発見!宮島詠士の書 [宮島詠士]
平 貞蔵 「詠士 宮島大八先生」 [宮島詠士]
先の「宮島詠士(八) 今こそ詠士の心に思いを致すべきときではないか」の中で、木村東介は、《浅薄な考えかも知れないが、遺憾でたまらないのは、門下三千と称せられた君子の群れの中に、だれか詠士の志を受け継いで、「目隠しをされた狂人が、刃物をかざして地獄の穴へかけ込む」がごとき当時の日本の姿を、身を挺してさえぎる勇者がいなかったものだろうかと思うことである。いずれも心ひそかに危惧の念を抱きながら、この日本の狂態をただお見送り申し上げていただけなのだろうか。/善隣書院で詠士に養成された精鋭も詠士と同じく埋葬者の行列のごとく静かに暗闇の街を歩いていたに過ぎない。ここにはひとりのはったり屋もいない。人徳ある君子の集まりは、不発の爆弾の集積である。人畜無害の花火でもよいから、たまには一発打ち上げたほうが世間の耳目を揺り動かすのである。わたくしは馬鹿か狂人にはなり得ない仁徳ある君子の弱さを歯がゆく思わずにはいられない。》と言いつつ53名の名前を挙げて《といった門下たちはいずれも日本の容易ならざる人材なのに、その力量に至っては到底東条の独断に抗し得なかったということに、救い難き日本の悲割がはらんでいたと思わずにはいられない。》と嘆じている。ほとんど初見のその一人一人について調べるのは昔だったら図書館に出かけて一日がかりでも果せるか、しかしネット社会ではあっという間の作業である。53名中39名がウィキペディア等へのリンクが可能だった。たしかに名のある「人徳ある君子の集まり」と言っていいのだろう。これら人名の出典もやはり先に記した平貞蔵(1894-1978)の「詠士 宮島大八先生」だった。この論考は、詠士に身近に接した門弟による評伝で『宮島詠士先生遺墨選』(昭和32年)にある。おそらく目に付きにくいものと思われるので写しておくことにします。(懐かしい近奈美子女史からお借りしてコピーしていた)
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木村東介「宮島詠士」(9) 東洋の君子 [宮島詠士]
まとめの最終章となる。もう多言は要らないだろう。多くの方に読んでいただきたい。
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宮島詠士
—詠士書道とわが審美異説—
(九)
東洋の君子
以上、わたくしは詠士の姿を掴もうとしていろいろ述べてきた。が、まだまだわたくしの手中には収まってくれない。それは三歳の幼児が猛牛を捉えようとする格好にも似ているからである。
そこで……すなわち、詠士を捉えるに、たぐいまれなる書道の大家として紹介すべきか、興亜、振亜のイデオロギーを門下に伝え、さらに全世界に人種の平等を叫んだ一大思想家として紹介すべきか、張廉卿の宗学、漢学を身につけ、経義辞章を学んで門下にこれを説く東洋学者として紹介すべきか、あるいはまた中国三大浪人のひとり、国士、烈士として紹介すべきか……、そのあまりにも偉大なるゆえにわたくし自身迷わざるを得ない。あるいは、それらのいっさいを包含した茫洋雄大なものという言い方がいちばんふさわしいかもしれない。
「支那の無辜の民を殺し」云々と叱咤した言葉、興亜、振亜の思想、東洋民族に抱いたビジョンなど、詠士の数々の抱負を総合しながら徐々に肉付けしていくと、ここにまったく恐るべきマンモスとしての詠士の骨組みがおぽろげにもでき上がってくるのである。
名利には極めて淡白であり、外部からの援助をいっさい謝絶し、ひとりでも志を継ぐものがあれば満足であるとして学燈を守って譲らぬ気概ある詠士の人生は、真に東洋の君子というにふさわしい生涯であった。父誠一郎とともに、この真実は貫かれたのである。人間の奇跡といってよい。
木村東介「宮島詠士」(8) 今こそ詠士の心に思いを致すべきときではないか [宮島詠士]
いよいよこの文章の白眉の部分。ここを読んでこの長文をここに留め置きたいと思い、これまで作業を続けてきた。
「(四)詠士とのただ一度の出会い」の中、東介が差し出した中野正剛の名刺を詠士が粉々に引きちぎって投げ捨てる場面、その時そこに込められた詠士の怒り、思いの深さを理解せねばならない。この時の東介の驚き、しかしおそらくその心の最も奥深いところで感じ取った戦(おのの)くばかりの共感、それが東介をして民族美術発掘への道へと導くことになったのではないか。
中野正剛(1886-1943)は東介の報告に対し「気狂いじじいめ、せっかくの武運赫々たる皇威宣揚の前のいらざるブレーキ」と評した。詠士と中野、それぞれの世界の隔たり、やがて東介に起こる中野の世界から詠士の世界への転回。そうして見えてくるのが平櫛田中ではない佐藤玄々であり、棟方志功ではない長谷川利行であった。(参照:『池の端界隈』青英社1982)
一方中野の世界の先にあったのは否応なき戦争の泥沼だった。気づいた時にはもう遅い。気づかされた中野は常に、東介から聞かされた「気狂いじじい」の中野に対する昂ぶりの様を、頭に胸に思い起こしていたのではなかったか。それが「反東条」という決死的行動へと駆り立てることになったとしても、結局は自刃の道しかなかったのだ。
そして現在日本、今こそ詠士の心に思いを致すべきときではないか。
東介は言う。
《遺憾でたまらないのは、門下三千と称せられた君子の群れの中に、だれか詠士の志を受け継いで、「目隠しをされた狂人が、刃物をかざして地獄の穴へかけ込む」がごとき当時の日本の姿を、身を挺してさえぎる勇者がいなかったものだろうかと思うことである。》
「当時の日本」がまさに今なのではないか。
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木村東介「宮島詠士」(7) 人種差別撤廃 [宮島詠士]
大正8(1919)年、第一次世界大戦における戦後処理を行うために開かれたパリ講和会議において、日本の代表である牧野伸顕次席全権大使が人種的差別撤廃を提案した。人種差別撤廃が国際会議において議論された最初である。この法案は差別行為が当たり前であった欧米諸国にとってかなり急進的かつ画期的な内容であった。牧野は真の世界平和を達成するためには世界から人種差別を撤廃することが必須と訴え、会議は紛糾し何日にもわたった。アメリカの黒人協会は歓喜し「全米の黒人は日本国に最大の敬意を払う」と賞賛した。さらにはアフリカ、アジアの指導者たちも喝采を送った。会議が紛糾する中で牧野は、「この法案は日本国民の揺るぎない総意である。そして、世界の真の平和と平等を願う人々すべての揺るぎない総意である」と主張した。 多くの国の代表がこの提案に賛成したが、アメリカ・イギリスなどの植民地を数多く持ち、その利権を手放したくなかった国は猛反発した。アメリカ国内では内政干渉であるとの反発をも呼んだ。採決の結果、賛成11・反対5となり人種差別撤廃法案は圧倒的多数で支持された。しかし、議長のアメリカ大統領トーマス・ウィルソンが、「全会一致を見なかった」ためとして法案は不採決と宣言。これに納得できない牧野は「これまではみな多数決で決めてきたではないか。全会一致でないといけないとは、一体どういうわけだ!」と詰め寄ったが、強制をもって否決された。
この結果を受けアメリカでは、政府に激怒した黒人達による暴動事件やそれに関連した白人による有色人種への暴行などの人種闘争事件が起こり、100人以上が死亡、数万人の負傷を出す。一方日本国内でも牧野や政府を軟弱と批判、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論も噴出、アジア主義者や反米英主義者達による政治結社が多く結成されることになる。やがて1924年のアメリカの排日移民法成立や1929年の世界恐慌等を経て、太平洋戦争への道を進んで行く。(参考:ピグシブ百科事典 http://dic.pixiv.net/a/人種的差別撤廃提案)
とはいえ、国際政治の舞台で人種の平等の確立を訴えたのは、日本が世界で初であり、この日本の主張は、欧米諸国による、人種差別にあえいでいた有色人種民族や、植民地支配国の人々からおおいに絶賛され、第二次世界大戦後の植民地解放の先駆けとなった。 そして実は、人種差別撤廃議論の発端をなすのが外ならぬ宮島詠士であったことを、以下木村東介が明かす。
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木村東介「宮島詠士」(6) 詠士の生涯 [宮島詠士]
木村東介「宮島詠士」(5) 「書は人なり」 [宮島詠士]
《捉美五十年の歩み、ハンター行路の終着駅間近になって、ついにわたくしは、詠士の書を日本最大の巨跡と決定するに至った。》
そうして次回の詠士の人となり紹介につなぐ。
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宮島詠士
—詠士書道とわが審美異説—
(五)
「書は人なり」
詠士に関心を持つようになったのは、嘘と偽りの多い実の世界で本腰を入れて仕事をやるようになり、この世の真実の美を追求してゆくに従って、美の究極は、ことによったら、墨の芸術に帰結するのではないかと思うようになってからである。
ピカソもルオーもミロもべンシャンも、必然的に墨の領域に没入してくるのではないかと感じた。かれらがひたむきに突きつめてゆく美の桃源郷は、まさに東洋にあると思ったのである。
真実を求める欧米作家の群れは、川を遡る魚の本能のごとく東洋の神秘境へと集いよってくる。
色のない色の美しさ—。牧渓、因陀羅、梁楷、禅月、大燈、虎関、明本、弘法も道風も日蓮、親鸞、一休も俗塵を洗い去った神域の人々で、墨の芸術はそれらの人々が人間界の俗心をかなぐり捨て、無心の中から自然界に生み出した神泉にほかならないのである。
画面の構成、色感の配置、練達された描線、ダイナミックなタッチ、強烈なエスプリ等々どれを取ってみても、キャンバスや紙面に向かう作家のいかなる気魄も、ただ一点の無心な墨のしたたりには及ぶべくもない。ことによったら、世界の美術界のエポックである烈迫なフオンタナの提案も、東洋の墨の真実には、到底太刀打ちできないとさえ思えるのである。
東洋の書に異常なまでの魅力を覚えて以来、わたくしはむさぼるように書を集め出した。慈雲、寂巌、明月、良寛、一茶、白隠、仙厓、米山等々。
最近舌を巻いたのは、大岡越前守と塙保己一で、まさに「書は人なり」だとしみじみおもわずにはいられない。大岡越前の書などは考えてもいなかったもので、映画と浪曲と講談の作りごとの伝説ぐらいに思っていた。が、その書を見ると融通無碍、変通自在、円転滑脱、天衣無縫等あらゆる禅語が共通する幅の広い書で、この心で善悪正邪を判定していたものとしたら、なるほど名判官とうたわれたことも当然と思わずにはいられない。塙保己一の書もいわゆる心眼によってにじむ墨色であり、真にこの世の貴重品である。近くは中林梧竹、碧梧桐、会津ハー、魯山人、西田幾多郎らの書や、鉄斎、芋銭、高村光太郎らの書にも趣があり、誠に東洋こそは墨の花壇であると、しみじみうれしくまたありがたくも思うのである。
そうした捉美五十年の歩み、ハンター行路の終着駅間近になって、ついにわたくしは、詠士の書を日本最大の巨跡と決定するに至った。その専横ぶりには、審美上の諸先輩からつるし上げを食うシーンであることを予測してはいるものの、たとえいかなる拷問に会おうとも、この決意をひるがえすものかと心で固く誓っている。ここでどうしても、詠士の履歴とその人となりについて簡潔に述べる必要がある。
先にも言った通り芸術の本体は、その芸術を生み出す母体、つまり作家本人のエスプリにあると思うからである。(つづく)
木村東介「宮島詠士」(4) 詠士とのただ一度の出会い [宮島詠士]
《丸刈りのズングリした印象で、奥の部屋から現われた大八は、わたくしのさし出した堂々たる「雲井塾塾長」の名刺を中野正剛の名刺とともに、もみくちゃに握りつぶしてしまった。突っ立ったまんま見ようともせずに……。》
木村東介「宮島詠士」の文章中、最も強烈な印象の場面である。この文のテーマと深く関わる、とだけ記して先に進む。
高瀬捷三の名前が出た。多勢丸中邸の洋館にいい絵が在った。多勢丸中邸は製糸業全盛の大正末、20余万円を費やし、当時最高の材料と技術を駆使して建造された。90年を経ても立て付けに全く狂いがないのには驚かされる。土台から造りがちがうのだろう。ただ、見学するのに当主夫妻が現在生活する場を通って入らねばならないのが難点。それだけに保存がほぼ完全ともいえる。現当主健在のうちなんとか保全策をと機会あるごとに訴えているのだが。
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木村東介「宮島詠士」(3) 大熊信行先生 [宮島詠士]
大熊信行(1893-1977)というと、私には大井魁先生の親分(?)といったイメージがあるのだが、時代に敏感でその時々話題になった著作も多いのではないか。小樽高商で伊藤整、小林多喜二を教えたことでも知られる。
大正5(1916)年に東京高等商業本科(現一橋大)を卒業後大正8年まで米沢商業学校で教鞭を取った。木村東介はその時代の教え子だった。《七歳で小学校に入り、十七歳で商業学校を退学させられるまでの十年間の学校生活はアッケラカンのチンプンカンプンだったが、放課後大熊先生と語り合った、ほんのわずかな十日間くらいの間にわたくしは自分の一生を支配する大きな力に触れることができたのである。》とふりかえる。私としては、芳武茂介、須藤克三、小田仁二郎たちを育てた田島賢亮先生(1897ー1983)を思い起こさずにはいられない。田島先生が宮内小学校に在ったのは大正8年から1年半、ほぼ同時代。ちなみに宮沢賢治(1896- 1933)が花巻農学校で教鞭をとったのは、大正10年12月から同15年3月末までの4年数ヶ月でやはりこの時代、後に「大正デモクラシー」と呼ばれる時代のことだった。
書棚に大熊の死後編まれた『ある経済学者の死生観』(1993 論創社)を見つけた。小林多喜二(1903-1933)との交流についての思いのこもった文章がある。多喜二の死後間もなく書かれている。大熊在っての多喜二であったことがうかがえる。大熊も小樽高商在任は2年と少し、やはり田島賢亮先生の「1年半」と重なる。後に宮本顕治の妻となる、父が米沢出身の中条百合子(1899-1951)とは同時期にイギリス時代を過ごし、微妙な男女関係もあったようだ。小樽高商時代については伊藤整の『若き詩人の肖像』、イギリス時代については宮本百合子の『道標』に、それぞれ小説の材料になって大熊が登場しているらしい。尚、「亀井秀雄の発言」というサイトに「大熊信行がとらえた多喜二と伊藤整」という評論がある。
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木村東介「宮島詠士」(2) 「一に詠士、二、三がなくて四に副島、五に犬養」 [宮島詠士]
東介氏の宮島詠士への傾倒ぶりが語られる。名のある人で詠士の書を愛する人も多い。国立博物館書道部門堀江課長、中村研一、笠信太郎、田村泰次郎、上条信山、中村正義、中曽根康弘、緒方竹虎、大久保伝蔵(山形市長)等の名が挙がる。緒方竹虎は「いままで、いろいろの書幅を座右にしてきたが、わたくしの魂を洗い尽してくれたものは、しょせん宮島先生の書ひとつであった。以来毎朝、先生の書の前に端座、その香気に対すると、不思議と政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。」と語ったと言う。
「書ログ」という書道家の方のブログに、詠士の書を背景にした緒方の写真が紹介してあった。曰く、
《とにかく宮島先生の書を見ると心が静かになって、背筋が真っ直ぐになって、緊張感をうけます。/喜怒哀楽は感じません。/ですが不思議と自分の中の精神を認識する事ができるのです。・・・
(写真は)第三代自由党総裁で時の副総理である緒方竹虎氏の背後に掛かった書は宮島先生の書です。
緒方副総理が「宮島詠士先生の人と書」という題で講演されたおり、宮島詠士先生を心の師とされていること、また先生の書の前に端座すればその光に心は清められ、政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。と結んで壇上を去ったそうです。/宮島先生の書は精神にビリビリきていたんですね!!!/あーーー精神の書、、、凄い!!!》
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