キャロライン・ケネディ大使から「「伝国の辞」碑に刻むメッセージが届きました! [上杉鷹山]
キャロライン・ケネディ大使から「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」に宛てて「伝国の辞」碑に刻むメッセージが届きました。
“Ask not what your country can do for you -
Ask what you can do for your country”
President John F. Kennedy,
An admirer of Uesugi Youzan
Caroline Kennedy
U.S. Ambassador to Japan
この文面を刻んで下さいとの連絡が昨日入ったのです。
“Ask not what your country can do for you -
Ask what you can do for your country”
このフレーズは、ケネディ大統領就任演説の中の有名な言葉です。「国家があなたのために何をするかではなく、あなたが国家のために何ができるかを問いたまえ」とウィキペディアにはありました。
admirer は、「称賛者」「賛美者」さらには「ファン」という感じです。
まさに、「上杉鷹山の称賛者であったジョン・F・ケネディ大統領」とのお墨付きを、娘さんであるキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使からいただいたということです。
「伝国の辞」碑は、予定を超える金額が集まったことから、「伝国の辞」碑建立の趣意を記した副碑も建てることになっています。ケネディ大使のメッセージは副碑に刻まれます。副碑の碑文は次の通りです。われわれ一同、練りに練ってつくりあげた一同の思いを込めた文章です。
「肝心部分を削ぎ落としてしまうマスコミ」を体験させられた [上杉鷹山]
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ケネディ大統領が上杉鷹山公について言及したことについての検証 [上杉鷹山]
ケネディ大使「早いうちに山形へ行きたい」 [上杉鷹山]
上杉v.s最上の確執を越えて [上杉鷹山]
前回のケネディ大使に第二信「鷹山公『伝国の辞』除幕式にぜひお出で下さい」 で、白鷹山に「伝国の辞」碑をつくることの意義のひとつに、上杉藩(上杉景勝・直江兼続)と最上藩(最上義光)、現在の置賜と村山との確執を越えることがあったことに触れました。ここでいつか紹介しておかねばならないと思っていた文章を思い出しました。南陽市大橋在住の郷土史家、古老丹野虎次郎(こじろう)さんが書かれた「私の、、、天地人」という文章です。長い文章なので、まず説明要約です。
直江兼続と江口光清(あききよ)は互いに尊敬しあう友だった
慶長五年九月十三日、江口五兵衛光清の守る最上領最前線畑谷城を圧倒的軍勢をもって攻め落とした直江兼続指揮する上杉軍。しかし上杉領であったはずの南陽市小滝地区に今も光清の子孫が住み、四百年にわたって光清の墓が大切に守られている、いったいこれはなぜなのか。その理由を南陽市大橋の丹野虎次郎さんが「私の、、、天地人」というお話にまとめられました。以下はその要約です。
「兼続も光清も共にすぐれた文人でもありました。二人は京でしばしば親しく交わり、酒を酌み交わしつつ風雅のことから天下の為政まで談論風発、互いに深く畏敬しあう仲だったのです。その二人が互いに敵として相まみえざるを得なくなった時、兼続はなんとか和の道を求めたのですが、光清はそれを潔しとはせず「ただ尽忠の一に帰す」と返書したのです。兼続はそれに応えるに、己れの兵力の全力を傾けることこそが武人光清を遇するの道と、容赦なき攻撃によって畑谷の城を落としたのでした。
光清は戦いに先立ち、女、子供たちに『畑谷は男だけの山、女子供の死んではならぬところぞ』と言い含めて畑谷から去らせました。その時そっと奥方に『直江殿を頼め』と言ったのです。そうして逃げてようやく辿り着いたのが虚空蔵山の先、小滝の集落だったのです。奥方が形見に持っていたのは、京清水坂の土産屋で光清が、どれがいいかと兼続に相談して買い求めた、兼続にも見覚えのある櫛でした。江口の一族は兼続の客分として手厚く遇され、以後ここに居を定め、田畑を開き子々孫々この地を故郷として今に至ったのです。」
以下全文。実に味わいある文章です。ゆっくりした気持ちでお読み下さい。
ケネディ大使に第二信「鷹山公『伝国の辞』除幕式にぜひお出で下さい」 [上杉鷹山]
ケネディ大使招聘に向けて、山形県と米沢市、それに山形市までもがタッグを組んでの具体的な動きが出てきました。12月13日読売新聞が詳しく紹介しています。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20131212-OYT8T01373.htm
キャロライン・ケネディ駐日米大使が「父(ジョン・F・ケネディ元大統領)は上杉鷹山を尊敬していた」と発言したことを受け、県を挙げてケネディ氏を本県に招待しようという動きが本格化している。12日には県と米沢市の代表者が、知事と市長名の招請状を在日米大使館(東京・赤坂)に届けた。鷹山のおひざ元の同市では、市と経済界が連携し、準備を進めていくことを確認した。大使館を訪問したのは、県経済交流課国際室の島貫誠室長と米沢観光物産協会の小島弥左衛門会長。招請状は知事と米沢、山形各市長名の3通で、コリン・ファースト1等書記官に手渡した。同室によると、書記官からは「招請状は大使に手渡す。今後、交流を深めていきましょう」との趣旨の発言があったという。
招請状で吉村知事は「大使が講演で上杉鷹山をご紹介いただいたことで、県民は大きな喜びと感動をいただきました」と謝辞を伝えた上で、「ケネディ大統領が派遣したライシャワー元駐日米大使が、本県のことを自然と人間が健全なバランスを取っている『もう一つの日本』と称賛してくださいました」と本県との縁を強調した。
また、ケネディ氏が女性として初の駐日米大使であることに触れ、「私も東北地方で初、全国で3番目の女性知事として、女性の地位向上に高い関心があります」とアピールした。
県国際室によると、ライシャワー氏の訪問を記念した石碑が山形市山寺にあることから、同市も招請状を出すことになったという。
米沢市は、安部三十郎市長が先月25日の記者会見で、ケネディ元大統領が尊敬する日本人として鷹山を挙げていたという言い伝えがあることを理由に、いち早くケネディ大使を招く意向を表明。その直後の27日に、元大統領が鷹山を尊敬していたとするケネディ氏の発言が飛び込んできた。
「市民が尊敬する鷹山を公の場でお話いただき、大変うれしく思います。鷹山が治めた地・米沢への来訪に期待が膨らんでいます」と呼びかける内容の招請状には、鷹山の肖像をかたどった金属製のしおりも添えられた。市の担当者は「大使が常に身近に置いて、米沢に思いをはせてもらえれば」と願いを込める。
市は12日、米沢商工会議所と米沢観光物産協会の代表者と協議し、招請活動に向けて連携を強化していくことを確認。大使側の返事を待って、歓迎行事の準備などを具体化させるとしている。安部市長は「大使の発言で、言い伝えが本当だと分かって良かった。実現に向けて、やれることは全部やっていきたい」と意気込みを語った。
ケネディ大統領は上杉鷹山公を知っていたか [上杉鷹山]
私自身「都市伝説」説にすっかり呑み込まれていて、齊藤喜一会長の執拗な調査に対してもいささか斜に構えて聞いていたのだけれども、ここに来てあらためて齊藤会長の調査の経緯をたどっておかねばならないと思うようになった。ただ、「都市伝説」説の発信源が米沢であるとするならば、その根底には「われわれの鷹山公が名君であったことは確かなことにしても、ケネディ大統領が『いちばん尊敬する政治家』なんて言うはずもない。」というよく言えば謙虚あるいは遠慮深さ、要するに自己卑下の気持ちがあったということは、私自身を省みても否定できない。さらにその背景には、この地域は戦後の経済成長の波に必ずしも乗り切れない地域だったというマイナー意識があったかもしれない。
ケネディ大使のスピーチ原文 [上杉鷹山]
ケネディ大使発言に「霧晴れた」沸く米沢(山形新聞) [上杉鷹山]
米沢では「ケネディ大統領が鷹山公を尊敬していたというのは都市伝説」説がすっかり定着していた。そもそもは、高野実さんが抱いた疑義に始まったと思われる。米沢で発行された雑誌に発表されたと聞く。昨年3月に高野さんが火種塾で語られた際の米沢日報記事があった。http://www.yonezawa-np.jp/html/news/2012/201203092.html
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ケネディと鷹山のエピソードは本当?
鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衞門会長)主催の第111回火種塾が4日、我妻榮記念館で行われ、髙野実氏が「ケネディは鷹山公を尊敬していると言ったか?」をテーマに講話した。 髙野氏は「鷹山公とケネディ大統領との関係が過去から現在まで色々取りざたされているが、その根拠について長らく疑問を持っていた」と述べ、これまでの調査を紹介した。 ケネディ大統領が日本人記者団と会見して、尊敬する日本人は誰かと質問された際、即座に「それは上杉鷹山です」と答えたという点について、高野氏は「昭和36年〜38年の『毎日新聞』縮刷版で通覧したが、会見を匂わす記事は見つからなかった」と述べた。また、「鷹山公とケネディ大統領のエピソード」の出所として、昭和41年(1966)、米沢市が発行した「米沢風土記」に記載されたのが初めてで、後に何らかの指摘があり「鷹山公とケネディ大統領を結びつける根拠が薄い」とし、「この文章を割愛されたが、時すでに遅く、エピソードが一人歩きしたのではないか」と述べた。 新渡戸稲造が著した『武士道』には、本文に鷹山公のについて書かれてあり、前書きで「自分の書がルーズベルト大統領が読み、かつ友人に間に配ったと聞いた」とあることから、鷹山公とアメリカ大統領がここで結びつき、さらに「米沢風土記」が発刊された当時、大人気だったケネディの名前に擦り変わったのではないかと結論づけた。
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ケネディ大使「父は上杉鷹山を称賛」 [上杉鷹山]
まだ朝飯前のところに、齊藤喜一さん(白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会々長)が「山新見たか!?」と言って飛び込んできた。「山辺の樋口和男さん(白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会副会長)から電話が来た」と言う。山新を開けて驚いた。開けてすぐの第3面に「父は上杉鷹山を称賛」の記事。
実はケネディ大統領が凶弾に倒れて50周年の11月22日を期して、アメリカ大使館のケネディ大使に宛て、来年5月13日の「伝国の辞」碑除幕式にお出でいただくことを検討していただけないかの手紙を、諸資料、ラ・フランスと共に送ったところだった。資料としては、これまでの会発行のチラシの他、内村鑑三の「代表的日本人」、新渡戸稲造の「武士道」のそれぞれ英語版、その他「上杉鷹山に学ぶ 財政破綻を救う感動改革!!」からのコピー、上床訓弘氏の「上杉鷹山は これまで、どのように 評価されてきたか?」等。
キャロライン・ケネディさんが日本大使に決まりそうだと言う話が出始めた頃、齊藤会長が「除幕式に来てもらおう」と言い出した。ケネディ大統領が鷹山公を尊敬していると語ったという話は、その確認がとれなくてどうもあれは都市伝説ということに米沢でも収まりかけているのを知っている私はちょっと尻込みしてしまった。しかし、かりに都市伝説であったにしても、キャロラインさんに上杉鷹山公のゆえに置賜に来ていただければ、それはそれ、お出でいただいた事実は確かな事実として後世に残る。何より鷹山公精神を世界に発信しようという碑建立の志にとって、この上ないチャンスかもしれない、と数日後思い直して会長の提案に乗ったのだった。その後、役員会の了承を得て大使の着任を待った。
会長が手紙の下書きを持って来たのが20日。なんとか22日に出したいと言う。もとより英文で書くことなど不可能なわけで、日本語の手紙を22日に送ることができた。そして今朝の記事。手紙を読んでいただいた結果? 会長舞い上がるのもむべなるかな。
以下、ケネディ大使への手紙。
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