宮内、賑わいの記憶(1) 宮内人「矜持」の由来 [宮内の歴史]
◎はじめに
宮内人の矜恃(矜は「ほこり」で、外に向けた思い。恃は「たのむ」で、内に向けた思い)は何に拠るか。
※地域エゴ?
《私が宮内に戻ったのは合併して10年近く経っていたが、何かというと「地域エゴ」が言われつづけた。その言葉はとりわけ宮内の人間に対して発せられた。それだけ宮内の人間に共同体意識が強かったのだ。「地域エゴでなぜ悪い」と気持ちの中では思っても、表立っては言うことがはばかられる空気だった。そうした中で開催したのが「いかにして”南陽衆”たりうるか!?」というシンポジウムだった。当日資料の冒頭にこう記されていた。/「新しい時代は,決してタテマエ論からは,はじまらない。/虚ろな中味の市民憲章,゛地域エゴをなくそう”のお題目,そんな耳ざわりのいいきれいごとがもっともらしく通用しているとしたら,その地域はごくひとにぎりの人だけで動かされているから。/わたしたちの南陽市を,南陽市民みんなのものに。/きれいごとはいらない。ホンネで思いっきりいいあおう。/まず混沌を生みだそう!/きょうの集いで生まれた小さな渦が,南陽市全体をまきこむ大きな渦に育っていくことを願って。/”講演と討論の集い”実行委員会」》
○「北条」郷の由来(「宮内よもやま歴史絵巻」)
・背景にある「北条氏の仁政」
「北条氏の治世はいい時代だった」の思い。この土地を「北条」郷と呼び続けた背景には、北条氏との関わりを誇らしく思う気持ちがあったのではないか。→矜持※北条氏の仁政(「国際派日本人養成講座」
《源頼朝の直系が滅びた後、鎌倉幕府は北条氏が執権となって支えていく。その結果、社会は安定し、農業生産が高まった。いったい北条氏はどんな政治を行ったのか。鎌倉幕府と武士(御家人)は「御恩と奉公」の関係で結ばれていた。それを象徴する物語が5代執権時頼と佐野源左衛門の謡曲「鉢の木」である。ここには「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」という武士の心構えがある。/北条氏の執権政治を確立したのは、源頼朝の妻・政子の甥である北条泰時(やすとき)である。かれは政治の根本を「撫民」ということにおいた。「撫民」とは、民衆に対する愛情にもとづく政治のことである。その基盤は、「道理」と「合議制」であった。「道理」を重んじて定められたのが「御成敗式目」である。それはその後の武士の法律の手本となった。/一方「合議制」は、執権の独断に対するブレーキ役としての「連署」の地位と、執権・連署とともに政治や訴訟に関する評定を行う「評定衆」の任命があった。そして結論する。《我が国には、神話時代の「神集ひ」から聖徳太子の十七条憲法の「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)」と、衆議公論を尊ぶ伝統が根強いが、それを政治制度として定着させたのが泰時であった。この伝統があったればこそ、明治以降の議会制民主主義の導入もスムーズにいったのである。・・・「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があった。》》
○置賜の床の間「宮内」(「宮内よもやま歴史絵巻」)
・「四神相応」の地。宮内熊野大社を中心にした神社山岳配置の妙。大和盆地の藤原京、京都盆地の平安京にも匹敵する。
・宮内熊野大社を核にした5000年の歴史
○菊まつりの源流(「宮内よもやま歴史絵巻」)
・直江兼続による青そ生産奨励策→上杉鷹山公による絹織物振興策→製糸業の繁栄
○この師ありてこそ—田島賢亮(「宮内よもやま歴史絵巻」)
・須藤克三、芳武茂介、小田仁二郎等、日本の先端を担う人材の輩出。
須藤克三:敗戦後の占領下、「なんとか日本語を守らねばならない」。生活レベルからにじみ出た言葉の結晶として無着成恭先生による「山びこ学校」誕生させた。
芳武茂介:商工省の役人の立場で、工芸製品におけるデザインの重要性を啓蒙して、その後日本の製品が広く世界に評価される基礎をつくった。
小田仁二郎:日本近代文学の難題(アポリア)とされていた「自我の問題」を『にせあぽりや』と喝破し、『触手』によってこれまでだれもなし得なかったあらたな言語世界を切り拓いた。
宮内文化の根底にある田島先生の影響力の強さ。その背景には製糸業を核に勃興しつつある宮内の「勢い」があった。
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