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「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」 [宮内の歴史]

宮内小学校の先生方に「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」のテーマで語る機会を与えられました。子ども達に宮内の歴史を伝えるためには願ってもない機会です。張り切って語ってきました。1時間という限られた時間なので、あとで参照していただけるように多くの資料を用意しました。以下です。()内 小文字は、その時語ったことと今思って書き加えたことです。画像はそれぞれクリックで大きくして読むことができます。


   *   *   *   *   *


「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」

〜ふるさと学習(地域学習)の授業づくりのために〜

平成27817日 於 南陽市立宮内小学校 会議室


宮内人の矜恃矜は「ほこり」で、外に向けた思い。恃は「たのむ」で、内に向けた思い。好きな言葉です)

 ○「北条」郷の由来

  ・背景にある「北条氏の仁政」《「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があった》「国際派日本人養成講座」 末尾に資料掲載)

1「北条郷」の由来 rgb.jpg


 ○置賜の床の間「宮内」(平成になるちょっと前の転がったと思います。熊野大社を中心とする置賜に於ける神社と山岳配置の不思議の発見は、宮内の歴史に深入りする大きなきっかけでした。)

  ・「四神相応」の地

  ・宮内熊野大社を核にした5000年の歴史

置賜の床の間 宮内cs rgb.jpg

 ○菊まつりの源流

  ・製糸業の繁栄

宮内の菊まつりの源流cs rgb.jpg

 

宮内文化の集大成「宮内小学校 百年のあゆみ」(昭和473月)

(当時の宮内のベストメンバーが集まってつくりあげたすばらしい記念誌です。宮内から出て名をあげた多くの方々も、それぞれ力の入った文章を寄せておられます。おそらく顧問の須藤克三先生、黒江太郎先生の声がけが大きかったのではないでしょうか。お二人とも茂吉文化賞の受賞者です。)

宮内小 百年のあゆみ.jpg宮内小100年のあゆみ編集委員.jpg


 ○この師ありてこそ 田島賢亮

  ・宮内文化の底流に流れる田島賢亮の「感化力」

(昨年度「宮内よもやま歴史絵巻」10枚をつくるにあたって、当初田島先生は入っていませんでした。しかし、芳武茂介、小田仁二郎、須藤克三、黒江太郎といった人たちみんな田島先生との出会いがあればこそのその後だったのです。驚いたことに、いま南陽市で目覚ましい発展を遂げる医療法人公徳会と(株)NDソフトウェアも田島先生につながったことでした。2年足らずの宮内小での教育が今も地域に大きな影響を与えつづけているのです。また、滝井孝作、芥川竜之介、菊地寛、志賀直哉といった錚々たる人たちから評価を受けていました。ちょうど宮内小奉職の直前のことです。そのことによって田島先生の意識は、宮内小の教壇にあっても、地方の一教師ではなく、天下日本の教師であったはずです。そのことが子ども達に与えた影響は甚大です。小田仁二郎をして「にせあぽりや」と言わしめた背景には、田島先生によって植え付けられたその思いがあるにちがいないとふと思いました。すなわち、近代日本文学の最重要課題であった「自我をどう始末つけるか」について小田は、「そんな問題、難問でもなんでもない。あんたの頭の中だけのまがいものの難問だよ。つまらんことで死ぬの生きるのといってるんじゃあないよ」、その思いで「にせあぽりや」を書き、そして「触手」で自らの到達地点を示してみせたのではないでしょうか。その時小田の頭にあったのは、自死した芥川であり、太宰であったのです。小田は意識において、芥川や太宰を超えていたのです。小田文学が世界レベルにあったと言われるゆえんです。井筒俊彦による小田評価もむべなるかなです。その原点は宮内小学校の教育です!)

8 この師ありてこそ 田島賢亮 rgb.jpg

「思い出」(全文)《私が宮内小学校に赴任したのは、大正八年十月の、たしか十八日頃ではなかったでしょうか。山形の県立師範学校を卒業したのが十月の十五日で、当時高畠町にあった東置賜の郡役所に辞令を受けに行ったのが十七日ごろ、そしてその翌日に赴任したと思っております。その頃ちょうど宮内小学校が会場に指定され、蚕糸品評会が開催されるというので、町は無論のこと、学校もまた全力をあげてその準備中で、全職員は、十月二十六日付をもって、「大日本蚕糸会山形支部第四回蚕糸品評会事務委員ヲ嘱託ス」という辞令を、山形支会長、依田桂次郎県知事からもらったものです。辞令面、私は陳列係、そして私はもっぱら装飾の方を一手に引受けさせられたものです。/そこで私はまずもって、会場の入口の南体操場の下屋の上に、当時大流行していた「森の娘」という歌謡(演劇、沈鐘の中の歌で、島村抱月と楠山正雄との合作)の歌詞と調べの情感を極彩色の絵に表現し、それに五線と譜とをあしらった長さ約一間、巾約二尺五寸ほどの大額を掲げました。それが出来ると、繭の展示室の入口には「繭」と、果物の展示室の入口には「果物」と、白菜の展示室には「白菜」というように、一室一室に見出しをげたが、廊下の端に立ってずっとそれを見通すと、各室のそれらの装飾標示が色とりどりになかなか美しく、実に美事だったものです。白菜の栽培は、当時梨郷村の和田あたりからようように置賜地方にも流行しだした頃であって、今までのへら菜に代り、大へん珍しかったものです。/展示会場は南校舎の一階二階全部を使用し、正面校舎と北側の旧校舎(これは明治時代からの校舎をそのままに移動して残したもので、まさに時代的な代物であった)とは使用せずに間に合いました。/町では品評会に花をそえるために、「双松踊り」という舞踊を披露したが、提灯や造花などで美しくしつらった山車を、連日校庭に曳き出し、人気を博したものでした。その歌謡の作者は須藤多蔵氏、振り付けは誰であったか知らない。そして踊り子はいずれも町内の芸者衆でありました。/私が長い教員生活の間に、大げさにいえば、命をかけて教育をした学級、ないし学年、また学校は、大体五・六をかぞえるのですが、その中のIつが宮内小学校における五年生甲組への教育でありました。/私が俳人として世に名をあげたのは大正七年、八年に至り、滝井孝作、芥川竜之介、菊地寛、志賀直哉というような人々から、私独特の持ち味が認められて、小説家への転向をすすめられたのが同八年、したがって宮内小学校における生徒への授業や指導もまた単に形式的な常規にのっとらず、奔放自在、闊達不覊、燃えるが如き情熱を傾倒して全生徒の学力の増進に力をもちいたことはいうまでもなく、特に個々の持つ天性の発掘伸長に全力をあげたのでした。/こんなわけでしたから、私の手許には、今なお当時の五年生全生徒の名簿をはじめ、その他いろいろなものか大切に保存されているのです。大正八年秋十月、宮内小学校に奉職して以来すでに五十一年、そして同九年に担任をしていた五年生は、今年満六十一才、今なを緊密な連絡のもとに常々深い交わりを続けているのです。/私は大正十年四月、英語を勉強する便利のために、農学校のある町の小松小学校に希望転任をしました。宮内の教え子たちからは、誰かれとなく始終なつかしい便りが来ました。私の手許には、今もそれらの多くか保存されているのですが、ここにその中から二通を掲げて昔をしのびたいと思います。

     佐藤忠三郎医療法人公徳会佐藤忠宏理事長、(株)NDソフトウェア佐藤広志社長の父)から

ワガ愛スル先生ヨ、何ヲ見ツメテヰマスカ。/アナタトイフソノ男性ハ、何モノカヲカスカニ見ツメテ考ヘルノデセウ。/一心ニハゲミナサイ。一心ニフルヒナサイ。/(オナッカシイ先生、サヨウナラ)

     芳武茂介から

太陽の光を暖く浴びて、草木の芽は目をさました。川柳は何やら小さな小さな音楽を歌ひつつ、ささやかに流れる小川の傍で、仲よく遊んでゐる。/白いとみた雪のところどころに、若草が青々として見える。/一人の少年が近づいて来た。どかと腰を落し、草の芽生えを眺めなから、写真機を出して何か写した。

 以上二通の便りの文の姿をよく見てください。これが当時の私の綴り方の授業や、読み方の授業、また話しぶりなどの影響による顕著な姿なのです。忠三郎からの便りは純粋な便りであり、茂介からの便りはこういう文を作ったと知らせて来た気持のものです。そしてさすがに茂介の便りには、輝いている太陽のもとに、川柳がぼつぼつと芽吹いている絵が画かれているのです。そういえば私は、綴り方の授業で、「猫柳の唄」という題のもとに、文を作らせたことがあったのです。/私はもっぱら小説家になろうと志したのでしたが、生れながらの蒲柳の質、それに心臓弁膜症と欠損症という話にならぬひどい身体、度重なる医師の強い説得に従い、ついにそれを断念せざるを得ずして今日に至ったのですが、その代りに、教え子たちからは、あるいは学者に、あるいは教育者に、あるいは政治家に、あるいは篤農家に、あるいは作家に、あるいは歌人俳人に、あるいは技術家に、あるいは実業家に、あるいは芸能人に、あるいは美術家にと、多くの人材を世に送り、これにまさる幸福はないものと思っております。/宮内小学校創立以来ここに百周年、「鍾秀会」の名の通り、世のため、人のためになる人材が、ますます輩出されることを念願して擱筆いたします。

    宮内時代の作(自由律俳句)

  女並木が気になる夜で猫柳を壷に挿します

    小関善吉君の上京を送る (一句)

  群盲らはるかなる明(あかる)みに叫びをあぐるさだかに光る螢—涙だ

  七夕の絵提灯をまはし若い女教師の心が平らで

  ひとり夏帽をかむり出づる夜とてはなし

  夏山によごれわがつかみもちたる草花

  彼女が秋祭りの夜の帯ながくときたり

  自分を偽らうとするのではない並木はずれては水鳥沼に円を画(か)いとる

  夜はむなしき冬帽のあをい毛が立つ

     当時師範卒業者には、二十八才までは教員をすべき義務か負はされており、ために県庁からは、私の高等

     学校への受験希望は、ついに許可されずに涙をのんだ (一句)

  夜は丘の残雪堅き苦悩の樹々あるか

     宮内を離る (一句)

  悲しみの地上ゆたかに萌ゆる草     》112p (旧職員)

 

 ○日本工芸デザインの草分け 芳武茂介

   ・日本のデザイン文化興隆のさきがけ

9 日本工藝デザインの草分け 芳武茂介 rgb.jpg

「母校は心のよりどころ」《誰もが望郷の念に駆られる年配になって、直面する大学の学生騒動は、私にとって恰好の「六十の手習」だった。/そんなとき、自然と人世のほどよき調和をたもつ美しい山河を思い出す。その北方に高く、南方にひらけた理想の場所に建ち、百年の歳月をむかえる宮内小学校は、まさにふるさとのセンターであり、郷党のシンボルであり、心のよりどころでもある。》137p (大正11年卒)

 

 ○宮内が舞台 小田仁二郎『にせあぽりや』

   ・宮内が文学史に残る小説の舞台

3 宮内が舞台 小田仁二郎『にせあぽりあ』 rgb.jpg

「百年のなかの七年」《なにしろ、先生がきまったかと思うと、すぐのように代わるのだから、べんきょうなんてそっちのけ、教室のなかは、わいわい、がやがや、楽しい毎日だった。先生のほうも、やりたいように、楽しんでいたようである。ローレライの歌を、原語で教えてやる、という先生がいて、始めたところ、ニ、三回でやめになった。そんなもの教えては、いけない、と学校から言われたそうである。》139p (大正12年卒)

 

 ○斎藤茂吉と黒江太郎

   ・茂吉は宮内を2回訪問。大喜びの記録が残る

10 黒江太郎と斎藤茂吉 rgb.jpg

「ボイレ(坊入)」(寺子屋に入ることを「坊入り」と言ったことから、小学校の入学を「ボイレ」と言っていたとのことです)《いつまでも忘れられないのは田島賢亮先生である。そのころ先生は自由律俳句の新進作家であった。田島先生は郷土に文化の火を高くかかげ、教え子の幾人かにともし火の火だねを伝えた先生である。先生はまもなく東京の大学に行ってしまった。》140p (大正12年卒)

 

 ○日本語を守った須藤克三

   ・「山びこ学校」を世に出した須藤克三の戦後日本に与えた影響

7 須藤克三 rgb.jpg

「自由創造教育の開花」(全文)《わたしが山形県師範学校を卒業し、母校に教鞭をとるようになったのは大正十五年の四月一日であった。/校長は恩師の山田二男先生であった。/山田先生は首席訓導からばってきされた気鋭の校長で、おそらく県内でも数えるほどしかいない若手の校長であったと思う。/大正の末期は自由主義のらんじゆく期といってよく、自由、創造、個性というものが教育でも重視されていた頃だった。/山田校長は当時の教育思潮の旗手として高く評価されていたのであった。/わたくしはいきなり高等一年の担任となったが、六年生まで三組であったのが、男女混合の一組に編成され、七十人を越すマンモス学級であった。おそらく校長は、予算上、やむを得ず非常手段をとられたにちがいない。/校長は高等科の学科担任制をとり入れた。学年担任は修身科のほか数科目を受けもつが、可能な限り学科担任をはかったし、ローマ字や英語なども特別指導した。/現在の新制中学の前身ともいうべき画期的なシステムを、四十五年前に山田校長が実施したわけである。/わたしたち若年教師は、田制一士氏(現在の須藤医博)を先発にして故広居忠雄、故稲毛俊郎、鈴木喜次の諸君とともに、佐野敏男氏を若年寄格にまつりこみ、奔放といってよいほどそれぞれの教科にうちこみ、新風をまきおこした。/夏休みに、鼠ケ関で開かれる海浜学校での学芸会は、広居君の音楽指導によってオペラ風の唱歌劇が人気を呼んだし、佐野、田制両氏による科学教育は、直観教育という名のもとに県下に響いた。/わたしは、山田先生の指示により、学校図書館をつくった。どのようにして予算化なされたものかどうかわからないが、とにかく一教室をそれにあて、時間割をつくって尋常科高学年以上に読書の指導をした。これも現在の学校図書館のはしりといってよいだろう。また全校文集「鍾秀」というものを活版刷りで発行したり、夏、冬の休みの宿題として、図画や書き方の外に、児童詩をつくらせ、それぞれの廊下に張りだし、推賞した。/わたしは詩を担当したので、全校の作品をハシゴをかけて一枚一枚読んでは、金紙や銀紙を貼っていたので、一年から高等三年のものが終るのに、深更に及んだものであった。鈴木君広居君が、ローソクをもって審査に協力してくれたことを今も覚えている。/わたしたちは、個人生活では、ややほうらつの点もあったが、勉強を怠ったわけではない。/やがて田制氏は慈恵医大、わたしは日本大学に、鈴木君は音楽を志して上京、また後輩である栗野君は東京高師体育科に入学した。広居、稲毛の諸君は長男のせいもあり、残って佐野氏とともにこの新風をより堅実なものに努められたのであるが、すでにこの頃、軍国主義の無気味な暗雲が教育界にもたれこめてきていたのである。》149p (大正9年卒・旧職員)

 

付録

 ○宮内発信 世界に届け!鷹山公精神

   ・キャロライン・ケネディ大使の米沢訪問は、そもそも宮内から始まった

5 宮内発信 世界に届け!鷹山公精神 rgb.jpg


 

 ※この地を「北条郷」と称するに至った背景には、北条氏による治世を高く評価する意識があったのではないだろうかということに気づかされた。以下、そのもとになった資料です。


◎ 北条氏の仁政(「国際派日本人養成講座」)


源頼朝の直系が滅びた後、鎌倉幕府は北条氏が執権となって支えていく。その結果、社会は安定し、農業生産が高まった。いったい北条氏はどんな政治を行ったのか。鎌倉幕府と武士(御家人)は「御恩と奉公」の関係で結ばれていた。それを象徴する物語が5代執権時頼と佐野源左衛門の謡曲「鉢の木」である。ここには「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」という武士の心構えがある。


北条氏の執権政治を確立したのは、源頼朝の妻・政子の甥である北条泰時(やすとき)である。かれは政治の根本を「撫民」ということにおいた。「撫民」とは、民衆に対する愛情にもとづく政治のことである。その基盤は、「道理」と「合議制」であった。「道理」を重んじて定められたのが「御成敗式目」である。それはその後の武士の法律の手本となった。


《鎌倉時代は「武士が主君から領地を与えられて所有する」という形での封建社会が発達した。「封建社会」というと、いかにも前近代的・非合理的に聞こえるが、土地の私有を制度化するには、所有権を守るための法と裁判の整備が必要であり、これらは近代社会発展のための不可欠の基盤なのである。/現代においても近代的な法治主義がきちんと定着しているのは、封建制度を経験した西洋と日本だけであることを考えれば、この事は明らかだろう。/8百年近くも前に、泰時が道理に基づく政治、法、裁判の仕組みを作った史実の重要性はここにある。》

 

一方「合議制」は、執権の独断に対するブレーキ役としての「連署」の地位と、執権・連署とともに政治や訴訟に関する評定を行う「評定衆」の任命があった。そして結論する。


《我が国には、神話時代の「神集ひ」から聖徳太子の十七条憲法の「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)」と、衆議公論を尊ぶ伝統が根強いが、それを政治制度として定着させたのが泰時であった。この伝統があったればこそ、明治以降の議会制民主主義の導入もスムーズにいったのである。/『御成敗式目』の全51条は、憲法十七条を天・地・人で3倍した数字と言われている。泰時以下、鎌倉幕府の評定衆は、聖徳太子ど日本古来からの伝統的思想を踏まえた見識を持っていたと思われる。とすれば、その「撫民」は、皇室の民の安寧を祈る伝統精神を現実政治に生かそうとしたものだろう。/「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があったことを、我が国の中学生には知っておいて貰いたいものだ。》



御成敗式目(泰時が弟重時に送った手紙に書いた式目制定の目的 ウィキペディア


多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。


能「鉢の木」(「国際派日本人養成講座」より)


 5代目執権・北条時頼が、身分を隠して諸国の様子を観察していた時のことです。上野国(こうづけのくに、群馬県)の佐野のあたりで突然の雪に降られ、近くの民家を訪ねました。その家は、暖をとる薪(まき)も食べ物もない貧しさでした。


 しかし、家の主人、佐野常世(さの・つねよ)は、時頼だとは知らぬまま、こころよく迎え入れました。常世は、見も知らぬ旅人を暖めるため、大切にしていた鉢植えの梅・松・桜を囲炉裏(いろり)にくべて精一杯もてなしました。


「ご覧のとおりの貧しさですが、私はかつてはこのあたりの領主でした。今は、領地を奪われ、この有様です。しかし、私は武士です。幕府に一大事があって、いざ鎌倉というときは、いつでも駆けつけられるように、馬と武具だけは手離しておりません。」


 鎌倉に帰った後、時頼は関東の御家人に緊急の招集命令を出しました。すると、常世は武具に身を固め、鎌倉に駆け参じてきました。時頼は、常世の奉公、忠誠心を誉め、領地を取り戻してやり、さらに「加賀梅田」「上野松井田」「越中桜井」を恩賞として授けました。



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