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吉野石膏の歴史(5)須藤永次、決断のすごさ [吉野石膏]

 須藤永次.jpg吉野石膏を今在らしめた、須藤永次の決断のすごさが語られます。空襲の最中にあって須藤永次は何を思っていたか、自らの使命を思い続けていたにちがいありません。「宮内魂」を見ます。
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   疎開と同時に終戦

(話を戦後に戻しまして。前回のインタビューの時は疎開の荷を積んだ貨車が宮内に着いたところで終戦になったという所までお聞きしたのですが。)
 そう、一番最後の三十五両目の貨車が八月十五日に到着したわけだ。
 前の日にね、「明日重大放送があるそうだから聞くように」と言われたから、お昼ごろ、聞いたんだね。あの玉音放送が始まったんだ、聞いて皆ぷったまげたわけだ。まさか、敗戦になるなんて、だれも思ってもみなかったろうし。
(東京工場の方は止めて全部運ぱれたんですか?)
  全部! 軍事省の管理工場になっていたからね。吉野石膏という看板を外しして二八〇〇番なんて番号がついて。その代わり電気はなんぼ使ってもいい、燃料も石炭でも 何でも配給する・・軍需工場にはそういう特典があった。そして爆弾の型とかね、ギプス包帯とか歯科用の石膏とかを兵器廠に納めておった。時々将校が視察に きてね。
 それが毎日毎日爆撃が始まって、とてもここじゃ駄目だ、山形に移転するから移転資金をもらいたい、と言ったら、なんぼ掛かってもいいから、大至急で移れということでね。
(同業者というのは?)
  東京には一社も無かった。私は当時三十五歳かな、その工場の生産責任者になっておった。山形で召集されたんだけども、工場の生産責任者にされたために、七 十何日かで帰されてね、昭和十九年に東京に帰って来た。帰されなければ戦死していた。僕と一緒に枕を並べていた中隊の仲間は、全滅だった。
 それで、あんまり空襲が激しいんで、疎開しようとなったわけだ。
 
   東京に戻れ! 

  終戦になって、先代(須藤永次氏)は「マッカーサーは、これ以上日本人を殺したりしないだろう。終戦になったのだから、大至急東京に戻ってボード工場を復 活しろ」というんだ。焼夷弾一発で何百戸も焼けるような、燃える家を作らせちゃ駄目だ、戻って早くやれ、というわけだよ。
(終戦のその年の内にそういうことを言われたんですか。)
  終戦の日の、その夜だよ、「大至急、東京に戻れI」という号令を出したのは。こっちは、命からがらようやく宮内に来たのにすぐ東京に戻れ、だろう。とんで もないって言ってがんぱってたのよ。疎開してきた荷を全部送り返すまで宮内におった。十月過ぎくらいまで宮内にいたんじやないかなあ。
 先代は、「俺はこれから東京に行く」ってね、九月にはもう、ステッキー本持って東京に出てきたね。
 その時に終戦で解散した原電気から今野正さんという技術屋を貰い受けたわけだ。
(今野氏はその後、大正末期に製作されて老朽化していたボード製造機に改良を加え、新マシンを設計、完成させた)
(その辺の判断というのは凄いもんですね。)
 ああ、たいしたもんだった。運よく住宅が焼けずに残ったということも幸いしてね、東京に出てきて復興に取りかかる。
(ご家族は宮内に?)
 まだ家族は宮内にいた。東京に出てきて生活できる状態じやなかったからね。うちの倅(現社長永一郎氏)は昭和九年生まれだから、宮内小学校に行った。長井中学まで行ったかな、一年ぐらい。 
 しぱらくは先代が単身できておったねぇ。

   GHQに納品 

  そうしているうちにね、だんだん復活してくると、GHQ(連合軍総司令部)から、進駐軍宿舎建設用として、石膏プラスターの生産命令が出た。命令だけど も、値段はこっちで原価計算して、いくらいくらだと出すわけだ。何月何日まで千t納めろ、いついつまで四千t納めろって、とんでもない単位だよ。それで、 そちこちにあった石膏工場に分配して、業界で製造することにした。
 そのうちに物価庁というのが出てねぇ(これが後に特別調達庁となるんだが)そこに行ってすべてサインをもらわなくちやならん。で、そこの担当官とだんだんだんだん親しくなってね、最初は一万円だったものがだんだん高くなって、二万五千くらいまでなったなあ。
 そうするとだね、最初はぎりぎりで、一割も儲からなかったものが三割とか五割とか儲かり過ぎるようになった。計算したものにサインさえしてもらえばいいわけだから。それを皆分配してやったもんだから、景気が良いなんてものじやない、皆恩恵にあずかったわけだ。
(衣袋)ボーナスなんか、凄かったですよ。
 それで、儲かりすぎて、ある会社などは変な所に金使って、おかしくなったところもある。
  うちの社長の偉かったのは、その時期に「いまは粉(石膏プラスターは粉末)でいいが、これからは燃えない建材を大量に普及しなくちやならない。(ポードは 吉野石膏の専売特許であったから)それには、強力な競争会社をたくさん作って、切瑳拓磨していかなくちやならない」というわけで、須藤式タイガーポード製 造機っていうのを作ってね、わずかな技術指導料をもらって分配した。各社の技術屋を呼んで、寮に泊めたりして、何カ月か研修させ、機械をこっちで試運転し て引き渡して・・と競争会社を作り、ボード業界というものを作ったわけだ。
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 『吉野石膏90年史』より

◆復興式を挙行
 昭和21年9月の石膏工場の火入式より約一年を経過し、各設備が整った7月23日、石膏工場の復興式を盛大に行なった。この日、関係官庁である商工省、金融機関、東京大学永井彰一郎教授、石膏鉱山会会長小松哲清ほか各界名士を来賓に迎え、野村万蔵の祝い狂言と江戸家猫ハの余興をそえて祝福した。
 また当日は、会社側全員が木綿の土木作業衣を着用して参集した。
◆ボード技術の公開
 ボードは「競争と量産なくして繁栄なし」という永次社長の考えから,その急迫な普及を目指してパテントを放棄し,技術を公開して,日東石膏㈱,大阪則火ボード製造㈱に事業化を慫慂した。この結果,同社とも須藤式ボード製造機を導入することとなり,当社分と合わせ計3基を三菱化工機㈱に3月4日発注した。
 三菱化工機㈱への発注に当たっては,1基は大阪耐火ボード製造㈱に7月末,2基は当社と日東石膏㈱に8月末をそれぞれ納期として,組立て,試運転に不備の場合の措置,「須藤式ボード製造装置」の銘板を機械に付すること,などの覚え書を日本耐火ボード製造㈱,日東石膏代行の三菱商事㈱,三菱化工服㈱の3社問で3月4日付で作成している。
 これらの機械設備が完成したのは23年であったが,この間に日東石膏㈱の技術者2名に約6か月,大阪耐火ボード製造㈱には1年にわたり実習を兼ねて技術指導を行なった。大阪耐火ボード製造㈱は,10月に操業開始の運びとなった。
 なお,大阪耐火ボード製造株式会社は22年8月に設立(資本金50万円,社長・伊藤長太郎)された新会社で,当社も10万円出資した姉妹会社である。
 永次社長は4月16日熱海に転居,のも11月25日,熱海・味見町内に住居を定めた。
※ボード新マシン発注価格
 1台当り49万9,900円,3台合計で149万7,000円であった。ただし,モーターは含まず,材料は公定価格による有償支給とした。
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