「流れる雲よ」を観にいこう! [地元のこと]
9月1日に演劇集団アトリエエッジによる音楽劇「流れる雲よ」がシェルターなんようホールで上演されます。南陽市市制施行50周年記念事業、第14回南陽市非核「平和の夕べ」として。午後2時からと7時からの2回公演で、昼の部は6年生以上の市内小中学生全員約1300名無料、夜の部は一般で前売り券1,000円(当日1,500円)。全館自由席。南陽市以外の会場では5,000円〜6,000円。それが1,000円で観れるのだから、それだけでも絶対おすすめ。テレビやラジオでもCMが流れているが、いまのところいまいち盛り上がりに欠けるようだ。5月30日に南陽市非核平和都市推進会議というのが開催され、そこに南陽市青少年育成市民会議会長として出席して幹事になっている。その責任があるので、いささかなりとも宣伝になればと記事にしておきます。
当日配布の資料を引っ張り出してみました。
「宮内小唄」の音源発見! [地元のこと]
宮内盆踊り大会 [地元のこと]
昨晩は盆踊り大会。8月に入って天候がパリッとしない今年の夏。この日も朝から曇り空で太陽が顔を出すことはなかった。一時小雨がちらつくこともあったが本降りにはならず、踊るには暑くなくていいコンディション。
29年度盆踊り予算687,221円のうち、地区で集めた地域振興費(1,050円×2,172戸= 2,280,600円)から盆踊り協力金として62万円を拠出。地区長会長が実行委員長の形。実質の運営は熊野若連が主体の宮内青年会(横山力也会長)。運営主体は変遷があり、30数年前は宮内商工会青年部会が仕切っていて、実行委員長を務めたこともある。当時は熊野の森の下、宮内小学校グラウンドで、15.16日ニ日間の開催。時間無制限で一晩中踊り明かそうという勢いで始めたら、10時ぐらいに歌い手さんから「参った」と言われてそこで終った。盆踊りに新しい風を、ということでジャズダンスグループに呼びかけて踊りを今風にアレンジしてもらったりもした。そのジャズダンスの中心メンバーが、20歳になったかならない丹波恵子さんだった。あの頃はいろんなグループが繰り出して町中人でごったがえしたものだった。粡町では藤屋菓子店(現アリス)が氷水のお客さんでにぎわった。もう遠い思い出だ。
6年1組からの感想文へのお礼状 [地元のこと]
6年1組のみなさんへ
きれいでていねいで心のこもった感想、ほんとうにありがとう。お礼が遅くなってしまい、大変もうしわけありません。いただいた私の方も、みんなに負けないようにじっくり書かねばと思っているうちに日が過ぎてしまいました。
淀野校長先生から「昔の宮内のことなどを6年生に話して下さい」と頼まれてから、何をどう話そうかと、あれこれ考えるのは楽しいことでした。しかし、あれもこれもといろいろいっぱい出てきて、整理のつかないままに当日を迎えてしまい、みんなにどう伝わっただろうか心配でした。でも、みんなが書いてくれた感想を読んで、みんなそれぞれ自分なりに受けとめてくれていて安心しました。
みんなの感想を集計して、どんなところにいちばん関心を持ってくれたのか順に並べてみると次のようになりました。
照明寺秘仏御開帳(50年に一度) [地元のこと]
宮内小創立145周年記念行事「鍾秀学」講師を務めました [地元のこと]
仙台の翌日、6月5日が宮内小学校創立145周年記念行事。記念式典の後、地域の宮内小出身者12名が全12クラスの道徳授業の講師を務める「鍾秀学」の企画があり、その講師の任を負う。そもそも新任の淀野校長、前任の梨郷小時代、そこでの活動を論文にして第32回東書教育賞入賞論文小学校の部最優秀賞獲得の強者、今春宮内小に来て最初の企画がこれ、早速乗せられた次第。
宮内小学校は明治5年の学制発布と同時にスタートした学校で、「鍾秀学校」の名をもつ。「鍾秀」とは「秀でる者を鍾(あつ)める」の意。「鍾」は「鍾馗(しょうき)さま」「鍾乳洞」の「鍾」で、元来は中国漢代の青銅製酒器であることと、このたび校長が調べてくれた。
授業の内容、あれこれ頭の中では思いめぐらしてはいたが、資料作成は前日仙台から戻ってから。翌朝早く起き出して完成したのは朝8時を過ぎていた。
正味30分ぐらいしかないのだからもっともっと絞って組み立てればよかったのだが、あれもこれもで結局行き当たりばったり、子どもたちどう受けとめてくれたか。感想の作文を書いてくれるとのことで、楽しみ半分、心配半分。思い出すままにメモっておきます。(つづく)
双松バラ園開園式 [地元のこと]
400年くすぶる課題解決(遺恨解消)に向けて [地元のこと]
宮内の根底にくすぶる歴史問題がある。安部右馬助による嵐田左近闇討ち事件である。遡ることほぼ400年前の出来事が今も尾を引いている。
慶長3年(1598)、この地を直江山城守兼続が治めることとなり、直江に近い(母の実家)尾崎重誉が熊野の森の北、宮沢城に入る。どういう事情か、尾崎は半年そこそこで福島に去る。しかしその家臣の幾人かはこの地に関わりつづけ、現在の宮内の基礎を造ったのが嵐田左近であり、安部右馬助である。それまでは宮内の中心は熊野の森の背後、宮澤城のある今の菖蒲沢だった。信州飯山から移った、信玄謙信の流れを汲んで土木に長けた一統は、吉野川の水に着目、金山に堰を築き宮内の町に水を流し込み、その先に田地を開いた。近代になって宮内は製糸の町として稀に見る隆盛を誇る。その名残りが100年の歴史を重ねた菊まつりだ。
しかしどうもすっきりしない、何か事あると表面化する影がある。それがこの闇討ち事件だ。熊野大社太々神楽奉奏100周年に向けた動きの中での協賛金集め、その中でまた浮上した。いつか解決したいとずーっと思っていた。この際押し込めずに出してしまった方がいい。そういう思いで、「宮内文化史資料」第8集から「嵐田口伝記 全」をがんばって読み込んだ。薄れかかっているガリ版文字だが、89歳という嵐田源作翁の思いが伝わって一気にできた。ここからどんな展開が待っているかわからないが、400年来の課題解決に向けた第一歩でありたい。
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「東の麓」新藤製造部長の話 2.純米酒とアルコール添加酒 [地元のこと]
2.純米酒とアルコール添加酒
日本酒についていささか関心を持つようになったのは、高畠町夏刈の紅一点酒造の長谷川平内さんとの付き合いからだった。30数年前にさかのぼる。
長谷川家の歴史は古く伊達、長井の時代からこの地に在ったという。平内さんは昭和3年生れ。若くして父親を亡くし、女傑と言われた母親とともに戦後の酒造界を生き抜いてきていた。仙台国税局長だった黒金泰美の政界進出に大きな力になったのが平内さんの母親だったと聞く。黒金代議士は衆議院議員を9期務め、第二次池田内閣の官房長官として入閣を果すが、吹原産業事件に絡んで大成には至らなかった。
この事件に題材をとった梶山季之の小説『一匹狼の唄』(1967)、平内さんもモデルのひとりとして描かれている。同じくこの事件がテーマの映画『金環触』(1975)では仲代達矢が黒金泰美を演じている。昭和20年から40年代、置賜の保守政界は黒金泰美(1910-1986/議員歴1952-1976)と木村武雄(1902-1983/戦後議員歴1952-1983)の両代議士が激しく勢力を争っていた。事件が大きく取り上げられた背景にはその争いがあったのかもしれない。
私たちが平内さんと出会った時には母親はすでに亡く、政治の世界からも離れて、酒造りの傍ら家族とともに屋敷を解放して「政宗そば」の看板を上げ、こだわりの手打ちそばで結構繁盛していた。商工会青年部の仕事で菊まつりのポスターを貼ってもらうべく訪ねたのがきっかけで、その後われわれ仲間との交流が深まることになる。神道天行居を知ったのも平内さんによってだった。
酒造りには先ずコメを買うための資金力が必要なのだが、平内さんには当時資本力も信用力もない中での、傍目にも大変なやりくり経営だった。そんな中で編み出していたのが、お客様からコメ代金と称して前もって金を集める方法だった。なんと言っても「純米酒」が売りだった。一時期東京で「紅一点」という居酒屋を開いていたこともある。奥さんは結婚前は「主婦の友」だったか「主婦と生活」だったかの雑誌記者で、その時の出会いか。幅広い交遊があった。すぐそばの資福寺跡の縁で伊達藩士会の一員だった。神道天行居のつながりもあった。全国に「紅一点」のファンがいた。
当時は「純米酒」がまだ珍しい時代だった。平内さんは醸造用アルコール添加を酒造りの邪道として批判した。「純米酒ではいくら飲んでも悪酔いは決してしない」ということで、われわれ仲間4、5人で平内さんに泊まり込んで身体を張っての実験、確かめさせてもらったこともあった。たしかにみんな、いい気持ちの目覚めだった。そういうことで私はずっと「純米酒」信奉者だったのだが、このたび新藤部長からはじめて「醸造用アルコール添加」の意義を聞くことができた。
「東の麓」新藤製造部長の話 1.「山形清酒」GI指定 [地元のこと]
身近かに自信を持って薦められる酒があるのはうれしく誇らしい。記憶の中に南陽市内5つはあった酒蔵も、今ではひとつだけの「東の麓」。その酒蔵を見学、そのあと席をすぐそばの老舗割烹長門屋さんに移して、新藤栄一製造部長の講義を聴きながらじっくり日本酒を味わう宮内公民館主催の「日本酒と食の講座」。今年で第五回というがはじめての参加。公民館運営委員長ということでの数合わせ的参加だったのだが、たしかにこれは一度参加すればやみつきになる。参加者22名(ほかに公民館3名と新藤部長)同士のいい気持ちになっての交流も楽しかった。初めての出会いも久しぶりの出会いもあった。
長門屋さんに移っての新藤部長の話をメモしてきたのでまとめておきます。
1.山形県産の清酒がGI指定なったこと
初めて聞いた「GI(ジーアイ)」という言葉。Geographical Indication(地理的表示)の略で、「地域で育まれた伝統と特性を有する農林水産物食品のうち、品質等の特性が産地と結び付いており、その結び付きを特定できるような名称(地理的表示)が付されているものについて、その地理的表示を知的財産として保護し、もって、生産業者の利益の増進と需要者の信頼の保護を図ることを目的」とする「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)があって、日本独自のGIマークと清酒「山形」のオリジナルのGIロゴマークによってブランドイメージが高まることになるという。「山形清酒」が「ボルドーワイン」「シャンパン(シャンパーニュ地方で生産されるスパークリングワイン)」的地位を目指す第一歩を踏み出したということらしいからすごい。