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宮内、賑わいの記憶(6)近代宮内の礎をつくった佐野元貞 [宮内の歴史]

2-佐野家.jpg佐野元貞DSCF2777.jpg佐野元貞履歴書.jpg

「北条」郷の関わりでたびたび登場の佐野家は鳥居の場の北西の角。かつて修験の蓮蔵院の家柄だが今は書店を営む。店の様子は外見も中の陳列の様子も私の子どもの頃と全く変わらない。最近誰だったか「不思議な店だ」と言ったが、たしかにそうだ。現当主は私の3級先輩、実にいい人だ。おじいさんもお父さんもよくわかる。そのおじいさんの親、つまり現当主のひいおじいさんが佐野元貞という人。安政41857)年525日、憲誠、みのの長男として生まれた。文久元(1861)年、コレラ大流行。父憲誠死亡。明治51872)年49日、宮内500戸の内300戸焼失する大火災。死者2名。鳥居の場掛舞台からの出火。佐野家類焼。明治22月から83月まで、旧米沢藩士西山乾三郎に就いて漢学修業。明治81875)年五等仮訓導。宮内小学校在勤。13年宮内村用係。17年学務委員、月給12円。20年、東置賜郡蚕糸業組長に選挙。21年、宮内養蚕伝習所所長。22年町会議員に選挙。すぐ宮内町初代町長に選挙。40年まで4期半務める。宮内町救育義会幹事。23年、宮内町外十四ヵ村連合会議長。24年、東置賜郡蚕糸業組長。東置賜郡教育会員。27年東置賜郡会議員。30年、宮内町農会会長・・・あらゆる分野に亘って信頼されていたことがわかる。この間、24年町役場焼失、265月宮内大火、粡町27戸焼失、33年、十文字風呂屋煙突から105戸焼失の宮内大火と度重なる火災にもあっている。大正41915)年1221日、58歳で死亡。その功績については下記『山形縣紳士鑑』に詳しい。


「佐野元貞」でネット検索して『蠶業示要』なる著のあることを知った。ありがたいことに国立国会図書館に保存されていて、12ページ全文ダウンロードすることができた。いよいよ人口増加の萌し現れつつあるの発行だ。19年頃から次々に新たな工場の創設があり、蚕の需要が飛躍的に伸びた始めた時代だった。この小冊子は養蚕、製糸事業者にとって共通認識を得るのに重要な役割を果したのではなかったか。


小冊子ではあるが当時出版物の貴重さは計り知れないものであったことだろう。印刷社は東京日本橋の吾妻健三郎。実はこの人物、米沢の出身だった。安政3年の生れなので元貞の一級上。全国とび回る元貞とどこかで出会い、肝胆相照らすことがあったのではなかったか。そう思うとゾクゾクッとしてうれしくなる。


もうひとつ最後に付け加えると、『おみきばばちゃの夜噺』のおみきばばちゃこと佐々木みきは、元貞の3歳下の妹。この本の著者でおみきばばちゃの孫田島房子は田島賢亮先生の最初の教え子にして生涯を共にした奥さんです。実は南陽の語り部多勢久美子さん得意のお話に「むかさり」がありますが、その出典は『おみきばばちゃの夜噺』です。多勢さんが南陽を離れて島根の大根島に行ってしまう直前、青苧工房で南陽の人として最後に語っていただいた時、このことを知って驚きました。そのことを思い起こしながら、お姑さんを感心させた民話「むかさり」の嫁さんの和歌で最後を締めました。


   *   *   *   *   *


おわりに

 明治221889)年から401907)年まで4期半19年間にわたり宮内町長を務め、近代宮内の礎を築いた佐野元貞(安政41858)年〜大正41815)年)を忘れてはならない!


「佐野家は代々宮内にあって蓮蔵院として修験道の立場から熊野宮を支えてきました。『蚕業示要』(国会図書館蔵 明治21年)の著もある佐野元貞は、明治二十二(1889)年三十二歳で宮内町初代町長となり宮内製糸業隆盛の基礎をつくりました。」(「『北条郷』の由来」 宮内よもやま歴史絵巻)

養蚕講習所.jpg

『山形縣紳士鑑』有泉龜二郎編 明33

佐野元貞町長 中里校長 小サイズ.jpg《佐野元貞君:君は安政四年五月二十五日を以て生る東置賜郡宮内町なり祖先は佐野源左衛門の弟源右衛門に出づ源右衛門北條時政の妾腹相模坊に従ひ當地に来り蓮蔵院の住職たり爾来幾多の変遷を経て君に至る君幼にして父を失ひ母の為めに人となり米沢藩士西山乾三郎に従ひ修學するもの多年一朝意を決し東都に上り身を官途に奉せんとどす機已に熟す然れ共母堂の病気に會ひ帰郷の止むなきに至り爾来身を蚕業に致し明治二十一年行李を整へ福島、群馬、長野等の蚕業地を巡回し路を転じて東都に出で西ヶ原蚕業試験場の実況を視察し蚕業示要なる冊子を著し一千余部を印刷し以て地方同業者に帆布頒つ明治十九年東置賜郡蚕業組合の組織成るや組長に挙げられ経営拮据地方公益の増進を企画し又邸内に養蚕伝習所を建設し教師を聘し大に旧来飼育の改良を計る明治二十二年君又た意を教育に注ぎ有志者を勧誘し救育義会なるものを組織し以て貧民子弟の學令に達したる者の資金を拠出し就學せしむるの方法を設く為めに世の信任倍々加はり二十二年地方制度の改正と共に町長に挙げるる哉君鋭意済生利民の道を講じ町民の貯蓄心を養成し又郵便局米沢区裁判所出張所、町役場等を新築し学校を増築し治水堤防を新設し二十七八年の役戦死者の招魂碑を建設するの挙あるや町内を勧誘し一千数百圓の義財を寄附せしめたるが如き・・・》


蚕業示要.jpg『蠶業示要』(印刷者:吾妻健三郎 明治21年)

《終リニ臨ミテ尚一言ノ呈スベキ者アリ鷹山公始メテ蠶行ヲ我郷ニ創始セラレシヨリ爾来今日ノ隆盛ヲ致セル所以ノ者ハ實ニ我郷ノ為ニ嘉賞スベキノ事ナレドモ斯業ノ隆盛ハ独リ我郷ニ止マラズ全国ヲ挙テ之ニ従事セザルノ地ナキニ至レリ夫レ物ノ価タルヤ需用ノ減少モ供給ノ増加モ共ニ下落ヲ免レザル者トス然レバ則チ吾人ハ勉メテ飼養法ヲ研究シテ以テ繭ノ原価ヲ低廉ニゼザルベカラズ又製糸ヲ精良ニシテ以テ需用ノ増加ヲ謀ラザルベカラズ今日ハ實ニ競争ノ戦場ニ在ル者ナリ先鞭ヲ揮ヒテ一歩モ輸却スベカラズ希クハ諸君従来ノ旧套ヲ脱却シテ斯ノ新法ヲ試ミラレンコトヲ不肖切望ノ至リニ堪ヘズ》

吾妻健三郎18561912 明治時代の印刷技術者。安政3年生まれ。東京にでて,明治14年ごろ石版による3色印刷を開発。神田に東陽堂を設立し,22年わが国最初の月刊画報風俗画報を創刊した。大正元年1026日死去。57歳。出羽(でわ)米沢(山形県)出身。

 

「雪降りて印の松も見えざればわが古里はいづこなるらん(雪降りて印の糞の見えざればわが焼米はいづこなるらん)」(「むかさり」)でよく知られる『おみきばばちゃの夜噺』田島房子著 昭和63年)の佐々木みきは佐野元貞の3歳下の妹。その孫房子は田島賢亮の妻。

(つづく)



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