宮内、賑わいの記憶(5)「主要路に沿う職業、82年前と今」比較図 [宮内の歴史]
◎昭和8(1933)年と平成27(2015)年の町並み比較
○人口比較
・昭和8(1933)年 戸数1.912 人口10,684(男4,621 女6,062)/6487万人 0,016%
・平成27(2015)年 戸数2,536 人口7,785(男3,632 女4,153)/1億2689万人 0.006%
○職業比較
・昭和8(1933)年(宮内地区)
農業334(17.5%) 工業581(30.4%) 商業482(25.2%) その他388(20.3%)
自由業127(6.6%) 合計1,912
・平成27(2015)年(南陽市全体)
第一次産業1,840(11.3%) 第二次産業5,217(31.9%) 第三次産業9,123(55.8%)
その他164(1.0%) 合計16,344
十二、宮内町、漆山村主要街路に沿ふ職業分布
佐藤佐武郎「郷土に立脚して宮内町付近の製糸業概況を語る」(1933)より
《今宮内町、漆山の主要街路に沿い一瞥するに両者を合せて一万千と云ふ町なのに職業上如何にも工場地としての特殊性がある。工場地と云うよりは女工相手の工業といふ風に、先づ呉服屋の多いこと、下駄屋の多いことである。/工場地は大略を眺めると三者となる。東地帯、中地帯、西地帯とその理由等は他のところに譲るが東地帯を金山街道沿ひの三、六角町、本町交叉附近に離れた本町の石黒、内原街道である。中とは.二区に一は黄金、別所町一帯と駅附近の三ケ所で、西地帯とは漆山の五工場である。A.1.呉服屋の多いこと
2.下駄屋(はきもの店)の多いこと
B.3.小間物屋の多いこと
4.小食料品屋の多いこと
更に之が理由を考察するに、宮内町が女として千人も多いと言ふ事より考えて当然に呉服屋が多くなる。又、下駄屋の多いことも当然である。女ばかりの工場に更に年頃として服装に注意するのは当然である。小間物屋でも同様で化粧品、小調度品等にも僅かづつ乍ら相当の売行きを示している。朝より寧ろ夕方、工場通ひの女が帰路につく頃電燈の色羨(とも)しく輝やいている下に各種用器の色、形様々に並べるときそこにジャズ入りのレコードは拡声されてかつ女工の歩みに伴奏をつけて呉れる。知らずに足は店頭へ、一人入れば友人を誘いジャズの景色に思はず一ヶ買ふと言ふ有様である。小額乍らこうした店は今日の不景気の頃最も都合よく生活している。最近小さい店は次第に模様替えされて行く有様はこうした事実を物語るものである。/小飲食店の発展せるも同様である。それ等のものは大ていテンプラを売っている。又は駄菓子を売っている。工場附近に飲食店とあるは大抵それである。夕方否昼休みなど走り出て数人で食べている。こんな事はよく衛生方面に注意して商品に注意するは勿論、風紀の方面よりも工場側の方面よりも一考の必要がある事と思ふ。》
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