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宮沢城内、板碑出土 [宮内の歴史]

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板碑出土地図.jpg菖蒲沢の村上さんから「お父さんが家の前の土手から人の手が加わった石を掘出したので見て欲しい」との電話をいただいて駆けつけたのは、5月25日の夕方だった。そして数日前「市役所の担当の方に来ていただいて見てもらった。」との電話があった。25日に撮った写真を添えて市の文化係に連絡していたのだった。ちょうど宮沢城大手門趾をのぼってすぐの南丸土手の場所で、今後の調査、展開をまちたい。宮沢城に目を向けてもらうきっかけになるかもしれない。

4年前の26年水害のとき、宮内ではとりわけ菖蒲沢地区の被害が大きかった。沢に集まった水が濁流となって道路を流れた。そのとき崩れた土手に一部分現れていた石を取り出したら、明らかに人工物だったので電話を呉れたのだった。見ると「板碑」だった。平らに寝た形で埋まっていたとのこと。日も落ちて暗くなったので、その日は確かめずに帰ったが、掘ればもっと出てきそうな気がする。上の寺(蓬萊院)の墓地で板碑が敷き石に使われているのを見たことがあるが、この板碑もそうなのではないか。板碑は中世仏教の供養塔で室町以降は次第に廃れ、その後は粗末に扱われ実用に付されることも多かったらしい。

南に熊野の杜を望む、掘出した場所。 

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翌日図書館で『南陽市の板碑』(加藤和徳著 村山民俗学会 平18)と『置賜の石碑石仏』(武田好吉 安彦好重著 歴史図書社 昭54)を借りてきた。似た形のものは『置賜の石碑石仏』に一基あった。(86p)
くぬぎ塚竹田家板碑.jpg南陽市椚塚中屋敷竹田新光氏畑痛殿型単式弥陀碑
 国道十三号線と高畠街道との交差点からやや北上した西側の畠中にある。巾 地表総高六三板、巾四〇、厚さ一七糎の屋型に、高さ四八糎、巾二九、五糎、深さ八、三の龕室を彫り、奥壁に単式板碑を一杯に陽刻している。種子は円の中に牛リーク(弥陀)銘不明。
 竹田家ではこの碑を屋敷神としてお祭をしているという。
以下、『南陽市の板碑』の中の「板碑について」全文。加藤和徳さんは上山市在住。置賜民俗学会員です。
*   *   *   *   *
  山形県南陽市の板碑
            加藤和徳

一、板碑について
(一)板碑とは

 板碑とは、板石塔婆のことであり、平仏・板仏・ぱん碑・青石塔婆などと呼ばれることもある。板碑はほぽ全国的に分布しており、その形態も地域によってさまざまであるが、関東(武蔵国)における板碑は、平らな石材の頂部を三角形に切り、その上部の横に二本の切り込み(二条線)を刻み、その下に横長の額を入れる。身部は枠線
で囲み、その中に種子(梵字)、その下に蓮台・三具足(花瓶・香炉・燭台)、銘文(紀年名・法名・偈・願文)などが彫り込まれている。また、種子の賎わりに、図像や「南無阿弥陀仏」の六字名号とか、「南無妙法蓮華経」の題目などを刻したり、額の下に天蓋などが彫り込まれている場合もある。
 材質はその地域によって異なるが、関東では緑泥片岩が用いられている。この石は、薄くはがれるので加工しやすく、青石とか秩父青石とも呼ばれ、埼玉県秩父郡長瀞や比企郡小川町の付近、いわば、荒川上流で採石されていたと思われる。
 当地、南陽市内に残る板碑の材質は、主に軟質な凝灰岩を使用している。この凝灰岩の採石は、厳密な岩石の分析は行なっていないので、結論づける事は出来ないが、高畠町から採石された大笹生石や瓜割石、通称「高畠石」と見られる。中には、宮内足軽町や川樋から採石された凝灰岩も含んでいるようである。
 したがって、南陽市に残る板碑は、肉厚で板状のものが少なく不偏であるため、一般的に言われている板碑(板碑の名称については、いろいろな論争の結果、呼び易い事から板抒とした。)には程遠く、大分県国東半島の板碑と類似している。でも、これらを含めて板碑と呼ばれている。

(二)板碑の起こり
 板碑(青石塔婆)の源流、起こりについては、五輪塔より変化したものであるというのが一般的な通説である。五輪塔は、下部より、地、水、火、風、空の五大思想を標示する塔婆の一種で、わが国では平安時代から造立されている。また、五輪塔は、方形の地軸、球形の水輪、宝形造りの火輪、半球型の風輪、宝球型の空輪を積み上げるのを普通とする。
 形態的には基礎(地輪)・塔身(水輪)・笠(火輪)・請花(風輪)・宝珠(空輪)とみる。この五輪塔の基礎部を長く伸ばし、銘文などを彫り付ける必要から起きたものが長足塔婆で、板碑も、この変化からだという説もある。
 長足塔婆は、平安末期からの造立と見られ、鎌倉初期ごろの作と見られる絵巻『餓鬼草紙』にその図か描かれていることは広く知られている。しかし、描かれている塔婆は石製ではなく、木製で永久的なものではない。長期間、供養塔として風雨にさらして置くには、木製では不適当であるため、塔婆造立が盛んに行なわれた鎌倉時代に、木製にかわって石材が利用されたのではないかと思われる。しかし板碑は扁平である。そこで、板碑の源流についての論議が生まれてくるが、その源流説をいくつか紹介する。
 板碑研究集の大著、服部清道氏は、『板碑概説」(昭和五十三年復刻版)で「板碑が直接輪塔より転化したものとは考えず、五輪塔の一変種としての長足塔婆が、さらに、千本塔婆又は板塔婆と言う如きものに簡略化され、それが更に転じて板碑を出現せしめるに至ったものと思うものである。」
 また、昭和四十八年の論文「板碑の起源」考古学ジャーナル池86(昭和四十八年)では、かくして板碑の源流は五輪塔ないし長足塔婆、板塔婆に加うるに、かの弥勒画像碑などの複数の触合体として発生し、また、形態的には初めから弥勒画像に板塔婆の形態を加味した形、即ちここに成型した初発期板碑の形態があったと考えられる。
 川勝政太郎氏は、「石造塔婆としての板碑」考古学ジャーナル池田昭和五十二年)で、本格板碑の特徴とする、頭部山形、二段の切り込み(中略)、これらの手法が何から出たものであるのか、何を意味するものであるかについては、いろいろの説が出たけれども(中略)、その適切な例として挙られるのが、岡山県倉敷市浅原の安養寺蔵土製角塔婆である。とし、その正面観だけを利用すれば板碑の形式になるのである。板碑の源流は角塔婆であると考えられる。と断定され『石造美術人門』にも記している。
 千々和實氏は、『新版仏教考古学講座・第三巻』(昭和五十一年)の「板碑」では、応徳年間に現れた板状瓦経塔婆と後世出現する板碑とを結ぶ役割をしたものを、私は板状長足五輪形塔婆(服部氏の「長足五輪」)だと考えるのが至当だと思う。と服部清道氏と同論である。
 小沢国平氏は「庚申板碑と初期の庚申塔の問題点」として『日本の石仏・一号』(昭和五十二年)の項で、[板碑が塔婆であるからには、その源もこれを塔婆にもとめなければならない。それには石造層塔と考えればよいと思う。」と述べている。
 五来重氏は、『続、仏教と民俗』(昭和五十四年)で「板碑の起源が日本民族の霊魂祭祀に用いたヒモロギにあることを説明して(中略)棒型塔婆の変形である杓子塔婆から石造化された板碑である。」としている。
 縣敏夫氏は、『日本石仏事典』の「板碑」の項で、「平城京址出などの人形が板碑の祖である。」ともいう。
 その他に、稲村坦元氏の「笠塔婆より派生したもの」、石田茂作氏の「修験者の作る碑伝(木製塔婆)より転化したもの」、京田良志氏の「宝珠が変化して板碑の祖形が生まれた。」などがあり、いずれも板碑特有の二条線がいかなる意味を持つかに焦点が絞られているという、だが、これまでの諸説のように「塔婆の形態的移行からだけ追求されるべきではない。」と考えるので、その点について、若干の意見を千々和到氏が述べている。
 私は、五輪塔の変化であると確信しているが、以上のように板碑の起源については、いまだ定説はなく、今後の大きな課題である。

(三)板碑造立の趣旨
 板碑が五輪塔より、長足塔婆に転化したという説なら、板碑が一種の卒塔婆であるという意味をもつ訳である。しかし、卒塔婆であれば、板碑造立の趣旨は、おのずから追善供養や逆修供養のためであろう。
 追善供養とは、死者の冥福を祈るために「追って善根を修する」、すなわち、子が親のために供養するもの、妻が夫のために供養するもの、弟子が師のために供養するものである。逆修供養は、自分自身の死後の菩提を弔う法要で、極楽往生を念願するために生きている間、板碑が造立するものである。
 また、現世における幸福を願うために、板碑を造立される場合もある。そして、板碑の造立は、仏教と深い関係にあることは、すべて述べたが、板碑の額部の下に刻まれている種子は、供養する人が信仰主尊(仏)を梵字で示したものである。
 県下では、阿弥陀尊、または阿弥陀三尊を表したものが多く、その他、金剛界大日・胎蔵界大日・釈迦・毘沙門天・地蔵、それに、仏像をそのまま刻したものも見られる。  現在、日本最古の板碑は、埼玉県大里郡江南村須賀広、大沼公園に造立されている嘉禄二年(一二二七)のものである。山形県では、当市竹原、阿弥陀堂に造立されている正元元年(一二五九)である。
 板碑は全国的に広く造立されているが、それは、平安末期頃までは仏教が主として貴族的で、上流社会のものであったため、一般庶民までには浸透していなあったのではないかと思われる。それが、鎌倉時代入ると、以前と異なって、庶民が中心となり、上から下に及ぼした仏教も、下から上に及ぼすようになった。そこで、庶民的に親しみ易しい阿弥陀の信仰が一般に浸透し、それと同時に、あまり経済力もなく、寺や塔などを建立することが出来なかったので、中、下級武士たちが板碑を造立するに到ったのであろう。
 また、種子は阿弥陀が多く造立されているからといって、必ずしも一宗派だけであるとは限られなかったであろう。
 たとえば、板碑の多い関東地方について、稲村坦元氏は『青石塔婆の諸宗』(昭和五十二年)で、次のように述べている。
 青石塔婆流行の鎌倉時代より室町時代、江戸初期までの仏教派の状況は、宗団という明確なる団体ではなくて、人々各自の思想信仰によって宗派的概念を持っていたに止まるものであって、寺院と雖も江戸時代の如く必ずしも一宗派に固着したものではなくて、広い意味の仏教修業道場で、そこにくる人々の宗派信仰によって、浄土宗にも、現世教にも、自力にも他力にも、天台宗にも真言宗にも変化した。これによって板碑の上にも、かくの如き状態が十分に表現せられ、一枚の板碑が必ず一宗派の信仰に局限せられ、明確に断定されるというべきではない場合が多い。
 従って、現在我々が見る板碑に、仮に阿弥陀の種子があるとしても、これは、平安時代末期から鎌倉時代へかけての日本仏教には、各宗に通じた信仰で必ずしも浄土宗の一方のみと限る訳にはいかぬ。否むしろ浄土宗の信仰は仏教全体に具有するもので、当寺勢力のあった天台、真言をはじめ、禅宗である臨済にも曹洞にも存していた、云々。と述べておられるが、現に異系の二種子を表した板碑も見られる。その一例として、当市や東置賜郡高畠町、最上郡最上町の例が拳げられる。
 板碑造立の初期は浄土教信仰に関するものが多く、しかも大型のもので、比較的経済力があったと思われる。後期になると、既成品とみられる小型のものが圧倒的に多くなり、経済力の弱い、一般庶民層の造立と思われる。
  埼玉県『富士見市の板碑』 井田實・加藤和徳著(平成元年)から抜粋、加筆した。
板碑図解.jpg

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