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上杉v.s最上の確執を越えて [上杉鷹山]

前回のケネディ大使に第二信「鷹山公『伝国の辞』除幕式にぜひお出で下さい」 で、白鷹山に「伝国の辞」碑をつくることの意義のひとつに、上杉藩(上杉景勝・直江兼続)と最上藩(最上義光)、現在の置賜と村山との確執を越えることがあったことに触れました。ここでいつか紹介しておかねばならないと思っていた文章を思い出しました。南陽市大橋在住の郷土史家、古老丹野虎次郎(こじろう)さんが書かれた「私の、、、天地人」という文章です。長い文章なので、まず説明要約です。


畑谷城.jpg

 

直江兼続と江口光清(あききよ)は互いに尊敬しあう友だった


慶長五年九月十三日、江口五兵衛光清の守る最上領最前線畑谷城を圧倒的軍勢をもって攻め落とした直江兼続指揮する上杉軍。しかし上杉領であったはずの南陽市小滝地区に今も光清の子孫が住み、四百年にわたって光清の墓が大切に守られている、いったいこれはなぜなのか。その理由を南陽市大橋の丹野虎次郎さんが「私の、、、天地人」というお話にまとめられました。以下はその要約です。

「兼続も光清も共にすぐれた文人でもありました。二人は京でしばしば親しく交わり、酒を酌み交わしつつ風雅のことから天下の為政まで談論風発、互いに深く畏敬しあう仲だったのです。その二人が互いに敵として相まみえざるを得なくなった時、兼続はなんとか和の道を求めたのですが、光清はそれを潔しとはせず「ただ尽忠の一に帰す」と返書したのです。兼続はそれに応えるに、己れの兵力の全力を傾けることこそが武人光清を遇するの道と、容赦なき攻撃によって畑谷の城を落としたのでした。

光清は戦いに先立ち、女、子供たちに『畑谷は男だけの山、女子供の死んではならぬところぞ』と言い含めて畑谷から去らせました。その時そっと奥方に『直江殿を頼め』と言ったのです。そうして逃げてようやく辿り着いたのが虚空蔵山の先、小滝の集落だったのです。奥方が形見に持っていたのは、京清水坂の土産屋で光清が、どれがいいかと兼続に相談して買い求めた、兼続にも見覚えのある櫛でした。江口の一族は兼続の客分として手厚く遇され、以後ここに居を定め、田畑を開き子々孫々この地を故郷として今に至ったのです。」

 

以下全文。実に味わいある文章です。ゆっくりした気持ちでお読み下さい。


畑谷城説明.jpg

私の、、、、、天地人(直江兼続公と江口光清公の友情物語―南陽市小滝江口家の起り)

平成二十一年十月二十五日 南陽市大橋  丹野 虎次郎


 豊臣秀吉の天下統一が成り、ようやく乱世が糺されて太平の秩序が立てられ、万民豊楽の希いに花開く桃山時代を迎えた。が、しかしそれも束の間にして豊太閤が薨ずるや、次代の覇者を目論む徳川家康の暗躍し跳梁するところとなるや、決然として膺懲(こらしめ)の剣の鞘を払ったのは、石田治部少輔三成であったし、大弼上杉景勝とその宰相直江與六兼続であった。


 これまで会津の国主であった上杉景勝が豊太閤により会津の黒川城(後に会津若松城と改む)に、秩百二十万石に補せられた。また景勝公に幼きより近習として仕えた樋口與六兼続、後に直江山城守兼続、置賜三郡と庄内の肥沃の地十五万石に補せられ、奥羽と関東の鎮めの軸石として据えられた。また豊太閤よりは豊臣の姓を賜る、まさに天下に並ぶなき栄誉を受けたのであった。公は米沢城(松ヶ岬城とも云う)を本拠とした。


 山形城主最上義光は、関白太政大臣秀次の侍従の任にあるも忠誠に及ばず、愛娘駒姫を己が立身のための贄とした廉によりの嫌疑事件に端を発して家康の策謀に乗ぜられ加担して、上杉氏の背後を脅かす体制を固め、また北の関が原の戦いの對手となり上杉を牽制した。


 伊達氏政宗は、豊太閤が最後の平定と位置付けた小田原北条氏征伐の威令を無視し参陣に遅れること三度、矢の如き督促を無視して応ぜず、太閤が怒りに触れて一物も持たせず、陸前に追放の如き移封を処置された。伊達氏もまた関白秀次公の侍従に任ぜられたが、最上氏伊達氏両者とも重任に忠誠をもって補佐すべきところ、疎んじて放埓の恣に任せて関白を以って自壊に至らしめ、史上に豊臣氏の汚名を残す一因を厳しく問われたものである。後年、北の関が原と呼ばれる出羽最上合戦では、最上氏とは篤い縁故の間柄にも拘らず、義理の加勢はここまでと、ここより先はそろばん次第、つねに最上軍の後ろに廻って、挟撃の隙と弱みをうかがう姿勢であったと語られる。


 江口五兵衛光清公は、これまで山形城の西南西六キロほどの富神山の北の麓の柏倉門傳村長岡に、城森なる城塁の将として任じられていたが、上杉氏と最上氏との間がただならぬ関係に置かれてから、俄かに作谷沢村の山あい、最上領の西の関門であり最上四十八館の第一等に挙げられるべき城塁である畑谷の城将に任ぜられたのであった。


 かつて光清は君公と共に京、大阪への途次、遠近の名城堅塁を訪ねたものであった。それが今日、自からが奉行を仰せつかって指揮して畑谷城の大改修に取り掛かり、山を崩して谷を閉じ、水を湛えて湖上に浮かぶ要塞の如くとなし、また濠を深くし塁を高くし更に重厚となし、空濠を幾重にも巡らし、逆茂木を立て銃火の列を幾重にも敷き並べ、まさに鉄壁の陣容となした。


 京に於いては、故郷を等しくする兼続と光清とは、ここ三年ばかりの間に四~五回顔を合わせ言葉を交わし、二度は互いに主人なしで伏見の街に酒杯を酌み交わした。彼は飲むほどに酔うほどに柔和な詩人となり、よく魏徴(唐の政治家)の述懐魏徴が、唐王朝の臣下としてまだ日が浅い時に、高祖李淵が自分を信用してくれて、大任を任せてくれた事に感激した、と言う時の気持ちを述懐した詩)を口ずさんだ。何時もは黙すること多く、控えてむしろ耀く文人であった。そしてまた風雅のこと漢学のこと、また武人の道に分け入り、また謙信公が深く帰依された毘沙門天が憤怒の仁愛を語り、また壮大な天下の為政を熱く語る二人は、また遠く家郷にある妻子の日々を気遣う優しい武将でもあった。斯くして二人は互いに畏敬しあう間柄であり見知りの仲であった。


 豊太閤によりまた景勝公より宰相の権を預かる兼続のもとへは、ひきもきらず天下の事、隣国の事、宇内の事、米大豆小豆野菜などの豊凶の事、牛馬の飼養や教調と共に数の増減(火薬を造る、硝石の採取に関係)、火災水災の事、百姓町人の事、手工業の事などあらゆる情報が民の政治の要である兼続のもとへ集約される。特に国の興亡にかかわる軍事には敏感に対応の策を講じなければ成らない。こんにち末期としながらも未だ戦国である。最近最上領中に城館の改修普請が進められている由の報告を聞く。しかしわが方においては既に最上領境の中山城、小滝城、荒砥城、鮎貝城と付城まで軍兵、兵糧、弓筅 、鉄砲、弾薬、医薬その他に至るまで配備し、また山の高みに或いは市中の繁華の中に監視の連鎖を組ませ、乱破者諜者の破壊活動、所謂テロ活動の絶無策をめぐらす。時に慶長五年の春を送り夏を迎えての此のごろ、山中の諸々にマタタビの花か葉かは知らぬがいと涼やかな風情に咲けるをば楽しみて居りしに、兼続のもとへ物見の者の火急の報せにより、江口五兵衛光清殿が門傳村長岡の城を引き払われて本日も数刻前、山形城において百乗の将星居並ぶ中、最上公より畑谷城の城主として任ぜられたの辞を受けられたと報告あり。兼続は愕然余りのことに肩を落とし、呻いた。去る年の十一月近江佐和山城の三成殿からは、来年九月に徳川家康を討ち、豊太閤の定められた天下の秩序を糺して万民豊楽の理想を達成せしめようぞの決意を誓い合ったのであった。そして冬中にかけて諸準備を整え満を持して破邪顕正の進軍を待っていたのである。


 時も来るや、其れは余りにも過酷非情な運命の巡り合いではないか。お互いに畏友として信頼し一度なりとも雌雄を決し生死を分かつなど夢想だにもしなかったことである。兼続はまんじりともせず朝を迎えた。朝を迎えたから心を決するに至ったわけではない。無為を重ねても時だけは刻々と迫ってくる。兼続はどうにか一書を認め光清殿へ送った。和こそ誠の正義なのだと手を携え、一国の和を天下の和を図ろうではないかと。光清殿は利を以って、名誉を以っての釣餌を食らう愚物ではない。彼は凛冽にしてまた温厚に誠に菊花の馥郁たるにも比すべき武将である。よく季布に二諾なく侯贏は一言を重んず(季布はひとたび承諾すれば、信義を貫き、侯贏は自分が言った一言の信義のため、自ら言ったとおりに命を絶った)の詩句を口にしていたものであった。数刻して返書を受け取った。ただ尽忠の一つに帰すと。やはり彼ならでは、兼続は悲しいことだが光清殿のそれを信じ、それを念じて居た。そしてその一言を享け、兼続はこの畑谷の勇者達を遇するの道は、生きて生き恥を、死して死に恥をかかさせてはならぬと、畑谷城兵五百余人まさに当千の強者への餞として、上杉の全軍を傾け攻撃を令した。山という山、谷という谷悉く上杉の人馬埋め尽くした。兼続は、許せよ江口殿、心に叫んで采配を振り下ろした途端、鉄砲が一発天空に轟き、上杉の全軍に総攻撃の号砲がなり渡った。海嘯の押し来る恐れのような鬨の声、万雷裂けて天地を砕くの音、銃火は山を呑み硝煙は山谷を闇にし空を覆う、叫喚の地獄図絵と化すこと数刻、光焔の坩堝の中に、光清殿以下五百余人従容として畑谷の土と化した。


 光清殿の北の方、萩の方をはじめ、この二月に生れたばかりの乳飲み子から七十余歳の年寄りまで妻子眷属十三人を一室に集め、ここの山が戦さ場となることを皆の者に告げた。一刻も速くここを下れと申し渡した。が、一同首を縦にせず、殿とご一緒に戦い死ぬべしと承知せず、子供ながら女ながら勇む姿に、滂沱たる涙止むるなけれども、涙を払い声を荒げて、奴等よっく聞け、この畑谷の山は男だけの山、女子供の死んではならぬところぞ、神を怒らせては成らぬ、なだめてくれ、ここを早う去れ、光清は一語一語を詫びながらきつく申し渡した。そして、皆して虚空蔵山を越えよと、一言贈った。萩の方には、皆の者を無事に無事に連れよと命じ加えて、直江殿を頼め と小さく云った光清殿の最後の一言であった。あれから一同はどこをどう惑いながら歩いたか、木の下闇の中、前途を探り這いづり求め、日中は岩陰に身を寄せて隠れ、夜陰に乗じての逃避行、虚空蔵山の南方に辿り着いた。国の境辺りに来ているのであろうか、一町ほど離れた展望のきく高みに八~九人の番兵が居る様子で、そこを避けて茅野の中を見え隠れに進んだ。あれから三日目の未明であった。夜明けには一刻もあるであろうか、昨夕は中秋の名月であったが、今はその名月さえ西に傾き明かりを落としている。東の山岸が薄紙を剥がすように次第に白味を帯びてくる。見たような形だ。蔵王のお山だろうか。門傳村の長岡での日の出は暑い節には雁戸山から出るが、今頃になると蔵王山の北寄りから日の出する。いま皆んな安堵して新しい日の誕生を待っているのだが、萩の方さまには、此れからどうなる、どうするという前途に、どうして死ななかったのか、偕老の夢は措いても同穴の契り(夫婦はいつまでも一緒に仲よく生き、死んだら同じ墓に葬られるのが理想)とはこの故に誓ったものだったのではないか、悔んでも尽くせない悔しさと羞恥にひしがれていた。もう夜が放たれ、芦萱の茂みの中であったが、微かに流れの音を聞いた。下るに従って確かな水音と成った。よかった、川だ、この流れに従っていけばどこかの村へ着けるだろう、一同浮くような気持ちであった。流れが二度ほど向きを変えて僅かしての間、民家の屋根が見えてきた。二軒、三軒みなで十八、九軒の家数が数えられる。と、途端吾々の近くに潜んででも居たのだろうか。この村の男だろう、一散に駆け出し三軒ほど過ぎた家の軒下にあった丸太棒のような腕木を二度ほど引くと、それが合図の仕組みでもあったのか、あっという間に三~四十人程の男衆がぐるりと私たちを取り囲んだ。手に手に武器になる物を持っている。熊狩り用の槍や刀を持つ者あり、木尻りからすぐさま手にしたバイタを掴んでいる者、鉈や鎌やタッペを武器に持つ者、いわば百姓自衛軍とでも呼称する准武士組織なのだろう、何処から来たのか、何処へ行くのか、誰を訪ねてきたのか、何者か、四方八方からの訊問、何か危険な物を持ちはしないか、危険な繋がりがあるのではないか、兎も角御陣屋さまへ御注進にと足早の若者二人、一人は先ほど村中に出動警報の何かを作動させた若者が御陣屋の方へ駆けて行った。出馬の武士は最上陣の留守を預かる稲場彦右衛門と脇添え役の金山十左衛門。徒歩の武士三十人程のうち十五人は槍組で鉄砲も五丁ほども備えている。ただ事ではない、お方さまをはじめ、か弱い女子衆と子供達と年寄りである。どうなることかと皆わなわなと震えている。先ほどの村の者から訊問されたと同じように訊問をうけ、女子供とはいえ敵の大将の血縁者、しばらく虜囚として厳重な監視の扱い、改めて申すが、殿 倉賀野長左衛門様、最上陣より御帰城をまって沙汰あろうを告げ、この趣きを米沢に注進に及んだ。何か申すことあらば申してみよの声に、お方さまは乳飲み子を付き従う老女に預け低頭して云う、甚だ不調法に御座りますがこの邑はなんという邑にてござりましょうや。ほほーぅ 知らなかったのか、ここは小滝と申すところぞ。小滝村ともうしまするか、ありがとうございますと御礼を申し上げた、そしてようやく生きているんだとの感懐に咽び涙ぐむのであった。


 最上陣の畑谷の城を落としての上杉軍は石火の勢いで長谷堂城を囲んだが、六千余騎の最上勢すこぶる意気高く往く手を阻まれ一進一退を繰り返している内に、濃州関が原において戦う石田三成殿率いる西軍と、徳川家康殿率いる東軍が激突し東軍の徳川家康が勝利し天下の趨勢一夕のうちに逆転した、天下分け目の戦いとも言う。上杉景勝と兼続は即刻最上陣を引き払い米沢に帰城した。逸早く天下の敵となるの愚を回避したすばやい対応であった。帰城後とくに領境の諸陣営に対し兼続は、一層の武備を弛まぬよう訓令し、また厚くねぎらった。小滝陣所においては、畑谷城攻略に直接由来せる者たちの逃避あるいは亡命者の処遇に関わって、山城守兼続特別に謁見を許し聴取、まず何の故を以ってこの小滝に来られたのか、ここが敵地なるを知らなかったのかを問うたところ、ここが敵地なるも小滝の村もつゆとも知らず、ただ今は亡き夫光清から虚空蔵山を越えよとだけ命ぜられて越えてきました。そしてただ、直江公を恃めと申されし一言、最後の言葉となりました、との消入らんばかりの言上、うーむ、そうであったか、気の毒であったと瞑目した。一同の者もはじめて聞かされた光清公の言葉を思い噛みしめ、あらためて直江公の巨大さを知るものでした。


では何か、身の証拠になるようなものあらば出してみよ、すると小滝陣所の留守居役を預かった稲場と金山が、重要なものかは存じませんが此れに預かっておりますと仏像が三体と過去帳二巻、あひる髭文字とかいう、何を書いたのやら判じ物のような一巻あり、また女どもの櫛笄と子供の着替えとおしめが一背負い、糒と味噌と梅干と年寄りの杖ぐらいです、と並べられた物を一瞥し、櫛の一点に目を凝らした。まさにあの時の櫛だ、四年ほど前の十月の末の頃であった、京の産寧坂(清水坂)の土産物屋において、光清公が奥方様への土産にと、ためつすがめつ櫛の品定めに迷われて直江殿ならどれになさいますかと聞かれて、公の右手に成されている物が奥方様に似合いの品なのではと申し上げたが、紛れもなくここにあるのはあの右手に持たれた櫛だ、そして一同は光清公の妻女と眷属と従者であるを確認した。よし相解った、たいへん苦労されたであろうと労った。居並ぶ数多の者どもも皆な目頭をおさえ頬をぬらしていた。兼続公も夕べは一睡もなさらずに思案されたのであろう、そして小滝館の城将倉賀野長左衛門とも諮り、兼続公は以下のように告げた。


  1. 江口殿一族は今後五年の間、この兼続の客分として遇する。

  2. 一族には親や兄弟御先祖が居られ、古里がある。自由な心に従って何時でも帰られて苦しからず。依って間近なこの地 小滝を住み処とするがよい。

  3. 若しここを以ってよしとするならば、一族には小滝村の掟に従い、山を開き畑を開き田を開き、潤いの水を分かち、仲を丸くするを励まれよと諭した。


住居については小滝村の肝煎 村役等によれば、去年より空家になっている一軒家がある由、少し上の方で不便もあろうがという。萩の方さまが皆を代表して、勿体無う御座ります、この様な御温情を賜り有難う御座います、これからは此の小滝の里を子々孫々の故郷にしたいとお答え申し上げ低頭し、一同嗚咽し感涙に咽ぶこと久しのことであった。


あれから幾日か、兼続は松川の岸辺にじっと流れを見ていた。石と石との間を同じ水が流れるのに渦が右に巻いたり左に巻いたり、誰かが見たら当然のこととするかも知れぬが不思議なことである。これが水ごころとでも云うのであろうか。そんな偶にもない思いを持ちえたのも、いささかではあるが、江口公の一族を救うことができたのが嬉しかったのである。吾妻山の上に雲の一つが、すぼみも膨らみもせず秋日和を楽しむように浮いている、が、ふと吾れ、兵の民害たるを見るや深し復た云うに忍びず、兼続はいつかな十八史略の一節に曳かれていた。そして我が身もまた民害となり来たりしを思い、恥じた。


兼続が米沢に来て以来毎年のように松川が氾濫した。それが米沢のはるか上流域で起こるから氾濫の広がりは大きく甚大な被害となって苦しめられてきた。それも秋の穫り入れを急ぐ最中にかかり、きのうまでの豊作の夢を覆し奪われてしまう。百姓の飯など糧ものの方が主で、米が糧ものぐらいな割合でしかなかった食であった。これに戦さという無限大の浪費があったらどうして米沢藩中が生きてゆけるのか、民福を倍してゆくにはなにをどうすれば果たせるか、兼続の一刻も措かぬ思いであった。暫く佇んで水面に注いでいた目を転じ、そして彼は天空に描いた、墨痕も鮮やかに、豊饒の大地と。さらに此れを大地に写さんと立ち上がった。                         (終)

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小滝にある江口光清の墓。「慶長五庚子 長松開基江月秋公大居士 九月十三日」とある。

「法号の長松開基は、畑谷村の長松寺を光清が開基し、法名の江月秋公は、光清の生前の露堂々の全人格と、十三夜の月をあおいで一糸みだれのない最後をあらわし、心にしみいる戒名である。」(「宮内町の文化財」)

白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会監事の小関哲男氏に案内していただいた。


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