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大嘗祭を前に [神道天行居]

今私が関わる認定こども園は創立68年目、私は創園してすぐ、叔母が保母さんになったのでそれまで通っていた保育園から無理やり転園させられました。人生で最大の転機だったように思えます。当時「キリスト幼稚園」と言われていました。祖父は神様仏様を大切にする人でしたが、キリスト教に対しても同じように考えていたのかもしれません。いたって寛容だったようです。卒園してからも中学生になるまで日曜学校に行って、クリスマスにはずっと精勤賞をもらっていました。そういう私だったのですが、いつの間にか「あなたの宗教は?」と聞かれると「神道です」と答えるようになっていました。十数年のブランクの後、「同窓会を作りたいので」という園長先生から言われて、それからまた園と関わるようになり、今は週明けの朝、園の朝礼に入れてもらって、讃美歌を歌い、聖書を読んで、主の祈りをしてきます。はじめは多少違和感もありましたが、今はキリスト教の神様も八百万の神様の中のおひとり、の感覚で溶け込んでいます。私にはだいじなひとときです。

今日なんでこんなことを書き出したかというと、「キリスト教団体、歴史研究者ら 大嘗祭にそれぞれ抗議」の記事を読んだからです。《一連の即位儀式について「憲法の国民主権原理や政教分離原則に違反し、戦前の天皇主権体制への回帰、天皇制美化などの問題点がある」と指摘した。9日に皇居前広場で開かれた「国民祭典」など各地の「奉祝行事」についても「国民を天皇賛美に動員し、憲法の規定による天皇の役割を超えた政治利用」と批判した。》

毎週日曜学校に通ったと言っても遊び半分で、どれだけキリスト教がわかっていたかわかりませんが、プロテスタントの教会で、「イエスの奇跡」については淡白だったように思います。個人原理の戦後民主主義にそのまますっぽり収まる考え方だったような気がします。そんなことも思いあわせつつ、キリスト教団体自体が「イエスの奇跡」についてどこまで本気に思っているのか、今回の記事で思ったのがそのことでした。毎月一日朝の熊野大社月例祭、明治天皇御製10首を5首ずつ詠みますがその中に、「わが國は神のすゑなり神まつるむかしの手振(てぶり)わするなよゆめ」があります。そうして今在る日本であり、われわれなのです。そのことに敬虔であるべきです。

一連の即位儀式について「憲法国民主権原理や政教分離原則に違反し、戦前の天皇主権体制への回帰、天皇制美化などの問題点がある」と指摘した。9日に皇居前広場で開かれた「国民祭典」など各地の「奉祝行事」についても「国民を天皇賛美に動員し、憲法の規定による天皇の役割を超えた政治利用」と批判した。
キリスト教団体、歴史研究者ら 大嘗祭にそれぞれ抗議
キリスト教団体、歴史研究者ら 大嘗祭にそれぞれ抗議
キリスト教団体、歴史研究者ら 大嘗祭にそれぞれ抗議
キリスト教団体、歴史研究者ら 大嘗祭にそれぞれ抗議
先師友清歓真先生が大嘗祭について書かれたところをあげておきます。

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大嘗祭は天皇即位の後、始めて新穀を以て天照大御神及び天神地祇を奉配したまふ一世一度の大典で古へ大祀と称せられしは此の祭祀に限ったものである。この儀を行はるるには二月以後國郡ト定の神事があり悠紀主基の両齋國が定められる古例で明治以来に於てもこのト定の神事は古例によって行はせ給ひしやに洩れ承はるがこのト定といふことも霊感神託を意味するのである。明治天皇御製「わが國は神のすゑなり神まつるむかしの手振わするなよゆめ」 ・・・・・・・

大嘗祭のことを語つた序でに尚ほ一言したいが神異史実の厳存といみことは我が國体と密接不離の関係があるので神さびたる遠き上古をたづぬるまでもないことである。御歴代の中には御幼少の御方々も多くましましたが、 御即位の時など母后陛下が御抱きになつて高御座に昇らせられ、儀の初めて見はれ給ふ時だけ少時玉冠を御頭の上に御載せになつたことなど古文書に見えるが、 それでも儀式の間は聊か御むつがらせ給みととなく、さながら成人の如くあらせ給ひしと拝観の卿相の日記に書かれてある。鳥羽天皇は天仁元年御歳わづかに御六歳で大嘗祭を済ませられたが中右記に当時六日間風雨の障りの無かつたことを神感の為めであらうと書いた末『我君雖有年少之恐毎夜出御,進退有度、次第不誤、天之援大位、器量相叶給歟、群臣皆驚、上下歎服」とある。斯様な有難い御事跡が御歴代に多いのを拝し奉るにつけても我が国体の尊厳に格別の感激無きを得ないのである。霜氷る夜を徹しての御儀を御幼少の大君が神ながらにとり 行はせ給ふ。それだけのことを考へても儼然たる神異史実と拝し奉らるるのである。神聖なる夜のしじまを、遥かに拝跪して御幼少の大君の御儀のまが事無き御とり行はせを一心に祈りまつる群臣等の心もちはどうであらう。その時、地上一点の塵無く、森羅万象みな浄めらるる気もちを感ぜざるものはあるまい。》(友清歓真「天関打開の意義」『古道神髄』昭和13年)

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