宮内、賑わいの記憶(2) 宮内の人口推移 明治5(1872)年〜平成27(2015)年 [宮内の歴史]
◎宮内の人口推移
○明治18(1885)年から緩やかな上昇開始。(3,334人/520戸)
・相次ぐ製糸工場の創業。(懇信社・多勢組/明治11年、金盛組・片平茂右衛門/18年、遠藤栄次・佐々木六四郎・高橋源内/19年、山口七兵衛・高橋三郎兵衛・高橋弥藤次・竹田伊四郎・竹田喜太郎・磯野勇蔵/20年)
・明治26年、シカゴ世界博覧会で金賞牌(多勢組)。「羽前エキストラ」の名声高まる。
○大正7(1918)年から急激な上昇開始。(6,984人/1,196戸)
・大正4年、国の総輸出高7億800万円中生糸絹織物1億9,600万円で28%。大正14年、23億600万円中9億9,700万円で43%。この時期は輸出の増大と糸価の上昇で蚕糸業はかつてない黄金時代。大正3年生糸価格47円/貫が、大正8年145円/貫に上昇。多勢丸中邸が当時考えられる最高の材料と技術を駆使して20余万円を費やして建てられたのが大正12年。90年以上を経て寸分の狂いもない。しかし、昭和5年の昭和恐慌以降激しい低落傾向、昭和9年には33円/貫。製糸場の釜数、職工数のピークは昭和3年。
○昭和8(1933)年に最高。(11,504人/1,972戸)
・「郷土に立脚して宮内町附近の製糸業概況を語る」の発刊がちょうどこの年。(後述)
・昭和12年アメリカのデュポン社がナイロン繊維開発。生糸輸出激減。
・しかし、羊毛、綿花、麻、パルプ等の輸入を制限する輸出臨時措置法によって絹繊維の需要が高まり、輸出減分をカバー、糸価騰勢に転じる。
・昭和16年3月、蚕糸業統制法によって、日本蚕糸統制株式会社が全国の統制事務を行うようになる。
・昭和16年12月、戦争へ。食糧の急迫に伴い桑畑は激減、繭の減産。製糸業は不急不要産業として大整理対象。
○昭和19(1944)年が底。(9,582人/1,870戸)
・航空隊の落下傘、軍服、軍毛布等、国内繊維不足に対応するため、増産に転換。繭短繊維の開発。
・昭和20年8月、敗戦、連合軍総司令部の管理下での蚕糸業復興政策。
・食糧輸入の見返り輸出物資として生糸が指定される。
○戦後は、昭和23(1948)年が最高。(11,978人/2,273戸)
・養蚕奨励策として繭価格の大幅値上げを実施。しかし生糸価格は激しく変動。
・昭和25年6月、朝鮮動乱勃発。生糸相場高騰。物価統制令を発動するほど。蚕糸特需景気に沸く。
・昭和28年7月、朝鮮動乱終結。生糸需要急激に減少。桑園整理による繭生産量圧縮へ。
・昭和30年12月、明治6年創業以来当地製糸業を牽引してきた多勢金上製糸株式会社が解散宣言。翌年4月倒産。
・昭和30年代、重化学工業への転化に伴い、農村労働力が都市へ流出。
・昭和38年、アメリカから生糸輸入。輸入量急増。糸価高騰するも国内蚕糸農家は衰退へ。
・昭和40年、石黒製糸株式会社が電気部品製造に転換。
○平成27(1915)年は大正10(1921)年レベル。(7,496人/2,668戸)
(参照:『漆山の製糸業の歴史』おりはたの里づくり推進会議歴史部会 1994)
※羽前エキストラ
・「普通糸の製糸経営とエキストラ系の製糸経営では、ほとんど並行した系列のちがった産業」「女工哀史は、エキストラ格製糸業には無縁であった」(森芳三『羽前エキストラ格製糸業の生成』1998)
・羽前エキストラ/細糸(繭5個から1本の糸 14デニール 熟練と注意力の集中)、沈繰法
・普通糸/太糸(繭7、8個から1本の糸 21デニール 単純労働)、浮繰法
・製糸工女の繰糸能率 全国平均70〜80匁 山形式沈繰製糸平均120匁、最高250匁
・「沈繰法ハ、古クヨリ山形縣下ニ行ハレ來リタルモノニシテ、近年ニ至リ、各地ノ製絲家ハ、山形地方ノ形式ニリ、是ヲ改メラルモノアリト雖、往々ニシテ其方法宜シキヲ得サルカ為、好成績ヲ収メ難キモノアリ」(『農林水産省における主な蚕糸試験研究成果』 1916)
※伊藤長太郎「南陽市生糸史編纂について」(南陽文化懇話会)
《全国的に見て明治13年頃、製糸工場数665ケ所、信州、諏訪、岡谷、即ち山梨、岐阜、長野方面に集中されていた。長野県346、岐阜県140、山梨県82ケ所とある。当然この地方では激烈な女工争奪戦と量産だけを目標とした生産方式であり、この地方での過酷な労働条件は世評通り、一時期必然の姿であったのかも知れない。品質よりも量の方が重視された結果、集中的工場地帯の宿命でもあったことだろう。/以上の県を第一群とした場合。第二群は群馬の12ケ所、福島10ケ所、山形11ケ所という状況にあり、又風土的関係とも相侯ってのこと、郷土の先覚者群は何れも自己資本か地元資本に依り開業している点可成違っていた。健康上に工場内湿度上の点で全国的な課題もあった。この様な問題が当初或る程度あったとしても、酷使等という事は一切無かったと資料に基いて断言出来る。一般の当時の我々商人層の従業者と何等変ることのない、只集団勤務上工場としての統制が必要であり、一応の制約は止むを得ないことであったと思う。女工哀史より女工愛史の方が経営者の頭痛の種ではなかったろうか。経営者の前貸し制度等も、他地区とは可成り違っていたと考えられる。/大正の初期高等女学校より製糸工場入りを望む中流家庭の子女も多く、大工場への入場は可成りの知能と器用、目の良否等が要求されていた。裁縫、教養等も、特に寄宿制度では常に配慮していた事が諸資料で明らかである。/優良生糸が優良女工の熟練せる技倆から生れた事は頷けると思う。当地斯業に携わった先達諸氏のこの面での努力は認められるべきものと思う。その様な情況下、女子教育の必要を痛感した当時の高等女学校の設立に対し入学志望者が低く、態々福島方面迄女学校の教諭の方々が手弁当で生徒募集という有様で、丁度立場を逆にした時代すらあった。/朝夕の汽笛を合図に就業に励む女工さんの楽しそうな姿、街路上の賑いは町の活気を思わせる楽しい憶出と老生等には考えさせられる。女工さん二人以上の家庭、無論優良女工さんの場合だろうが、倉が立つと迄はやされた時代もあった。県下最大、約七〇%に達した生糸生産の工場地帯として、地方の享けた余慶はまことに大きく、その盛時を知る筆者等としては証明出来る事実である。》
○宮内小学校の在籍数推移(別添資料)
・明治5(1872)年、252名(男171名/女81名)でスタート。(3,238人/473戸)
・明治16(1883)年から増加始まる。320名(231/89)(3,304人/484戸)
・明治28(1895)年に500人台。515名(331/184)(4,070人/680戸)
・大正6(1917)年に1000人台。1077名(542/535)(5,854人/1,010戸)
・大正6(1917)年から男女ほぼ同数。
・大正8(1919)年に男女数逆転。(574/615)
・大正15(1926)年に1,500人台。1,553名。(738/815)(9,492人/1,776戸)
・昭和15(1940)年に男が女より多くなる。1,941名(1,032/909)。(10,726人/9,942戸)
・昭和20(1945)年2,266名(1,136/1,130)で最高。(10,726名/2,140戸)
・昭和25(1950)年1,682名(851/831)がその後のピーク。(11,330人/2,187戸)
・平成27(2015)年343名は明治23(1890)年のレベル。
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