訃報 流政之さん [小田仁二郎]
ツチヤタカユキ『笑いのカイブツ』 [小田仁二郎]
こういう世界もあるのか、とリテラの記事で知った。アマゾンのレビューに《あふれんばかりの情熱を文章のなかに感じました。心動かされる最高の作品です。》とあって衝動買い。届くや、忙しいのに一気に読まされた。
読みつつなぜか小田仁二郎を思いうかべていた。なんとなく、宿題としてずっと気になっている『にせあぽりや』の世界のような気がしていた。このところ書いてなかったアマゾンレビューを書きたくなって、なぜ小田仁二郎と重なるかをさがしているうち、『塔の澤』に思い至った。このくだりは他のところにもあったし、たしか寂聴さんも書いている。(とりあえず『場所』を注文)
『塔の澤』は、昭和29年下半期直木賞の予選候補作だった。手元に初出の「文学者53」がある。その後活字になったものかどうか。
以下、レビュー。
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宮内が主な舞台の『にせあぽりや』があってはじめて『触手』がある [小田仁二郎]
宮内が主な舞台の『にせあぽりや』があってはじめて『触手』がある
小田仁二郎は、昭和32(1957)年に『新潮』に書いた「文壇第二軍」というエッセーの中で《わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか。》と言っていますが、小田仁二郎はまさに「問うべきことを深みにおいて捉えた人物」だったのです。時代がようやく小田仁二郎を理解できるようになってきた、そう思います。
上田周二「深夜亭交友録(三)ー小田仁二郎のこと」 [小田仁二郎]
種村季弘による「『にせあぽりや・触手』論」 [小田仁二郎]
27日のこと、「小田仁二郎と宮内」の資料を私設宮内郷土資料館「時代(とき)のわすれもの」の鈴木孝一さんに持って行って、貴重な仁二郎関連資料をお借りしてきました。『器怪の祝祭日―種村季弘文藝評論集』(沖積舎 昭59)と『時間と空間』という上田周二主宰の同人誌第16号(昭60)です。前者は立派な装丁の箱入り本。「ある老胎児の回想」として『触手』の内容に深く立ち入っての7ページにわたる評論。福田恆存による巻末解説は別として、『触手』の紹介としては私がこれまで知った中で群を抜いてダントツです。初出は「週刊読書人」昭和55年1月21日号。
まとめの部分を写させていただきます。
《主題からいえば酸鼻をきわめる血の頽廃を書いた自然主義小説にそっくりでありながら、現実に見合う力のない未生児の追憶として書かれているので、すべてがもはやない世界として現前しており、あるいはこの未生児は死産児として流されることになるのだから、これから先もあり得ない世界として現前している。書かれた内容を裏切って、作品の読後感が一種あえかな王朝風のみやびを喚起するのはそのためだ。あえていうなら『桜の園』の透明な終末感、いや、見渡せば花も紅葉もない藤原定家の匂いたつ虚無の香りが、血と精液にまみれたむごたらしい宴のあとに立ちこめる。死母の巨大な汚洞は、それが生み出した無惨な人間と現実を呑み込み破壊しはするが、同時に言語として虹のような七彩の夢を吐き紡ぎ出すのである。それかあらぬか「触手」の文体は、どこか一切が終った後にはじまる新古今調の有心体の今日的な立ち帰りを思わせないでもない。生(なま)の官能をことごとく鏖殺(おうさつ―皆殺し)しおえた後に来る言語の官能の響きである。しばしば誤解されてきたように、小田仁二郎は肉体派文学の旗手ではなかった。》(64p)
この文の後に「にせあぽりあ」の「にせ」の解明の文章がつづくのだが、そもそもこの評論の書き出しが《アポリアといえば行手に通うべき道なきこと、すなわち八方塞がりであり、転じて難問の意である。》(59p)で始まり、さらに中で《難解なのは・・・出口という出口をしらみつぶしに塞いでは自ら作り上げた八方塞りを手探りにひとつひとつ確かめている、不可解な作業だったのだろう。どこにも抜け道のない、すなわちアポリアと化した言語空間。》(60p)《連用止めの不安なたゆたいはもはや日常と見紛うまでに安定している。この文体に閉ざされた世界は、したがってどこまでも遅延された八方塞り、出口なしなのである。》(63p)とある。
先の文(64p)にはこうつづく。
小田仁二郎と宮内 (南陽市民大学講座資料) [小田仁二郎]
昨日、南陽市民大学講座で「小田仁二郎と宮内」について語ってきました。用意した資料が多くなったこともあって、1時半から始って2時間たっぷり、質問というより、小田仁二郎のすぐそばに家が在って仁二郎についてこどもの頃の記憶を書いておられる牧野房先生や小田家とは隣組だった大津敏子さんも来ておられてこちらがお聞きすることも多く、終ったのは4時近くでした。
とにかく「小田仁二郎評価の気運を!」とはりきって臨み、それなりの達成はあったのではないかとの手ごたえも感じています。以下資料です。
小田仁二郎(1910-1979)と宮内
◉寂聴さんの予言
《その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。》(「週刊置賜」平成4.3.21)
《小田さんの『触手』は、当時としては世界の文学の新しい方向を指し示しているといわれたものです。だからこそ、当時の日本の文壇には受け入れられず孤立したのです。でもその後も、『触手』に触発されて文学に目を開かれた青年たちが何人もつづいています。小田さんの霊はそのことで以て瞑すべきでしょう。今の日本の新しい小説というものは『触手』の跡を追っているようなものですよ。》(「寂庵だより」)
◉寂聴さん予言の根拠
《井筒俊彦さんが小田仁二郎の『触手』の文章を「これは言語学的にすばらしいものだ。」というふうにおっしゃいました。どこがどうすばらしいのかを聞いておけばよかったんですけども、私はただ言語学的にすばらしいということを、コーランを訳すえらい学者が言ってくれただけでうれしくって、あ、そうですか、そうですかと言ってしまって聞いておかなかった。・・・けれどもまだあの方は生きてらっしゃいますから聞いてみようと思いますが・・・そういうことがありました。(この講演は平成3年。井筒俊彦さんが亡くなったのは平成5年)そしてそれを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。井筒さんが「あなたのこの『触手』の文章は言語学的にほんとうにすばらしい。これはだれにも書けないものだ。言語学的にすばらしいということを証明できるのですよ。」と言った。それを聞きまして、非常にうれしそうな顔をしたのを覚えております。》(「週刊置賜」平成4.3.21)
小田仁二郎文学碑(宮内公民館敷地内) 見える建物の後が生家跡。
上の写真にある文学碑前の案内。布に染めたもので今はない。菊まつりを民間主導で盛上げた平成18年につくった。
生家跡の現在。宮沢川も暗渠となり、塀のみがおもかげを残す。
髙橋和巳による小田仁二郎評価 [小田仁二郎]
自分なりの論理(スジ)を持つという姿勢の持ち様を教えてくれたのは、吉本隆明以前、髙橋和巳だった。大学2回生の頃だった。その夏休み、釜ヶ崎近くの新今宮で手配師に拾われ10日間ほど飯場暮らしをした。「堺市北瓦町大末組ニチイ堺工事現場」とメモしてある。ウィキペディア「過去に存在したニチイの店舗」の中に「堺店(大阪府堺市(現・堺市堺区)北瓦町1-3、1968年(昭43年)11月23日開店- ?閉店)ニチイ初のショッビングセンターの店舗で店舗面積4,500m²」とある。その基礎工事だった。肉体的にもきつかったと思うが、「自分はこの程度」と認識させられる得難い経験だった。大阪府立今宮中学出身の髙橋和巳を読み出したのがその前であったのか後であったのか定かではない。しかし飯場体験は髙橋和巳体験と分かちがたく私の中にある。吉本以前、私にとっていちばん大事な人の時期があった。
髙橋和巳の「戦後文学私論」に小田仁二郎についての言及があることは何かで知って、収録された『孤立無援の思想』はどこかにあるはずと思いつつそのままになっていた。探せないままこのたび『髙橋和己全集第14巻』を手に入れた。その中でなんと小田仁二郎の『触手』は、埴谷雄高の『死霊』と対をなす一方の極との評価が与えられている。驚いた。
井筒俊彦夫妻と小田仁二郎・瀬戸内寂聴さんとの交流 [小田仁二郎]
井筒俊彦全集第4巻「イスラーム思想史」を入手。7,344円はきついが、このところ仕事がずっと忙しかったのでご褒美としてまあいいかと決断。というのも、この巻の月報に瀬戸内寂聴さんが書いておられることを聞いていた。小田仁二郎についての言及があるかどうか。なんとしても見ておかねばならない。しかし近所の図書館を検索してもどこにもない。先だって山形市内の書店数店を探しても見つからない。買うしかないかと思いつつ、その機をうかがっていた。それが一昨日届いたのだった。
案の定、「私たち」すなわち小田仁二郎と瀬戸内寂聴さん二人と井筒俊彦・豊子夫妻との交流の記憶が詳しく記された貴重な文章だった。
《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、
「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」
と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、
「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」
豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。
その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》