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板垣典男(つねお)さんへの弔詞 [弔詞]

板垣典男さん.jpg

思いがけなく弔詞を読むことになりあらためていろんなことを思い出しました。晩年体調を崩されてしまい、ゆっくりお話しする時間がなかったのがほんとうに残念。いろんなところからひっぱりだこで忙しくしているうちに体調を崩された。お元気でおられたら幼稚園だけでなく町のことも一緒にできたと思う。

昭和10年生。享年83歳。明治薬科大学卒で薬剤師の資格を持ち、県職員として主に公害の問題など環境衛生関係の分野で活躍された。退職後は県薬剤師会の副会長も務められた。県職としての経験を活かして会の組織改革に取組まれたと、薬剤師会の現会長の弔詞だった。私の隣りで弔詞を読まれた方が県職の後輩の方で、「バイタリティのある人で職場の野球でピッチャーをつとめ、3試合連投したこともあり『鉄人』と言われていた」とお聞きした。訃報を聞いて伺ったとき、同級生だったという奥さんには「小さいとき身体が弱かったのか、雨が降ったりすると女中さんがいつもむかえにきて大事にされていた。大学時代結核を患ったこともある」と聞いていたので、『鉄人』の称号は意志による克服の結果なのだろう。息子さんも「米沢商業高から薬科大学に進むのは並なことではなかったはず。努力の人だった」と言っておられた。まだまだ元気でいて欲しかった。(今ふと思い出して確認したらやはり、高橋正二先生が明治薬科大学の理事長だった。このことを板垣さんと語ったらきっと話題が広がったはず。一度も話が出なかったのはほんとうに残念)

 

弔 詞

 

 最後にお会いしたのがいつだったか、町で御姿を見かけることもなく、お宅の脇の道を通るたびにどうしておられるだろうかと思っておりましたが、突然の訃報に驚き駆けつけたところでした。
 板垣さんをはじめて知ったのは、退職されて間もない二十年ほど前、商工会の会合での見事な議長役を拝見した時からでした。喜多屋さんの旦那さんで県の保険行政の要職を務めて来られた方と知り、知ったつもりの宮内にもこうした方がおられたことに感じ入ったのを覚えております。その後、遠い親戚筋にあたるということで、酬いのない私の選挙にお手伝いいただいたことも忘れてはおりません。
 平成十四年から平成二十二年まで三期九年間、当時宮内幼稚園の経営主体である学校法人南陽学園の理事を務めていただきました。少子化の中での厳しい運営に加え、園長人事が定まらず混乱の最中の当時の幼稚園でした。そんな中、理事に引っ張り出したのが私でした。お孫さんが通園している縁もあって引き受けていただきました。当時の理事長の次を考えねばならない状況にあり、板垣さんに次を引き受けていただくつもりでした。板垣さんにも暗黙の了解があったはずです。安心しきっていました。それが、クミアイ製薬の工場責任者として常勤で務めねばならなくなったので理事長役は無理と理事会の席で表明された時はほんとうにショックでした。結局私がその任を負うことになり十三年になりますが,板垣さんが理事として居ていただくことがどれだけありがたかったか。


 南陽市の福祉の方から、南陽学園で学童保育をやってもらえないかと願われたことがありました。土地は市で提供するのであとは法人でやってくれというのです。なんとか活路を見出さねばならない時で、闇雲にその話に乗ろうとした時、きっぱり「やめた方がいい」と頭を冷やしてくれたのが板垣さんでした。その後その学童保育は公徳会が担うことになりました。資金力、情報力のある公徳会ならではのその後の展開でした。当時の宮内幼稚園は今、ゼロ歳児から受け入れる宮内認定こども園として新たな道を歩み出しております。あのとき無理に学童保育に突き進んでいたら今どんな形になっていたか、忘れられない板垣さんとの思い出です。
 それから、銀杏の木の下での喜多屋のばあちゃんと寂聴さんの出会いについては、寂聴さんが感動的な文章でくりかえし書いておられますが、私が小田仁二郎と寂聴さんについて書くこともたいへん喜んでいただきました。「宮内よもやま歴史絵巻」作成の折りには、わざわざ家までお出でいただいて貴重な写真を提供して下さいました。
 ある時期宿屋としての喜多屋さんは宮内文化の拠点的役割を果していました。三十数年前、宮内に資料館建設の話が持ち上がったとき、当時の宮内文化を牽引する先輩の方々に、われわれ商工会青年部員が集められた場所が、私にとっては最初で最後、喜多屋さんの座敷でした。お宅におじゃましていい絵などに囲まれてお話をうかがったとき、そうした中で育ち暮らしてこられた板垣さんであることを強く思いました。退職後もお忙しいお仕事の内に病を得られ、その面の板垣さんのお力を見せていただかぬまま旅立たれたことはかえすがえすも残念です。
 とはいえ、いま、厳しさを秘めつつ笑みを含んだ温和なお顔が思いうかびます。そのお顔は、ずっと私どもを守っていただけるように思わせてくれるお顔です。病いから解放され新たな自由を得られているのではないか、そんな風に勝手に思ってしまいます。いつも課題をかかえて歩む宮内こども園、築五十七年の宮内公民館のこれから、お元気でおられたらきっと力になってもらえたのではないか。そんな気がして、新たな世界から、あらためて私どもをお守りお導きいただきたいとお願いして、お別れの言葉といたします。
 ありがとうございました。そしてこれからもなお、どうかよろしくとお願い申し上げつつ、心より御冥福をお祈り申し上げます。


  平成二十九年十月十九日


【注記】小田仁二郎の母親(小田たかさん)と板垣典男さんの祖母が姉妹で、隣りの杵屋本店が実家。宮内駅前の杵屋支店の初代(菅野昭彦さんの祖父)も兄弟。


*   *   *   *   *


瀬戸内晴美「手紙―小田仁二郎の世界」より


 一字一字原稿用紙の桝目に行儀よくいれた清潔な文字を見つめながら、私の目には、原稿用紙が波のように遠ざかり、白い一本の道が見えてきた。道の涯に天を突く銀杏の大木がゆっくり顕ち上り、四方に葉の落ちつくした裸の樹をひろげている。
 それは、小田仁二郎の書く子供の世界によく出てくる故郷宮内の、熊野神社の境内の大銀杏にちがいなかった。九百年に近い生命を保っている老木だという。大樹はそこにのび育ったまま一歩も動かない、ひろげたその枝に来て、たわむれたり憩ったりして、また去っていくのは、鳥や雲や風たちなのだ。訪れるのは気まぐれで、易々と裏切る。来るものは拒まず、去るものは追わず、大樹はいつでも孤独にひっそりと立ちつづけている。
 現実の大銀杏を見たのは、昨年の秋の終りであった。
 山形まではすでに幾度も行きながら、私はまだ宮内へは 立ち寄ったことがなかった。
 米沢に仕事の出来たついでに、今度こそ宮内へ行こうと思った。山形の佐々木さんが、風雨で二時間も遅れた飛行機を、空港で気長にじっと待っていて下さった。

 ・・・・・・・
 二時間たらずでたどりついた宮内の町は、戦火を浴びないだけに、家々も道もしっとりと大地に抱かれているような、やすらかな感じのするたたずまいであった。
 道幅が思ったより広く真直なのは、戦後に整えられたものだろうか。どんよりした重く低く垂れこめた空や、灰色に押しひしがれたような家並を勝手に想像していた私は、余りの明るい空の色と、せいせいと風の吹きぬける広い白い道と、軒毎にどっしりとした構えの足並にとまどっていた。
 東北の熊野、あるいは伊勢といって町民に親しまれている熊野神社の大鳥居の手前の、道の右側に市役所があった。佐々木さんが、この当りが小田家の跡だという市役所の隣地は、家はなく、駐車場になっている。
 そこから真直、熊野神社へ向う。道の左側に小学校があり、運動場が、熊野神社の山につづいていた。生徒が坐って絵を描いていた。              
 小田仁二郎の小学生姿を想像しても、この近代的な校舎にはそぐわない。彼はよく、子供時代の話を私に聞かせた。酔うと、話は子供時代に彼をつれもどすようだった。
 小学校二年の時、好きな女の子の机の中に、メンコにスキデスと書いて入れておいた話、いつでも町の子は絣か縞の木綿の着物なのに、仁二郎は、母の銘仙を直した大きな析の着物を着せられているのが、恥しくてたまらなかったこと、小学校の女の先生に特別に可愛がられて、抱きしめられるのが、息苦しくていやで恥しかったこと、そして、お熊んさまの銀杏の洞の中に入って、途中で引㌧かかってしまったこと、
「くらあくて、こわくて、このまま、死んじまうかと思った」
 鼻柱に穀をつくって、さも怖しそうな表情をしてみせると、端整な顔に突然、童顔がもどってきた。綾取りがうまいのは、女の子ばかりと遊んだせいだといって、ポケットから輪にした毛糸を取り出し、長い細い指を器用に曲げて、私の想像も出来ないような複雑な綾取りをしてみせた。
 石段を上りつめると広い社殿が建ち、結婚式があるらしく、礼装の男女が、忙しそうに右往左往していた。巫女姿の少女の緋の袴と、神官の水色の袴が鮮やかに揺れていた。
広い境内をひとまわりして、本宮、三の宮、神庫、若王子社、皇大神社など、ひしめいている建物を詰って石段を上り、もとの大銀杏の下に来た。何だか幕をさかさにしたよ 乃
ぅな菓の落ちた銀杏は貧弱で、幹も細く、とても九百年近い年月の年輪を刻んでいるとは思えない。問題の洞はないかと廻ってみたが、それらしい跡も見当らない。もしかしたらこの銀杏は、彼の子供時代のものの二代目ではないだろうか。誰かに訊きたいと思った時、鳥居をくぐつてくる土地の人らしい小柄な老婦人を見つけた。声をかけてこの銀杏は七十年も前からのものかと問うと、高砂の媼翁めいた上品な小さな顔を傾けて、
「さあ、わたしはこの土地に嫁入りして来た者だし」
 とつぶやいて、まじまじと私の僧衣姿を見つめていて、
突然、高い声で、もしや瀬戸内さんではという。そうだと答えると、
「いやあ、ま、あんたやっぱり瀬戸内さんでいやったか、わたしは小田仁二郎の親戚のもんだぜ」
 という。テレビで見識っているといって、銀杏の樹の下の茶店の人にも、こんな偶然があるだろうかと、声を高めて話すのであった。
 毎日お熊んさまへ朝詣りするのが日課だけれど、今日にかぎって、雑用が出来たので、今、ちょいと閑をみて駈けつけたところだという。老女はしっかりと私の手をとって離さない。これこそ、お熊んさまのお引きあわせだという。いきなり銀杏の樹の下にあんたが降ってきたか湧いたかしたよう立っているなんてという意味を、おっとりした宮内弁でゆるやかな抑揚で話すのだった。老女は宮内の新町の喜多屋という族館のみつさんという御隠居さんだった。
 私たちが小田さんの邸跡を探しているのだがというと、私の手を振ったまま、気さくに案内してあげるといってくれた。みつ女毎朝のお詣りをかかさないだけあって、足許はしっかりとして身のこなしも軽やかだった。
私たちの想像していた所はまちがいで、市役所を通りすぎ、市役所の塀に沿って左へ曲ると、市役所の裏の敷地が全部、小田邸の跡であった。今の市役所は通りをへだてた向い側にあって、市役所の広大な敷地は、小田病院と、三階建の宮沢という大きな料亭で分けあっていたのだという。病院の門は参道側についていて、屋敷がその背後に建っていたのだそうだ。それでも、今は道路にずい分とられて、これでも敷地が減っているという。大き土蔵も今では他人の棲居になっている。小田仁二郎の文学の板に、幼時の日常の記憶がからまりまつわっていることを思うと、貸ガレージになっている倉も、ただ雑草がおい茂りすがれている屋敷跡も、黒い土も、日にからみついてくるようであった。
 昔の小田家の繁栄は、町でも語り草になるくらいだったと、みつ女は話す。その頃はパンなど宮内では食べる家もかったのに、小田家では食事に早くもパンを用いていたとか。仁二郎の姉の稲子が米沢の医者の許に嫁いだ時の支度は、宮内などでは見られない立派なもので、山形や京都の呉服屋から買い調えたものばかりで、町の人たちほその豪華な支度に目をみはったという。
 みつ女は
 「まあ寄ってごんぜえ、ぜひとも一服あがってごんぜえ」
 と私たちを喜多屋に誘ってくれるのだった。
 喜多屋のある新町は大通りで、目立って大きな商店が並んでいた。喜多屋はその通りの真中にある旧い旅館だった。隣りが杵屋という菓子の老舗で、この町に杵屋は何軒もあるが、新町の杵屋が総本家だという。小田仁二郎の母のたかは、この杵屋の出で、喜多屋の先代へ嫁いだのはたかの叔母だった。
 みつ女の姑が、たかの叔母だから、みつ女の夫の板垣茂左衛門は、たかの従兄だということになる。
「ずいぶん濃い親戚ですね」
 というと
「濃いの何のって」
と、みつ女は相好を崩すのであった。みつ女は米沢から嫁入りしてきたが、稲子とは山形の女学校で同窓だったという。
 喜多屋旅館の奥の客間に通されて、山菜や杏の砂糖漬を茶受けに出され、美味しいお茶の御馳走になる。米沢から走り通して、乾ききっている咽喉に、出されるものすべてが美味しい。みつ女は、茂左衛門が東京の薬専を出た薬剤師なので、薬剤師の奥さんになるつもりで嫁いだら、旅館の女将さんにさせられてびっくりしたと話してくれる。少女のまま、年をとったような素直な人柄が、話す声や表情にいきいき鯵み出していて、ついさっき出逢った人とも思えない。
「私がまちがった家の跡を見て帰りかけたから、小田さんの霊がきっと、おばあちゃんを、お熊んさまの銀杏の樹の下まで呼びよせて下さったんだすよ」
「ん、んそうでいやったけなあ」
 と感じいったようにうなずくので、自分でいった冗談が私にまで本当めいて思えてくる。
 佐々木さんに見送られて、飛行幾に乗りこむ前、私ほ佐々木さんにいった。
「今度、銀山へつれていって下さい」
 銀山の何が、彼に書きたい気持をおこさせたのか。またそこへ、彼の霊がどんな思いがけない形で参加してくるか、私は目に耳に、確めたいという想いにつのられていた。(一九八二年五月二十一日)

(瀬戸内晴美「手紙―小田仁二郎の世界」)


 


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