高橋俊信さんへの弔詞 [弔詞]
弔 詞
ひとかたならずお世話になり、常に心にかけていただいた高橋俊信様に対し、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
十二月六日の夕、六組の契約の席で、数日前お見舞に行かれた高梨さんから、俊信ちゃの様態ただならぬことをお聞きしたばかりでした。ちょうどその頃に俊信ちゃが旅立たれていたことを翌日の知らせで知りました。私は、夏の終り頃、湖山病院で「まだ来てみっから」と言いつつ別れたのが最後でした。
元気な頃、山や畑の収穫物をいつも届けていただきました。山菜やきのこや野菜だけでなくいろんな花のこともありました。大輪の菊をつくっておられた頃は見事な菊でわが家の玄関を飾っていただきました。親が元気なうちは、その度お茶を飲みながら楽しく一緒に語らって帰られたものです。父も母も俊信ちゃが来られるのを楽しみにしておりました。親が亡くなってからはゆっくりお茶を飲んでいただくのも何回かに一回になり心苦しく思っていました。それでも相変わらずいつもいろんなものを届けていただきました。
思えば、俊信ちゃとのこうした親しいおつきあいは、私が選挙に立候補したときにはじまります。若気の至りもあり、いつもの酒飲み仲間との言い合いのうちに市議会挑戦の流れができていったのでしたが、その責任者を引き受けていただくことになったのでした。選挙のパンフレットをつくるにあたり、私があれこれ書き並べたのを見て、俊信ちゃは厳しくダメ出しされました。「地元のため」をいちばんに打ち出さなければダメだということでした。基本が欠けていたことに気づかされました。当選してからも、基本に関わる厳しい指摘をしばしば受けていたことを、今ありがたく懐かしく思い起こします。その後の無謀な挑戦により一期半六年の議員生命で終わり、俊信ちゃのご恩と期待に十分報いることができなかったことをいまあらためてお詫び申し上げねばなりません。
選挙の責任者になっていただいた時、俊信ちゃは六十歳になったばかりでした。今の私はその年を八つも超えています。その頃俊信ちゃは地区長をすでに務め上げておられました。さかのぼれば、昭和五十年に発足した粡町共栄会の初代会長でした。俊信ちゃはあの頃四十代半ば前でした。俊信会長の下、菊と市民のカーニバルに何回か参加したこともありました。信彦くんに代替わりして今もつづく共栄会、平均年齢は六十歳をはるかに超えています。平成五年粡町の通りに街路灯を設置するためにできた粡町商店街の初代会長も俊信ちゃでした。陣頭に立って困難な事業を成し遂げられました。以来二十数年、当時二十軒を超えていた商店街の会員も今は十三軒になってしまいましたが、暮れを迎えようとする粡町通り、商店街以外の方々の協力もいただいてイルミネーションが華やかに町を彩っております。
宮内にまだ菊まつりがあった時代、観光協会の理事も永く務められました。菊づくりを始められたのはその頃でしょうか。菊づくりだけではなく山仕事や畑仕事と、自然とともに在るのが何よりの楽しみであり生きがいのようでした。山を求めて木を育てることなどだれもできない時代です。若い頃商売一筋のがんばりがあったればこその、金銭度外視の自然との関わり合いのように見えました。ポータブルの人工呼吸器をつけながらも山にはいっていた俊信ちゃ、相次ぐ雨の被害もあり荒れ放題の山の見直しが迫られる中、俊信ちゃの思いと生き方の大切さがあらためて認識させられる時代になりつつあるのかもしれません。
今の時代、八十三歳はまだ若かったという気も拭えませんが、しっかり自分の生き方を貫いた男の一生を見させていただきました。これまで多くの関わりをいただいたことに深く感謝し、ひとまずは安らかにお眠り下さいと言いつつも、さらにまた高い空から私どもを見守りつづけていただくことをお願いしてお別れの言葉とさせていただきます。
平成二十七年十二月九日
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