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吉野石膏の歴史(7)いわば「自動増殖」 [吉野石膏]

吉野石膏は、儲けようとして儲かったのではない。費用をかけて捨てるはずの不用なものを有用なものに変えて売る、このリサイクルを「燃えやすい日本の住宅を燃えない住宅に変える」という明確な使命感(目的意識)をもって取組んだ、その結果の引きも切らぬ企業連携、全国的工場展開だった。

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   合弁企業次々と

関連会社1.jpg そういうことがあったもんだから、石膏ができる所から次々と声がかかった。昭和38年には住友金属鉱山㈱、銅を精練するときに副産する石膏を使ってボード工場を作るというわけで、北海道に住友吉野石膏㈱を設立した。これが外資系の第二番目だね。いまこれは恵庭にある。恵庭の自衛隊のすぐ傍だが、これも後でうちが全部引き受ける・・住友の株を全部引き取って北海道吉野石膏㈱としてね、100%うちの資本だ。
 そんなことで、次々とコンピナート技術的関連のある生産諸部門が近接立地して形成された企業の地域的結合体)が出来た。プラスターでは窒素(新日本窒素㈱)ね、それから宇部(宇都督達工業㈱、今のセントラル硝子㈱)—これらの社とうちとの折半出資で、日窒吉野石膏㈱、宇部吉野石膏㈱が設立されたわけだ。
関連会社2.jpg そうこうしているうちに新潟でね、新潟硫酸㈱というのが肥料を作っていた、こことの合弁で新潟吉野石膏㈱の設立。そのうちにまた三菱系統で小名浜に工場のあった日本水素工業㈱の副産石膏でプラスターを作ろうというわけで、菱化吉野小名浜工場が建設された。
 それから今度はラサエ業㈱というのがこれも石膏を作っていた、宮古でね。これとの合弁で岩手県宮古にラサ吉野石膏㈱(後に宮古吉野石膏㈱と改称)を設立。
  そういうような事で全国そっちこっち、二十何カ所か工場が出来た。南の方からチッソ吉野(熊本県水俣市)、直島吉野(香川県直島町)、宇部吉野(山口県宇部市)、多木化学の多木建材(兵庫県加古川市)、新東洋板膏(島根県松江市)—これは100%こっちが買収したわけだが。睦化学工業(三重県四日市市)、 それから日産建材(富山県婦中町)、高砂製紙(茨城県豊岡町)、新潟吉野(新潟市)、小名浜吉野(福島県いわき市)、宮古吉野(岩手県宮古市)、北海道吉野(北海道恵庭市)等々・・だねぇ。

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吉野石膏の歴史(6)儲かってしょうがない [吉野石膏]

須藤恒雄会長.jpgインタビューの中でいちばんおもしろいのがここだった。「儲かって儲かって、もうどうしようもない」、須藤会長のいかにも痛快そうな話しっぷりが今でも思い浮かぶ。
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   建材用ポードヘ
(衣袋監査役)進駐軍宿舎用の石膏プラスターというのは昭和22年まで。私は23年春に米沢工専(現山形大工学部)を卒業したんだけども、会長が採用してくれない。ようやく十月に「そろそろボード始めるから来い」と言われてね、上京したんだけども、そこからボード製造が始まった。だから僕が入った時はプラスターはなんにも無かった。
(進駐軍用のプラスター生産も永久には続かなかったわけですねぇ。)
 ああ、もちろん一応宿舎が出来てしまえばね、そのあとはもうガタッと無いわけだ。それで建材用のボード製造に取り組んだ、競争会社作ってだねぇ。
 そうしているうちに、アメリカに研修にやっていた技術屋が、石膏ポードにプラスターを塗る技術を開発した。石膏ポードに孔を明けてプラスターを塗ると、剥がれないわけだ。そうすると従来の土壁だと一カ月もニカ月もたたなければ乾かないのに、石膏ポードにプラスターを塗ると一週間ぐらいで乾いてしまう。それが「ラスアンドプラスター」でね、孔の明いたポードがラスポード、それにプラスターを塗って「ラスアンドプラスター」(今は孔
を明けるまでしない、へこますだけだが)。
 それで今度は、進駐軍用のプラスターじゃなくて、本当の、戦後日本の復興建築用の建材になった。
(日本の家屋も復興需要が出てきた?)
 ああ、それでみんなラスアンドプラスターの壁になったから、物凄く売れるようになった。

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吉野石膏の歴史(5)須藤永次、決断のすごさ [吉野石膏]

 須藤永次.jpg吉野石膏を今在らしめた、須藤永次の決断のすごさが語られます。空襲の最中にあって須藤永次は何を思っていたか、自らの使命を思い続けていたにちがいありません。「宮内魂」を見ます。
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   疎開と同時に終戦

(話を戦後に戻しまして。前回のインタビューの時は疎開の荷を積んだ貨車が宮内に着いたところで終戦になったという所までお聞きしたのですが。)
 そう、一番最後の三十五両目の貨車が八月十五日に到着したわけだ。
 前の日にね、「明日重大放送があるそうだから聞くように」と言われたから、お昼ごろ、聞いたんだね。あの玉音放送が始まったんだ、聞いて皆ぷったまげたわけだ。まさか、敗戦になるなんて、だれも思ってもみなかったろうし。
(東京工場の方は止めて全部運ぱれたんですか?)
  全部! 軍事省の管理工場になっていたからね。吉野石膏という看板を外しして二八〇〇番なんて番号がついて。その代わり電気はなんぼ使ってもいい、燃料も石炭でも 何でも配給する・・軍需工場にはそういう特典があった。そして爆弾の型とかね、ギプス包帯とか歯科用の石膏とかを兵器廠に納めておった。時々将校が視察に きてね。
 それが毎日毎日爆撃が始まって、とてもここじゃ駄目だ、山形に移転するから移転資金をもらいたい、と言ったら、なんぼ掛かってもいいから、大至急で移れということでね。
(同業者というのは?)
  東京には一社も無かった。私は当時三十五歳かな、その工場の生産責任者になっておった。山形で召集されたんだけども、工場の生産責任者にされたために、七 十何日かで帰されてね、昭和十九年に東京に帰って来た。帰されなければ戦死していた。僕と一緒に枕を並べていた中隊の仲間は、全滅だった。
 それで、あんまり空襲が激しいんで、疎開しようとなったわけだ。
 

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吉野石膏の歴史(4)むかしのことなど [吉野石膏]

恒雄会長.jpg   米沢藩の気風

 宮内のあの辺っていうのは、多勢亀五郎なんて貴族院議員になった素晴らしい人もいる。色々な人がいるけども、あの土地にいての成功でね、事業家で中央に出て成功した人はあまりいないんだねえ。
 米沢藩っていうのは、大体が質素倹約、質実剛健、金側けなんていうのは藩の教えに無かったんだね。だからみな軍人とか学者。学者、軍人は出ているけどもですよね。ね。それから日銀総裁になった結城豊太郎、池田成彬、宇佐美洵、その外学者も、酉置賜あたりからも有名な人が出ている、しかし金儲けするなんていうのは、卑しむべきことという教育だったから、みな軍人や学者になったんだねえ。
 事業家で、東京に出てきてなんとか格好がついたのは須藤永次ぐらいだろう。あとは、最近では川崎電気か。川崎電気は中川か?初代社長が、本社を東京に移すな、と言ったんだね。それで今も中川の方が本社だ。だから、南陽市に税金を納めるんでは一番だろう製糸関係は駄目になったからねえ。

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吉野石膏の歴史(3)須藤会長に聞く(本社で) [吉野石膏]

宮内腰廻(菖蒲沢)別荘でのインタビューを終えて、「続きを話すから東京に来い」ということだった。「週刊置賜」の木村さんに同行して本社を訪ねた。そのインタビューが、平成11年1月1日号からの連載記事になっている。「鍾秀奨学基金」の起こりが話題になっているが、今も小学校にある。たまたま数日前、監査の案内が届いたところ。
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須藤会長と衣袋監査役.jpg 南陽市名誉市民で吉野石膏㈱会長の須藤恒雄氏(89)を一昨年秋、滞在中の南陽市宮内の自宅にお訪ねして伺った話を連載した『むかしのことなど』は好評 で、続きが侍たれていた。終戦後のことはこの次ぎ帰郷された折に、とお待ちしていたが、春に腰を痛められて当分遠出はなさらないとお聞きし、昨年十一月 末、東京丸の内、新東京ビル内の本社に同会長を訪問、衣袋廣司監査役もご同席でお話を伺った。相変わらず若々しいお元気な会長であった。
 

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吉野石膏の歴史(2)戦争、そして終戦 [吉野石膏]

1.形成  小.jpg   大東亜戦争ヘ

(馬車から三輪車、そしてトラックと凄い勢いで変わっていきましたねえ。)
 うん。それでこんどはいよいよ戦争に入るわけだなあ・・・。昭和11年かな、二・二六事件が起きたのは。うちの娘が生まれた時だからね。二月十一日に生まれ て、二月二十六日があの事件、それがきっかけとなって軍人が世の中を支配するようになる。大戦争。大東亜戦争になっていくわけだよ。
  で、戦争中っていうのはねえ、山林は伐れる所全部伐っちやって、仮にする材料が無くなってしまった。そんな状態なもんだから、ボードがね、ほんとにもう飛 ぶように売れた。どこの軍需工場でも「なんぼ持って来い」「こっちになんぼ持って来い」っちゆうわけだ。そういう時だから、軍需省の管理工場ということに なってね、吉野石膏製造所って看板はしまいこんで 「関東二八〇〇番工場」ということになった。そして俺が生産責任者にされた。
(軍需省の管理工場というのは番号で呼ばれたんですか。)
 そっ、全部。名前は無いの。関東二八〇〇番。その生産責任者をやらされたわけ。
(戦争中も材料は入って来 たんですか。)
 いやあ、化学石膏よりほかに無いみたいな状態だから、仲々大変なことだったわけよ。だから、型として何回も使って、もう使えないという古型 をもう一度石膏として使ったり・・・そう、リサイクルだね。そんな物を使ったり、それから又、各鉱山でもね、まだ掘ってた所もあったわけだ。そっちこっち の石膏山、そんな所から買ったりしてた。

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吉野石膏の歴史(1)戦前 [吉野石膏]

朝のドラマ「まんぷく」を見ていて「吉野石膏のすごさ」の記事を書いた。吉野石膏が他社にノウハウを提供して石膏ボード業界を立ち上げたように、まんぷくラーメンも製法特許を公開して即席ラーメン業界を立ち上げた。同じ展開だった。めでたし、めでたし。
平成9年に、宮内腰廻の吉野石膏須藤家別荘で須藤恒雄会長にインタビューした記事を探し出した。このまま埋もれさせるのがもったいなくてそっくり転載することにしました。『週刊置賜』平成9年12月6日号からです。
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須藤恒雄.jpg一郷土があって今日があるー
むかしのことなど
南陽市名誉市民/吉野石膏(㈱)会長 須藤恒雄
石膏建材メーカーのパイオニアとして広く知られる吉野石膏(㈱)の1世紀に近い歴史が、南陽市宮内から始まっていることを大切にし、「郷里があって今日があ る」と南陽市の振興発展に貢献している同社の須藤恒雄会長が、この春(平成9年)名誉市民の称号を贈られた。若い世代にこの大企業と郷土との関係を改めて 知ってほしいとこのほど、宮内菖蒲沢の別荘に滞在中の同会長に昔話を伺った。

   馬車の時代だよ

(きょうは、吉野石膏と南陽市、特に宮内との関係についてお伺いしたいのですが。)
 それはねぇ、『吉野石膏90年史』っていうのに詳しく載ってるから、あとで送ってあげよう。まあ、その本にも載ってないようなこと、少し話そうかね。
(お生れは?)
 生まれはねぇ、今の白鷹町。西置賜郡東根村畔藤というところ。もちろん百姓の生まれでね、うちの母親と初代(須藤永次翁)が身内という関係から、養子に入ったわけだ。
 私は、今の福島大学経済学部が福島高等商業といった時代の卒業生でね、昭和6年に卒業すると、吉野石膏の仕事をやれと言われ、その四月から仕事をさせられた。
(石膏というと私などには彫刻ぐらいのイメージしかなかったのですが。)
 お、その彫刻。彫刻用とか、洋食器など陶磁器の型用とか、昔のピルにはよくシャンデリアが飾られていて、その周りにジャバラといって石膏の彫刻が施してあったが、そういう飾り用の石膏、それから歯科用とか骨折した時のギブス用とか色々あった。
 宮内の六角町にね、焼石膏の工場があったんだよ。六角町の内原寄りの所に広い場所があって、そこに吉野石膏製造所の焼石膏工場があった。ぞれであそこが吉野町になったわけだね。
石膏鉱山.jpg 吉野村の荻に鉱山があってね、掘り出した原石をきれいに洗って、馬車で持ってきた。一俵16貫60キロの俵を積み上げて吉野鉱山から馬車で運んだんだなぁ。多い時は一日22,3台の馬車が入った。
 当時はやっと馬車が通るような、舗装も何もなってない細い道で、石ころを越えられなくてみんなで後押しした、そんな時代だったな。吉野までバスが通るようになったのは、よっぽどあとだからねえ。
(それだけ馬車が行き交う吉野街道は、活気があったでしょうねぇ。)
  ああ、うちの外に日本鉱業の日板鉱山って銅山があった。元々吉野村っていうのは、金銀銅の鉱床になっている場所なんだね、あの辺一帯。黒物鉱床と言って ね。その鉱床の中に石膏がある・・・米沢出身の戸内応助という人が、探鉱をやって石膏にぶつかった。それを掘り始めたのが一九〇一年、明治34年だ。良い 石膏が出たんだね、アサノセメントの東京工場に売っていた。
 

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吉野石膏のすごさ [吉野石膏]

モネ20150410c.jpgシスレー20150410d.jpgルノアールimg_0.jpg先日(24日)のEテレ日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」に山形美術館のモネ、シスレー、ルノアールが登場した。いずれも吉野石膏コレクションだ。今年は「印象派からその先へ −世界に誇る吉野石膏コレクション−」と題して名古屋、神戸、東京での巡回展が予定されている。ほかでもない、朝のドラマ「まんぷく」、ライバル会社相手のスッタラモンダラを見ながら吉野石膏を思い出した。

須藤恒雄 腰廻りで.jpg平成9年(1997)、「週刊置賜」の木村陽子さんに手伝って、吉野石膏の須藤恒雄会長にインタビューしたことがあった。その時聴いた話、《(終戦でみんなが途方に暮れる中で)しかしこれからは、大空襲でこれくらい焼けたんだから、必ず大復興建築が始まる。それには、またマッチ一本ですぐ撚えるような家を造らしては駄目だ、と。少なくとも内装だけは、燃えない家を造らなくちゃならない・・・そういうことを宣伝しながらね、ボードを売ろう、ということでね、そういうことで、始まったわけだ。/ ところがねえ、今度は専売特許(新たに開発した須藤式ボード製造機)になったからね、うち一軒でやってたって、そんなもんは知れたものだから、競争会社を作ってね、切磋琢磨してやっていった方がいい、というわけで・・・それでそっちこっちにね、競争会社を造った。そして切磋琢磨しながら拡昄しろ、ということで、ボード業界をつくったわけ。いまはそれが「石膏ボード工業会」ということで・・・。長い間、その会長やったりなんか、そんなことで勲章二回ももらったということになんのかねぇ。(聞き手:これはもう無くてはならないものですしねぇ。)ポードなんていうのはね、重厚長大安物の代表だから、気安く使えるわけですよ。》 こうして石膏ボードは戦後日本の「住」になくてはならないものになった。

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どうなる!?お祭り「子供神輿問題(琴平神社)」 [吉野石膏]

粡町から双松公園を望む12-DSCF7978.jpg02-双松公園 石段.JPG双松公園から粡町通り05-DSCF7943.jpg01-DSCF5942.JPG

20日の琴平神社祭典の反省会で子供神輿存続が問題になった。今年の準備の段階で子供みこし実行委員会から存続問題が提起されていた。

 

明治時代、この地域(宮内東部)に大きな火災が相次いだ。以下は『おみきばばちゃの夜噺』巻末年表にある火災の記録。

明治51872)年49日 宮内大火。戸数500戸中300戸焼失。死者2名。火元は鳥居の場掛舞台。

明治241891)年 宮内町役場、宝積坊等焼失。火元宝積坊。

明治261893)年5月 宮内大火。粡町27戸焼失。火元片平浅右衛門豆腐屋。

明治331900)年9月 宮内大火。105戸焼失。火元十文字風呂屋。

 

もう神様に願うしかない、高橋弥藤次という人が四国讃岐の金比羅宮に参詣祈願、御分霊を勧請して火伏せの神様としてお祀りしたのが双松公園琴平神社のはじまり。粡町、足軽町、久保、仲ノ丁、横町、五町内住民が氏子である。

 

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