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mespesadoさんによる1億人のための経済談義(67)結城豊太郎をどう評価するか [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

南陽市は昭和42年(1967)、宮内町と赤湯町と和郷村が合併してできた山形県ではいちばん新しい市です。宮内は熊野大社を中心にした門前町、赤湯は赤湯温泉とともにある温泉町、和郷村は沖郷と梨郷を併せた農村でした。近代になって宮内は、当時輸出の花形であった生糸を生産し、製糸の町として一世を風靡しました。とりわけこの地は「羽前エキストラ」という優良製糸を生産したことから「娘三人いれば蔵が建つ」といわれ、女工さんも3000人を数えて置賜南部の中心的位置を占めていました。しかし昭和恐慌による生糸価格暴落を機に翳りが出始め、さらに化学繊維の普及で凋落は決定的になります。一方、奥羽本線赤湯駅、国道13号線を擁して赤湯町の台頭が際立ちます。そうした逆転傾向の中での合併で、今でも宮内体質と赤湯体質のちがいははっきりしています。(といっても、そう思っているのは、かつての宮内を知る私たち世代までなのかもしれませんが・・・)そんな空気の中で、赤湯人からたとえば「宮内よもやま歴史絵巻」を見たりして、「宮内からはいろんな人が出ていてすごい」と言われた時のお返しは「赤湯には結城豊太郎さんがいる」でした。宮内町時代から、結城豊太郎は隣町出身の偉人として輝く存在だったのです。その隣町と合併したことで結城豊太郎は「わが市から出た偉人」と言えるようになったわけですが、その理解はというとイマイチ、イマニでした。『銀行ノ生命ハ信用に在リ―結城豊太郎の生涯』(秋田博 1996)も読んだことがありますが、「日銀総裁、大蔵大臣にして郷土のためにも尽くした偉い人」以上ではなかったのです。東北一郎会のメンバーが結城豊太郎についてどう評価するか、その思いあっての結城豊太郎記念館訪問でした。mespesadoさん、その思いに応えて下さっています。

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