。このたびの団長として館長さんもおいでの外様公民館に飾っていただけることと思います。
(この絵図は現在、南陽市教育委員会所蔵。この日柴田副市長が特に借り出してみんなに実物を見せていただきました。)
“直江兼続公の母がつなぐ縁”信州飯山との交流の集い [直江兼続]
“直江兼続公の母がつなぐ縁”信州飯山市との交流の集い (予定表)
平成21年11月15日(日)山形県南陽市宮内 熊野大社證誠殿
◎ 集 合 熊野大社證誠殿 (正午予定。飯山市ご一行到着次第宮沢城へ向かいます)
◎ 立柱式 宮沢城址◎ 熊野大社参拝 (熊野大社、八幡神社、菅原神社、和光神社。和光神社御神前正式参拝)
◎ 直 会 熊野大社證誠殿 (午後1時予定)
一、 開会(柴田 誠)二、 南陽文化懇話会代表挨拶(粟野収吉)三、 飯山代表御挨拶(服部秀人外様公民館長)四、 乾杯(菅野俊男)五、 スライド「続・直江兼続公と南陽―尾崎氏と色部氏」(25分)六、 交流七、 締め(服部一郎氏)八、 閉会(伊藤敦信)◎お見送り(午後2時30分)
南陽市側参加者名簿(五十音順)
粟野収吉 郷土史研究者(元南陽市議・元農業委員長)板垣勇雄 板垣作右衛門子孫(果樹農業)伊藤敦信 南陽文化懇話会(歯科医)恩地耕一朗 南陽鷹の会(元森林組合)菅野敬三 南陽文化懇話会(前会長子息)菅野俊男 南陽文化懇話会(前会長)北野 達 熊野大社宮司(県立米沢短期大学国語国文学科教授)小関幸二 郷土史研究者(郵便局)齊藤喜一 南陽鷹の会会長(獅子冠事務所頭取)柴田 誠 南陽文化懇話会(南陽市副市長)菅井敬一郎 南陽文化懇話会(元教育委員長・菖蒲沢在住)鈴木和他 前置賜総合支庁商工労働観光課長(菖蒲沢在住)髙岡亮一 南陽文化懇話会(染物業)髙岡遼多 撮影 星野荘蔵 宮沢城址畑地所有者
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下記報道なりました。
http://yamagata-np.jp/news/200911/15/kj_2009111500273.php
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20091115-OYT8T01078.htm
この日のこと、後ほどあらためて書きます。
「続・直江兼続公と南陽―尾崎氏と色部氏」 [直江兼続]
スライド「直江兼続公と南陽」の続編がまもなく出来上がる。昨日ハイテックプラニングセンターからできてきたのを一日がかりで手直しして今日置いてきた。明日の「天地人絵巻ウォーク」、お客様があれば初公開したい。
当初は、昨年作ったものの改訂版のつもりだったのだが、その後の蓄積もあったので、「続・直江兼続公と南陽―尾崎氏と色部氏」とした。正続あわせると1時間近くになる。1枚にまとめて販売まで持ってゆくつもり。一昨日、新顔ぶれで初めての南陽文化懇話会の役員会で当会の事業として進めることの了承を得た。以下はその原稿。
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兼続の妹の夫、金山城主色部光長と保呂羽神社 [直江兼続]
「南陽『天地人』絵巻」、ともかくスタートはしたもののまだまだやらなければなりません。7/4を皮切りに、毎週土曜日午前10時半から「絵解きウォーク」をやることになりました。最終の11/14まで20回やることになります。粡町通りの突き当たりにある琴平会館を集合場所にして、そこで「直江兼続公と南陽」のスライドをみていただき、そのあと絵巻の説明を聞きながら通りを歩いていただきます。所要時間はやってみないとわからないけど1時間から1時間30分ぐらい。7/4まで残りの絵巻どこまでできるか。材料作りは終わったので、EMAKI-PROJECTの若い衆の力にかかっています。
材料作りでいちばん手間取ってしまったのが「色部」関連記事づくりでした。というのも、金山地区が公民館を中心に盛上りだしているのに加えて、手元での思いがけない大発見があったからです。以前から秩入りの手書の古文書「越国武鑑記」全六巻があるのはわかっていて、亡くなったおやじがいつだったか米沢の図書館だかに持ち込んだのだけれど相手にしてもらえずがっかりしてどこかにしまいこんでいたのが、数日前ひょっこり出てきたのです。比較的読みやすいカタカナ混じりの楷書で書いてあるので拾い見して最後のところを見ていたら、なんとそれが色部修理進長実(光長の父)についての記事だったのです。その内容も入れて書いたのが次の文章です。
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南陽「天地人」絵巻 [直江兼続]
今から17年前、街路灯を設置するためにできた商店街組織「粡町商店街」。発足当時は20店ほどでしたが、今は13店だけ。そして商店街の目玉的存在である藤屋お菓子やさんが南陽高校の方へ新店舗建設中で8月には移転。火曜日が藤屋さんの定休日なのだけれども、藤屋さんのシャッターが閉まった粡町の寂しさは何とも言い様がない。これからは毎日が火曜日になる粡町商店街。いずれなくなるにしても最後の花を咲かせるのは今しかない。そんな思いから出発し、置賜文化フォーラム、大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会(予定)から補助をもらって取組んできた「南陽『天地人』絵巻」。バラ、さくらんぼの季節に合わせて、一応明日からのオープン。昨日までにポスター、チラシも出来上がり宣伝開始。もうわれわれ感覚ではだめだから若い感覚に頼って、ということでの若手4人起用。すごくがんばってくれています。今日から飾り付けをはじめます。以下チラシの文章です。
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宮内熊野大社から北へ約三00メートル、左手の小高い丘に「宮沢城」とよばれる城がありました。その最後の城主は、尾崎三郎左衛門重誉という、徳川家康をうならせたほどの武勇が伝わる人物です。慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉の命による上杉藩の国替えで、直江兼続と共に信州飯山から置賜に入り宮内の城主となりました。実はこの尾崎家こそ、直江兼続の実母「蘭子」の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻・蘭子は、重誉の曾祖父・泉氏宗家尾崎弥七郎重歳の娘。慶長九年(一六〇四)に没し、直江家の菩提寺・徳昌寺に葬られたとの記録が残っています。これまで兼続の母は、兼続の妻・お船の方の叔母、すなわち与板城主直江景綱の妹であるとされてきました。大河ドラマ「天地人」でも「お藤」の名で登場し、田中美佐子さんの好演が、兼続の子供時代の与六役加藤清史郎くんと共に心に残ります。
しかし南陽市史の編纂にあたって尾崎家に伝わる文書が解明されたことなどにより、兼続の母は泉氏尾崎家の出であることが明らかになっていたのです。そしてこのたびの兼続再評価の中であらためてそのことが認められるようになっています。
なぜこれまでに真実が隠されていたのでしょうか。そこからは、泉氏尾崎家が上杉の正史から消えた謎や、兼続・お船亡き後、上杉家が生き延びるために取らざるを得なかった直江家への処遇の問題など、きれい事では済まない先人達の苦悩も浮かび上がってきます。
「天地人」ブームの中で各地の史実が改めて見直される今、あまりまだ世に知れてはいない兼続の実母をめぐる問題にも光を当てながら、南陽と直江兼続の関わりをテーマに絵巻としてわかりやすく表してみました。足下の歴史に沈む先人の汗と涙を感じとっていただければと思います。ぜひ足をお運び下さい。
良寛さんと直江兼続公 [直江兼続]
4月前半、17日間病院のベッドで過ごすというかつてない経験をした。あわただしくなくゆっくり本を読むことができた。ほんとうに読みたい本というのがわかった気がした。ずっと本棚に積みっぱなしだった渡邊三省氏の『人間良寛』を読んだ。等身大の良寛さんが伝わってきた。南陽鷹の会で編集中の「出羽(いでは)まんだら里山暦」に、良寛さんの季節に関わる歌を引用させていただくことにした。そのあと鈴木由紀子さんの『直江兼続とお船』を読んでいて、お船の出家後の名と良寛さんの最後を看取った女性の名が共に「貞心尼」であることに気づいた。それに、良寛さんと深く関わったもう一人の女性維経(馨)尼が命を賭けて尽くした寺が、直江家が断絶したあと破却されて米沢から与板へ戻った徳昌寺であった。良寛さんは六十歳を過ぎてから米沢を訪れている。その目的は何であったのか。川内芳夫氏の『良寛―米沢道中の目的は何であったか』はもっぱら鷹山公だけで、このことについての言及はない。私には二人の女性との関わりを考えたほうが良寛さんらしいと思えるのだが。
以下は「里山暦」の内容とそこに引用させていただいた良寛さんの和歌。それとあとがきで書いた文。
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