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宮内の歴史(10)衰退から復興への道 [宮内の歴史]

合併して「南陽市」になることが宮内にとってよかったかどうかといえば、私は悪い選択だったとずっと思っている。合併したことによる弊害が今もいろんなところに感じられる。当時の記録を見ると、とにかく「市」になりたかったということのようだ。その意識はとりわけ町会議員の間に強かった。では何が悪かったかと言えば、「宮内」という共同体意識がずたずたにされたことだった。合併時にそのことへの配慮があったようには全く思えない。私が宮内に戻ったのは合併して10年近く経っていたが、何かというと「地域エゴ」が言われつづけた。その言葉はとりわけ宮内の人間に対して発せられた。それだけ宮内の人間に共同体意識が強かったのだ。「地域エゴでなぜ悪い」と気持ちの中では思っても、表立っては言うことがはばかられる空気だった。そうした中で開催したのが「いかにして”南陽衆”たりうるか!?」というシンポジウムだった。当日資料の冒頭にこう記されていた。


《新しい時代は,決してタテマエ論からは,はじまらない。/虚ろな中味の市民憲章,゛地域エゴをなくそう”のお題目,そんな耳ざわりのいいきれいごとがもっともらしく通用しているとしたら,その地域はごくひとにぎりの人だけで動かされているから。/わたしたちの南陽市を,南陽市民みんなのものに。/きれいごとはいらない。ホンネで思いっきりいいあおう。/まず混沌を生みだそう!/きょうの集いで生まれた小さな渦が,南陽市全体をまきこむ大きな渦に育っていくことを願って。/”講演と討論の集い”実行委員会》

 

その背景には、宮内地区からの市庁舎移転問題もあった。そんなこともありながら合併から現在までほぼ半世紀、おしなべて宮内は「衰退」の道を辿った。

 

数年前、ひょんなことから「宮内歴史を語る会」というのができた。要するに酒酌み交わしながら宮内の昔話をしようということで始まったのだが、粟野収吉会長のよきリーダーシップを得て会は重なるごとに盛り上がり、また良きスタッフにも恵まれて県レベルの補助金を使った歴史研修事業をいくつかやったりして実績をあげ、いつのまにか公的認知も得られるようになった。この会の度に、根底にある「宮内意識」を思わされる。

 

では、この「宮内意識」を今後どう考えてゆけばいいのか。宮内町時代を知るわれわれがいなくなればいずれ次第に薄れてゆくものとも思えない。そしておそらく、心おきなく『宮内意識」を発揮できるようになるには3市5町合併による「置賜市」実現しかない、と思ってきた。そんな中で目の前に突然浮上したのが「置賜自給圏構想」だった。数日前、コメント欄にこう書いたところだった。

 

1月20日に、松尾雅彦さん(元カルビー社長、「日本で最も美しい村」連合副会長)のお話を聞き、そしていま氏の著書『スマート・テロワール』を興奮しながら毎日1章ずつ読んでいます。20日に松尾さんから二つの宿題が出されました。そのひとつが、「30年先の未来の夢を具体的に思い描いてみること」です。》


このスマート・テロワール』の方向に宮内復興の道が確実にある。いずれそのことはしっかり書きますが、そのことがあって、10回にわたった「宮内の歴史」の最後を「復興への道」としたのでした。松尾さん言われる如く、食料自給率が下がったからこそ、これからの農業復興の可能性がある。宮内にも同じことが言えるのではないか。かつての繁栄の宮内と現状のギャップこそ可能性の宝庫である、と。


   *   *   *   *   *


1967(昭和42年)宮内町・赤湯町・和郷村が合して南陽市に

 1969年(昭和44年)双松バラ園完成

71 双松バラ園.jpg

 ○1982年(昭和57)南陽市役所、宮内から現在地に移転

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宮内の歴史(9)戦後、南陽市になるまで [宮内の歴史]

1946年(昭和21年)宮内町立農業学校開校(→宮内高校→南陽高校)

1947年(昭和22年)宮内中学校開校

63 宮中校章 茂介.jpg芳武茂介さんのデザインです

黒江太郎と斎藤茂吉

64 黒江太郎.jpg

《斎藤茂吉〈明治15年(1882-昭和28年(1953)〉は黒江太郎〈明治43年(1910)ー昭和54年(1979)〉との縁で2回宮内を訪れています。

 最初の訪問時、 茂吉の日記にこうあります。

〈(昭和22年)五月十七日、土曜、ハレ、クモリ、・・・(上山駅で)一時五分汽車が来タノデソレニ乗り、赤湯デ降リタ。結城哀草果、西村モ同車デアッタ。徒歩ニテ宮内町ノ黒江太郎方二著イタ。○ソノ夜、女流ノ骨折ニテ鯉ヲ主二シタイロイロノ料理ガ出タ、酒、ぶだう酒、○黒江氏の蔵ニ臥、入浴〉

  この時の会話の様子を黒江が記録しています。

〈先生は目をつむって、「いい歌作ったす。『道のべに‪蓖麻(ヒマ)の花咲きたりしこと何か罪深き感じのごとく』、どうだ、『何か罪ふかき感じのごとく』はいいだらう。それからこんな歌も作った。『少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき』、何事もだぞ。『いやいやながら』はいいだろう。こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。苦労した歌はいい。」と仰言った。「おれは天下の茂吉だからな。」、先生は一段と身をそらして、恰(あたか)も殿さまのやうに両肱(ひじ)を左右に張って見得をきった。〉

 その晩の献立表が残っており、「鯉の甘煮(うまに)、鯉のアライ、茶碗ムシ、煮染、豆腐の木の芽田楽、ウドの胡麻アヘ、アケビの萠(もえ)浸し、蕗の煮ツケ、トコロテン、ナメコの吸物、蕨汁・・・」でした。

 18日は蓬萊院で歌会。翌19日、赤湯御殿守旅館まではリヤカー、宮内高等女学校の生徒4人がリヤカーを挽くのを手伝い、茂吉先生大喜びでした。》(宮内よもやま歴史絵巻 平成26年度版)

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宮内の歴史(8)明治から大東亜戦争まで [宮内の歴史]

1868年(明治元年)出羽の国を羽前と羽後に分け南陽は羽前に属す
1871年(明治4年)郷校設置(→宮内小学校)

宮内小学校校門にある「鍾秀学校」碑。「秀」を「鍾(あつ)」める。脇に「置賜郡宮内村設立」とある。

2-DSCF8368.JPG

1872年(明治5年)宮内大火。鳥居の場掛舞台から出火、宮内500戸のうち300戸焼失。死者2名。(49日)《申四月九日午後七時半頃より鳥居ノ場芝居小屋より焼ル 尤大火也  新町田町 新丁御蔵町本町杉町突貫寺下粡町焼ル也》(高岡家年代記)

当社の参道は全国の昔からあった他の参道にくらべて非常に立派なことである。京洛奈良のそれは別とし、高野山日光には及ばないが、その距離の長いこと、道巾が広く堂々として居ることでは全国的にも珍らしい。この参道が何時ごろに出来たものか、これを証するものは明治五年の大火で焼失した参道の入口大鳥居の両側にあった大杉である。大鳥居の東側にあった大杉の切株には畳が十二枚、西側の大杉には九枚が敷かれたと伝えられている。この十二畳敷きの大杉が植えられた昔にこの参道は完成して居りこの大杉の年輪すなはち樹齢により参道の出来た年代が想像されよう。そのかみを思えば、あの堂々たる参道の両側にうっそうと古杉が続き、宿坊が立ち並び、木の間をもれてくる熊野の晩鐘に昔の静寂の霊境を想像出来るではないか。》(往古の熊野大社)

1878(明治11年)イギリスの女流旅行家イザベラ・バード置賜を通り、「アジアのアルカディア(桃源郷)」と感嘆(日本奥地紀行)

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宮内の歴史(7)江戸期の宮内 [宮内の歴史]

○1604年(慶長9年)置賜郡代春日元忠ら、直江兼続の命を受け熊野宮を修造(一山古今日記)10-94熊野宮建立棟札(一山古今日記).jpg

1623年(元和9年)安部右馬助等による宮内の町割完成 (元和町割図)

元和九年町割図DSCF7574.jpg


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宮内の歴史(6)直江兼続公と宮内 [宮内の歴史]

↓スライドのタイトルです。DVDになっています。

08-1タイトル.jpg

平成21年のNHK大河ドラマが、直江兼続が主人公の「天地人」に決定したのは平成19年(2007)の春でした。その秋、新潟県の長岡市で印染の業者の会合があり、息子と一緒に参加してその足で上杉景勝・直江兼続の生地南魚沼市まで行ってきました。そのことがきっかけになって、それ以前からの飯山市との関わり、そして尾崎哲雄氏からの「直江兼続公の実母が尾崎氏の出であることを世の中にわかってもらえるように、なんとか手伝ってほしい」との強い願いもあって、思いがけず当時の歴史に深く関わるようになったのでした。「天地人」の幟の注文もあって、21年の放映が終わるまでとにかく忙しい2年間でした。当時の記憶と重なる宮内の歴史です。

 

   *   *   *   *   *

 

↓和光神社(本来尾崎家の氏神様。境内の東北にあり「虚空蔵様」とも言う)  ↓菅原神社(「お文殊様」で多くの絵馬が下がる)

41 和光神社.jpg41A  菅原神社.jpg

↓皇大神社(「東北の伊勢」の由来となる)          ↓蟻王山八幡神社(飯山では「有尾山八幡神社)

41B  皇大神社.jpg41C  蟻王山八幡神社DSCF1526.jpg

1598年(慶長3年)3月、上杉景勝会津転封に伴い宮内城に信州飯山より尾崎重誉入る。飯山より和光・菅原・皇大・八幡神社を勧請

10-9尾崎家系図.蘭子.jpg

直江兼続の母の実家尾崎氏

 宮内にも縁深い直江兼続公は、平成21年の大河ドラマ「天地人」によって、名立たる戦国武将の一人として広く世に知られることになりました。

熊野大社から北へ約300メートル、左手の小高い丘に「宮沢城」とよばれる城がありました。その最後の城主は、尾崎三郎左衛門重誉という、徳川家康をうならせたほどの武勇が伝わる人物でした。慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命による上杉藩の国替えで、直江兼続と共に信州飯山から置賜に入り宮内の城主となりました。この尾崎家こそ、直江兼続の実母「蘭子」の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻・蘭子は、重誉の曾祖父・泉氏宗家尾崎弥七郎重歳の娘。慶長9年(1604)に没し、直江家の菩提寺・徳昌寺に葬られたとの記録が残っています。

また、熊野大社の末社の和光神社は尾崎家代々の氏神様です。尾崎氏は宮内から福島に移り、その地にも和光神社を建てたのですが、「天地人」放映の年の11月、飯山からの一行と福島からの一行が何の打合せもなしに和光神社の前でばったり遭遇するという、尾崎家先祖のお計らいとしか考えられない不思議な出会いがありました。(「宮内よもやま歴史絵巻」) 

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宮内の歴史(5)長井(大江)氏(164年)→伊達氏(211年)→蒲生氏(8年) [宮内の歴史]

1219年?(承久元年)大江広元の次男時広、長井庄の地頭に。長井氏初代。1383年(永徳3年)伊達氏に滅ぼされるまで置賜を支配(164年間)

27 大江匡房t11e.jpg

《大江氏/平安時代、大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門らが選出されている。大江匡衡の孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。鎌倉時代、河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は大江匡房の孫であり、頼朝の覇業を内政面で支える。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得る。広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となる。1221年(承久3年)承久の乱において京都守護の広元嫡男大江親広(寒河江荘地頭)が失脚し、また1247年(宝治元年)に広元四男の毛利季光が、宝治合戦で三浦泰村に味方したために討たれるが、広元次男長井時広の子孫(長井氏)は鎌倉幕府の評定衆、引付衆などの要職を務め、鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏側近として室町幕府中枢にあり、14世紀に伊達氏に出羽国置賜郡長井荘を奪われるまで勢力を保った。http://ja.wikipedia.org/wiki/大江氏

30 北条時政2ae73bd731363d51eee8f27c6ff326ac.jpg


1250年(建長2年)大江泰秀 熊野宮修造。保食宮(義家公)、金剛見(景政公)造営、末社とする(一山古今日記)

1254年(建長6年)大江泰秀(時秀?) 粟野東昌寺覚仏入道に命じて再興(一山古今日記)

《粟野東昌寺覚仏入道は粟野次郎義広といい、伊達氏第二代伊達宗村の第二子である。伊達氏の始祖の朝宗は、配流ののち道を関東にむけた親鸞上人を迎えて長く庇護し、上人に帰依して念西と号した。上人は伊達家に長く逗留し、布教のかたわら理論構成の期間でもあった。許されたのちも伊達家にとどまって、暫く帰らなかったほどである。伊達氏と親鸞上人は深い因縁でむすばれ、二代宗村の念山の号もこの思想によって命名され、伊達氏代々は仏教帰依者であった。》(宮内熊野大社史)

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宮内の歴史(4) 宮内熊野大社縁起諸説(続) [宮内の歴史]

21 慈覚大師.jpg

 

860年頃(貞観年中)慈覚大師が清和天皇の勅命を奉じて熊野大社を再建(一山古今日記) 

1060年(康平3年)源義家が熊野社に陣柵を設ける(熊野神社縁起)

1091年(寛治5年)源義家が鎌倉権五郎景政を遣わして紀州熊野三所神を再遷宮。景政、大銀杏を手植え(熊野大社所蔵文書)

熊野大銀杏 .jpg22 菊人形 暫.jpg

1140年(保延6年)勧進僧正寅、玄宗らが別所山に経筒埋納(現在東京国立博物館所蔵)

《釈迦入滅2000年で仏法は滅びる。それが平安後期で「末法思想」。経典を保存して弥勒菩薩が如来として此の世に現れるのを待つタイムカプセルが経筒。そもそも慈覚大師による発願。別所山経筒は東北最古》(奥村秀雄「山形県宮内町出土の経筒」)

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宮内の歴史(3) 宮内熊野大社縁起諸説 [宮内の歴史]

16 大津家.jpg17 大津家 昭和初期.jpg

9世紀から12世紀、平安時代から鎌倉時代が始まる前(平家政権)まで、熊野大社に関するいろんな記事を見ることができます。私が注目するのは「807年(大同2年)紀州熊野有馬村峯の神社を遷して熊野大社創建」という大津家に伝わる「熊野神社縁起」です。黒江太郎氏の「熊野大社史」では傍系資料的扱いのような気がします。背景には台林院(北野家/元天台宗)と大津家(伊達重臣→神道神主)の江戸期以来の確執があり、北野猛先々代宮司と黒江氏との関係を考えればそうならざるをえないことは十分理解できます。先の1200年祭も806年再建説に立って2006年(平成18年)に行われました。それはそれとして、私もあらためてじっくり大津家に伝わる縁起を読んでみたくて全文アップしました。「南陽市史編集資料 第7巻」にあります。花の窟神社との関わりについての私なりの考察は「宮内熊野に探る『祭り』の意味」で載せたものの再掲です。ホラ話として読んでいただいてけっこうですが、ほんとうのことかもしれません。私にとって最高のロマンなのです。

 

   *   *   *   *   * 

 

806年(大同元年)平城天皇の勅命によって熊野大社再建

《当社熊野三所大権現と奉申者、人皇五十一代平城天皇、大同元年御草創二而、八幡太郎義家公御再興、北条三十三ケ所惣鎮守、依之往古之建立而歳霜久敷、霊社御神徳猶明ニ、世々御社頭御寄付披仰付、依之上様御祈祷、正六両度之御祭礼者不及申、月二三ケ度於神前、御武運御長久、御国家御繁栄之所、丹誠修祈無怠慢相勤申候。》(一山古今日記 寛政121800)年)


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宮内の歴史(2)BC3000〜AD800 [宮内の歴史]

歴史の流れに沿って

 

紀元前3000年頃(縄文中期)久保遺跡、熊野大社敷地内遺跡、宮内小学校敷地内遺跡、双松公園敷地内遺跡等があり、一帯が大きな縄文むらであった

5 久保遺跡発掘 昭和57年.jpg

《久保遺跡は、宮沢川が吉野川扇状地に入るところで、高日向山・山王山の二つの丘陵の先端が近距離にあるところでもある。縄文時代中期の遺跡立地条件の良いところである。この周辺に大集落が発達してもおかしくない。》(「南陽市史 考古資料篇」)











6 宮内扇状地の稲作のはじまり.jpg

紀元前100年頃(弥生中期)宮内扇状地内では稲作が盛んに行われるようになり、低地にはいくつかのむらができていた(南陽市史)



















7 置賜の統一王墓の出現.jpg

300年頃(古墳時代)宮内扇状地内の稲荷森古墳のような大型古墳をつくることのできる大きな地域集団が成立していた(南陽市史)


















【余談】

1.条里制における正方形の一辺は1町(109.09m)。1町は360尺で60間。36町で1里。宮内熊野大社と屋代三山の一つである竹森山の距離がほぼ2里(7854.48m)。どういうわけか、二つの地点が2里の関係をいくつも見出すことができる。その一部。

10 熊野大社と竹森山の距離.jpg

2.金山龍の口明神と置賜三大古墳の位置関係の不思議

・「龍の口明神ー戸塚山古墳ー西吾妻山頂」が一直瀬

・「大朝日岳山頂ー龍の口明神ー天神森古墳」が直角

・「飯豊山神社ー龍の口明神ー稲荷森古墳」がちょうど60度

ちなみに、上記三大古墳はほぼ正三角形であることを佐藤鎮雄先生がはやくから注目しておられた。

12 龍の口明神相関図.jpg11 龍の口明神.jpg

 

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宮内の歴史(1)宮内とはどういう場所か [宮内の歴史]

昨日(1/18)、南陽市ボランティアガイド協議会の研修で「宮内の歴史」を語ってきました。「時間はたっぷり使って」ということでしたので、1時30分から始めて、10分ぐらいの休憩を入れて、終わったのは4時をまわっていました。最初は「宮内よもやま歴史絵巻」について語ればいいかと思っていたのですが、最近「宮内歴史を語る会」の粟野収吉会長がしきりに宮内のまとまった歴史資料がないことを嘆いておられ、また菅野昭彦さんが、羽田隆助さんの「宮内野史」(昭和16年)のデータ化に取組まれたことも刺激になって、自分なりに宮内の通史を頭に入れておきたいと思い、勉強のつもりで資料を作成しました。平成19年につくり、昨年再版した宮内マップにのせた年表が役立ちました。年表に根拠資料をつけることを主眼に資料を作りはじめたら、おもしろくなってかなりのヴォリュームになりました。ここに載せることは考えていなかったのですが、今後何かと便利かと思いアップすることにしました。これから今年度中に作らねばならない「宮内よもやま歴史絵巻」の一部も載せます。●印が「宮内よもやま歴史絵巻」です。(随時追加修正してゆきます)

宮内マップ年表.jpg

 

   *   *   *   *   *

 

宮内とはどういう場所か

1 空から見る南陽 .jpg

「宮内の地は陽に面し南広闊として背後に山を負い澤深くして水清く、又産物に豊富で歴史の瑞気到る所に窺はれる。恐らく宮内は置賜文化発祥の地であると思はれる。然して趨移と共に星移り月変り幾多の変遷を経て現状に到る。一度其の昔を顧る時誰かその盛事に驚かない者があるだろうか。」(羽田隆助「宮内野史」昭和16年)


「美し地(うましくに)おいたま——21世紀、置賜は世界の中心になる!」

 「東の方に美し地(ぅましくに)有り。青山四周(よもにめぐ)れり。彼の地は、必ず以て大業(あまつひつぎ)を恢弘(ひらきの)べて、天下に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋(けだ)し六合(くに)の中心(もなか)か。」

 『日本書紀』神武天皇御東征の詔勅である。ここでいわれる「美し地」とはいうまでもなく、古代における奈良県の大和盆地を指しているとされるわけであるが、この「美し地」をそっくり置賜盆地にあてはめて考えた学者があった。昭和十三年、『東置賜郡史』に「置賜盆地の古代文化」を発表した早稲田大学教授西村眞次博士である。

 西村博士は、「古代意識に於ける『美地』は、神武紀の詔勅に於けるがごとく、青山四周してそこが世界の中心であるという風の感じを与える場所であった。」とし、竹森山、相森山、根岸山の屋代三山をそれぞれ、耳成山、畝傍山、天香具山の大和三山に対応させ、「古代日本人はあるいは大まかにそうした観察を下して、古代屋代を三山鎮護の勝地としていたかも 知れない。」と推量したのである。

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