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宮内、賑わいの記憶(3) 勃興期を迎えた宮内(大正8年) [宮内の歴史]

翠松の丘 須藤多蔵.jpg

手元に大正8年発行の『宮内町案内」がある。この年の11月に宮内小学校を会場に『山形縣蚕糸品評会』が開催されたが、それに合わせて発行されたものだ。須藤流蔭こと須藤多蔵の編集による。須藤多蔵は須藤克三の父。宮内女学校の書記官として学校の一切を仕切っていたという。その人となり、結城亮一氏による山形新聞連載『翠松の丘—宮内高校人脈物語』(2015)に拠って知った。結城氏の取材源はまだ健在でおられるはずの大正9年生れ遠藤きよ子さんと思われる。米沢に住む私の叔母が同級で親しく、最近まで年賀状のやり取りがあったと聞く。それにしても結城氏の取材力はすごい。『翠松の丘』は宮内の歴史に関心ある者には宝の山だ。結城氏はNHKの朝ドラ「いちばん星」1977)の原作者。


松風座入場料明細帳.jpg

今回のテーマが決まってまもなく、宮内なんでも資料館「時代(とき)のわすれもの」館長の鈴木孝一さんから松風座の昭和15年から17年の入場料明細帳を借りることができた。入場税の支払いのために刻銘に記されたものだ。1年分を表にしてみた。大人の入場料を記入してみたが、6月までは20銭、7月から30銭になっている。いちばん高いのが広沢虎造で1円。今の貨幣価値は当時のおよそ3000倍ぐらいと考えてよさそう。とすると30銭は900円。当時の女工さんの平均日給は約80銭だったという。

 

品評会の直前に宮内小学校に赴任したのが田島賢亮先生だった。『宮内小学校 百年のあゆみ』にほぼ50年前の当時を思い起こして書かれた貴重な文章があった。大張りきりだった様子がうかがえる。宮内全体大変な盛り上がりだったのだろう。菊まつりのはじまりが大正元年、菊まつりも年々盛大になりつつあった時にちがいない。こう書きつつ、私自身心が高揚してくる。


上野甚作の歌でまさに当時の宮内の情景が思い浮かばされる。「小黒郷」という言葉をこのたび初めて知ったが、まさに「スモールブラックカントリー」、産業革命後のイギリスの工業都市を彷彿させる風景だったのだ。ちなみにこの時、結城哀草果も同行し歌を遺した。

   日は照れど汽車の窓より入る風の流石(さすが)に寒き置賜に来つ


勃興期の宮内


宮内町案内 大正8年.jpg

「蚕糸品評会」開催の大正810月に書かれた「宮内町案内」須藤流蔭


 「宮内町」の中央なる十字街頭に立ちて南すれば本町、西すれば新町、東すれば横町、北すれば宮町に行く。本町には東銀行、宮内郵便局、巡査部長派出所、株式会社石黒製糸場、丁酉館布施製糸湯等ありて商売軒を並べ整然たる街路にして富有者多し。新町には第百二十五銀行支店、旅館山庄、喜多屋、吉田屋及真宗正徳寺あり、商業最も盛にして朝夕殷賑なり。正徳寺より左曲すれば宮内駅に達す。長井線軽便鉄道各駅中、貨物の発着多きこと益多き事第一と称せらる。南に宮内製糸合資会社あり。停車場に赴かずして西を柳町といふ。佐藤製糸場あり、劇場松風座あり、漆山村に通ずるの道路なれば、朝夕製糸工女の往来繁し、殊に夏の月影涼しく秋葉の峰にかかり、街、紫に暮るる頃家居に急ぐ三千の工女亦当町の一名物たり


 横町に朝倉療院あり。町の尽くる所より北に折れて粡町あり、北端を仰げば双松公園あり。春は桜花を賞し、秋は松籟を聞くべし。右に齋藤製糸場あり。更に北すれば足軽町とす。金山村を経て吉野村に至るべし。


 宮町は縣社熊野神社の通路にして、十字街より社前に至る迄切り石を敷きつめたり、これ社有の産地より産する石材を充用せしものなり。宮内町役場、米沢区裁判所出張所あり。宮内尋常高等小学校は熊野山南麓にありて数年前の改築に係り土地高燥にして校庭の広大なる県下稀に見るべし。又、活動写真常設双松館あり、得月楼(宮沢)観月楼(笠原)及び湖月楼等の大料理店ありて、共に新鮮なる料理と懇切なる待遇とを以て名あり。而して又船山、小田、伊藤、三須の四医院は此町にあり。


宮内町割図(大正15年).jpg

 大鳥居より東するを仲ノ丁(突貫)とす。山崎屋菊花園、松迺家等の料理店ありて即席の料理に応ず。西するを田町とす、曹洞宗蓬莱院あり。尚宮内町駅より東し幸町、旭町を経て六角町に出で赤湯町に通ずべし


長井線1913(大正2),
10
26長井軽便線開通(赤湯~梨郷間).
1914
(大正3),
11 
15長井軽便線開通(梨郷~長井間).
1922
(大正11),
9
2長井軽便線を
長井線と改称
.
1922
(大正11), 1211長井線開通(長井~鮎貝間)1923(大正12)422日、長井線全線開通(鮎貝~荒砥間)

昭和15年度松風座入場者数.jpg

松風座:嘉永61853)年創立。東北で最も古い。昭和461971)年閉館。(別添資料「昭和15年度松風座入場者数」 提供:時代(とき)のわすれもの)

双松館:大正71918)年開業。昭和141939)年焼失閉館。閉館に先立ち文化劇場(第二双松館)開館。


田島賢亮先生、蚕糸品評会の思い出 (『宮内小学校 百年のあゆみ』昭和47年)                 

《私が宮内小学校に赴任したのは、大正八年十月の、たしか十八日頃ではなかったでしょうか。山形の県立師範学校を卒業したのが十月の十五日で、当時高畠町にあった東置賜の郡役所に辞令を受けに行ったのが十七日ごろ、そしてその翌日に赴任したと思っております。その頃ちょうど宮内小学校が会場に指定され、蚕糸品評会が開催されるというので、町は無論のこと、学校もまた全力をあげてその準備中で、全職員は、十月二十六日付をもって、「大日本蚕糸会山形支部第四回蚕糸品評会事務委員ヲ嘱託ス」という辞令を、山形支会長、依田銈次郎県知事からもらったものです。辞令面、私は陳列係、そして私はもっぱら装飾の方を一手に引受けさせられたものです。/そこで私はまずもって、会場の入口の南体操場の下屋の上に、当時大流行していた「森の娘」という歌謡(演劇「沈鐘」の中の歌で、島村抱月と楠山正雄との合作)の歌詞と調べの情感を極彩色の絵に表現し、それに五線と譜とをあしらった長さ約一間、巾約二尺五寸ほどの大額を掲げました。それが出来ると、繭の展示室の入口には「繭」と、果物の展示室の入口には「果物」と、白菜の展示室には「白菜」というように、一室一室に見出しを掲げたが、廊下の端に立ってずっとそれを見通すと、各室のそれらの装飾標示が色とりどりになかなか美しく、実に美事だったものです。白菜の栽培は、当時梨郷村の和田あたりからようように置賜地方にも流行しだした頃であって、今までのへら菜に代り、大へん珍しかったものです。/展示会場は南校舎の一階二階全部を使用し、正面校舎と北側の旧校舎(これは明治時代からの校舎をそのままに移動して残したもので、まさに時代的な代物であった)とは使用せずに間に合いました。/町では品評会に花をそえるために、「双松踊り」という舞踊を披露したが、提灯や造花などで美しくしつらった山車を、連日校庭に曳き出し、人気を博したものでした。その歌謡の作者は須藤多蔵氏、振り付けは誰であったか知らない。そして踊り子はいずれも町内の芸者衆でありました。》


双松おどり   養閑生・流蔭 合作

        置   唄

   末の世までも人心 あやかれよぞかりそめに 姿をここにおいたまの 結ぶの神の妹背松 我が宮内に残されし

   深きめぐみぞ限りなき

 

   景色ととのふとりどりの 草も木の葉も紅に 野辺も山辺も色そめて たれをか松や相生に 淋しかるべき秋の日に

   緑の色も深くして 里の名所は妹背松

       (二) 冬 

   思ひもつもる白雪に 川風さむき冬の夜も 通ふ心もうれしくて 願ひも深き戀のみち をちこち人も集へきて 

   えにしあやかる妹背松  

       (三) 春

   年たちかへゐ新玉の 祝ひことほぐささきげん 思ひは晴れて初日かげ 幾千代かけて變らじと 詣る心も御禮にや

   結ぶの神の妹背松

       (四) 夏

   ふりわけ髪のその昔 小川づたひの蛍狩 うぶな心の白きぬも 露の夕べにぬれそめて 嬉しや千代の深みどり

   ちぎり目出度妹背松

 

小さなる町にはあれど中空に黒煙りはく煙突いくつ  上野甚作 (大正9年宮内短歌会にて/『南陽市史』)

上野甚作:歌人。明治19年7月12日、鶴岡市外内島に生まれた。農業の傍ら作歌活動を行い農村青年を啓蒙して大正6年、機関誌「島影」を発行。同11年に歌集『耕人』を出し、農民歌人として名をあげ、鶴岡を中心にした歌会を主宰して後進を指導。県歌人会の委員も務めた。昭和3年には43歳で旧斎村の村長に推され、同18年に開拓団団長として満州に渡った。同20年8月13日ソ連軍の侵攻に遭い死亡した。

(つづく) 


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