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大竹正弘さんへの弔詞 [弔詞]

昨日(7日)大竹正弘さんの葬儀で弔詞を読んできた。4月1日、仕事場で倒れていたのに家族が気づき救急車で運んだがだめだったという。最後に会ったのはいつだったか。工場の近くを通る度気になりつつ御無沙汰の数年だった。そのこともあって、報を知って弔詞の決心まで2時間ぐらいを要してそれから弔問に行った。2日のことだ。変わらぬいつもの顔に思えた。奥さんに「弔詞を読ませて下さい」とお願いした。葬儀まで時間があることもあって、いろいろ思い起こすこともあり長くなった。他の誰かと重複するようなところがあったら、端折ろうと思って臨んだが、弔詞奉読者の席に着いたのは私と地区長さんだけだった。私の後、同業組合の理事長さんが出られて原稿なしでの感極まる弔辞を捧げられた。あまり広くない会場だが、廊下まであふれてぎっしりだった。一見地味な人だったが、いかに慕われ信頼されていたかがわかった。40年近く前、お母さんが突然亡くなられた時もそうだったのだが、前日や数日前に会ったばかり、電話で話したばかりという人が、私が直接聞いただけで五指に余る。走りつづけて逝ってしまった。大竹さんにとって、現界と冥界の垣根は案外低かったのかもしれない。式場の最前列で遺影を見つめつつ、ずっとそこに居られるように感じていた。

*   *   *   *   *

弔 詞


 大竹正弘さんの御霊前に謹んで哀悼の言葉を述べさせていただきます。


 ついこの前のことのようにも思えるのに、もう四十年近くも経っています。当時の宮内には、まだ製糸業隆盛の時代以来の賑わいが残っていました。冬は参宮の団体列車が宮内駅に毎日のように入ってきました。夏のお祭りには鳥居の場に見世物小屋が立ちました。近郷近在からの人で通りはびっしりになりました。秋は双松公園の菊まつり会場から流れる音楽がたえず聞こえていました。宮町には市役所がありました。山王山を背にした宮内高校もありました。しかし、昭和四十二年に合併を果し南陽市になって十年、宮内にも将来への翳りが見え始めていました。市役所移転が言われるようになり、相次ぐ大型店進出の問題も切実でした。その頃は、日本経済も低成長の時代になり、全体経済の先行き不透明感もあって「地方の時代」が言われるようになっていました。そんな中での、私たち宮内商工会青年部会の活動の盛り上がりでした。

 昭和五十三年度、いとやさんが部会長でした。活動に一挙に火がついたのはこの年のことでした。途絶えていた十一月三日の仮装行列を「菊と市民のカーニバル」として十四年ぶりに復活させました。昭和五十四年度はヤマチョーさんが部会長でした。「地元で買物キャンペーン」がこの年の目玉でした。大型店の進出でどんどんお客が奪われることへの危機感からでした。夏のお祭りを前にした七月二十一、二十二日、公園で商工業まつりを開催しました。五十店が集って店を出しました。公園の坂道を客を載せて登るトテ馬車も繰り出しました。一年間の活発な活動の総仕上げは、二月に赤湯、和郷の青年部会とともに、南陽市も巻き込んで開催した講演と討論の集い「いかにして『南陽衆』たりうるか」でした。のちに法政大学の学長になられた清成忠男先生はじめ、東京から地域づくりのプロ五名を迎えて中身の濃い議論が行われ、全国に宮内商工会青年部の名を轟かせることになりました。

 昭和五十五年度の部会長としてその跡を継いだのが大竹さんでした。私ははじめて委員長の席をもらい、郷土計画委員長として大竹さんの下ではたらかせていただきました。大竹さんは全国で最も活発な青年部の部会長として京都府商工会連合会に招かれ、ヤマチョーさんと共に講師を務められました。さらに当時の皇太子、今の天皇陛下御臨席のNHK文化ホールで「全国商工連合会長賞」受賞という御褒美も受けて来られました。「いちばんいい時に部長をさせてもらった」とよく語っておられたものでした。大竹さんの人徳です。お母さんが突然亡くなられたのはその頃だったでしょうか。雪の多い冬でした。珍蔵寺の階段をお供えの花や盛籠をかかえて何度も上り下りした記憶がよみがえります。青年部役員あげてのお手伝いでした。大竹さんのだれからも信頼される人柄のなせるわざでした。頼りにされるがゆえのご苦労もあったと思います。それでも一切愚痴も言わず、黙々と仕事に精を出す大竹さんの大きな背中が目に映ります。


 そう言いつつ私も、大竹さんにすがることになったひとりでした。宮内商工会青年部の盛り上がった一時期からほぼ十年、時代は平成に変わっていました。青年部時代に出会い、その後も交流のあった徳田虎雄徳洲会理事長の言葉に押されて市議会議員への立候補を決意しました。その思いの原点は青年部でした。私には後援会長は大竹さんしか考えられませんでした。同級生のスミヤと一緒にお願いに上がり、迷惑も顧みずねばりにねばって口説き落としました。以来、二回の選挙を上位当選させていただき六年間務め、そして後先考えぬ無謀な挑戦で政治の世界から足を洗うまで、ほんとうに親身におつきあいいただきました。私の議会活動に於いては、一族であられる大竹市長にたてつくことも多く、苦々しく思われたこともあったかもしれません。しかし一言の非難めいた言葉もなく、私の活動を温かく見守り応援しつづけていただきました。思うほどにあらためて感謝にたえません。ありがとうございました。


 病を得られてもう二十年近かったとのこと、私の父も同じ病に罹り、大竹さんとは主治医が同じということで、何かとアドバイスいただいたこともありました。その後私も同じ病に襲われ、同病哀れみつつも、しかしここしばらくはお会いすることもありませんでした。時折こども園で孫さんと来られた奥さんにお会いするたび、「正弘さん、元気」の問いに、いつもの笑顔での「ん、元気」の応えに安心し御無沙汰を重ねた中での、あまりに思いがけないこのたびの報せでした。仕事をしながらの御帰天とお聞きしました。いつものままのお顔でした。宮内商工会青年部の黄金期、共に部会長を務められ、一足先に逝っておられるいとやさんやヤマチョーさんや長雄ちゃたちと会っておられる様子が目にうかびます。私はといえば、いつまで与えられた命かはわかりませんが、今年粡町の地区長になり、図らずも今日これから地区長会の総会です。あらためて宮内のこれからについても考えさせられることになりそうです。四十年前に比べると人口では二割減、世帯数に至っては三割減の宮内です。それはそれなりのいい未来があるはずです。共に過し育てていただいた四十年前の気持ちを原点にしつつも、あの頃ほどには気負わずに、残された命を使ってみることにします。どうかお守りお導き下さい。時には叱咤激励もお願いします。


 思い起こすまま、長々と述べてしまいました。昨日家に来られた大竹さんをよく知られる方が、「ひとの事悪ぐゆったり、ごっしゃぐなてねがった人だったそね」と言われ、うなづきました。私にとっては、いい一つの生き方の形を示して下さいました。一般からすれば十分な寿命とは言えないのかもしれませんが、病を得られてがんばりつつ、最後まで仕事と共にあった見事な一生を終えられたのだと、私には思えます。ありがとうございました。どうか安らかにお休み下さい。


  平成二十八年四月七日  








 


 


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