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吉野石膏の歴史(3)須藤会長に聞く(本社で) [吉野石膏]

宮内腰廻(菖蒲沢)別荘でのインタビューを終えて、「続きを話すから東京に来い」ということだった。「週刊置賜」の木村さんに同行して本社を訪ねた。そのインタビューが、平成11年1月1日号からの連載記事になっている。「鍾秀奨学基金」の起こりが話題になっているが、今も小学校にある。たまたま数日前、監査の案内が届いたところ。
*   *   *   *   *
須藤会長と衣袋監査役.jpg 南陽市名誉市民で吉野石膏㈱会長の須藤恒雄氏(89)を一昨年秋、滞在中の南陽市宮内の自宅にお訪ねして伺った話を連載した『むかしのことなど』は好評 で、続きが侍たれていた。終戦後のことはこの次ぎ帰郷された折に、とお待ちしていたが、春に腰を痛められて当分遠出はなさらないとお聞きし、昨年十一月 末、東京丸の内、新東京ビル内の本社に同会長を訪問、衣袋廣司監査役もご同席でお話を伺った。相変わらず若々しいお元気な会長であった。
 
   学校を出た頃 
(一つはお母様のことを少しお聞きしたいのですが。初代須藤永次氏の奥様るい夫人は、大変な賢夫人でいらしたとうかがっておりますが、家庭では、普通のお母様でいらした?)
 ああ、家庭ではねえ。若い時はねえ、経理から何から皆やっておったと思うよ。初代は最初、石炭屋だからね。東京磐城炭鉱㈱の浅野総一郎社長に見込まれて、須藤商店は製糸工場等に石炭を売込んだ。磐城炭鉱販売株式会社というものを作って、東北六県に売ってたわけだが、福島に福島支店を作ってた。
 私が福島高商に入っていた時代、学校の寮には一年間しかいられないもんだから、二年生からは下宿しなくちやならない。それでこの福島支店に下宿して、そこから学校に通った。ちようど駅前にね、支店があった。当時、トラックなんかじやない、貨車運搬の時代だからね。
 私が福島高商に入ったのが昭和三年で六年の三月に卒業して吉野石膏に入ったんだが、その時に大暴落で、とんでもないことになってしまった。
 当時吉野石膏はねえ、宮内の、いま、黒江歯医者のところ、あそこにね、山崎という料理屋と並んで須藤永次の家があったわけだが、それらを全部銀行に渡して今の、腰めぐり、あそこに仮の住まいを建てて引っ越したわけだよ。
 こっちは学校に入ってるからあまりわからんが、その頃は屋敷の中に事務所があって、母親はそこで何もかも監督してたと思うよ。
 私が卒業した時が、ちょうど製糸に失敗した時で、残ったのが石黒七三郎さんと一緒にやっていた吉野石膏製造所、それだけが残ったわけだ。それで石黒さんに、この通りの状態だから全部お返しすると言ったところが、いや、全財産は石黒のものとなっているが、石膏の事業だけは続けてやってもらいたい、というようなことを言われて、それで初代は東京に出てきた。
  「タイガー」の由来
 当時石膏の一番の需要先はタイガーポードだった。最初、東洋建材工業所と言っていたのが、日本タイガーポード製造合資会社となっていた。そこが破産状態になったときに、経営は破産状態だが製品のタイガーポードは有望な建材であり、石膏業者としてやるべき事業だと確信した永次社長が、競買にあたって借地権、建物、什器、機械設備の一切現状のまま落札、これがうちのボード事業のはじまりだね。
(タイガーボードってどこからついたんでしょうね。)
 当時ねぇ、色々な商品の名前に動物の名前を付けることが流行ってたのよ。たとえば、代表的なのがキリンビールごライオン歯みがき。うちではタイガーポード。薄っぺらな板だけども非常に丈夫で、虎の皮のようだってんでつけたんだろうな。
(タイガーポードって、テレビ時代の新しい名前だと思っていました。)
 いやア、古いんだよ、この名前は。
 で、戦争中にね、英語が駄目だということで、ほら、バスだって「オーライ」なんて言っちや駄目で「発車よし1」だ。そういう時代なもんだから、タイガーポードも、火に耐える、耐火ボードとした。日本耐火ボード株式会社。戦後にまたタイガーに戻したわけだ。
若き日の須藤るい.jpg   須藤るい夫人 
 ま、そんなことがいろいろいろあったが、(初代のるい夫人は)頭の物凄く切れる、いわゆる賢夫人だったねぇ。東京に出てくる前からだろうか、婦人会で遠藤みんさんなんかと非常にじっこんにしておってね。
 親しかったのは、佐藤義一初代市長のお母さんや遠藤みんさん、あとは杵屋の近くで高橋さんの奥さんだとか、それから宮沢のおかみ、笠原のおかみ、斎藤お茶屋のお母さん、もう一人線路の近くの変電所のあたりの人と、とにかく仲の良い友達がおった。花札なんかやってたなあ、非常に面白い仲間でね。
 それがどういうことがきっかけだったか、婦人会でね、ちょっと金に困ったという人のために(千円、二千円の金が借りられないという時代に)なんとかしようというんで、(るい夫人が)百二、三十万円出したのかな、基金を。東京に出て来てからだね。それを遠藤みんさんが婦人会として管理して、困った人たちが二千円、三千円と利用してしていたんだな。
 それがだんだん単位が違ってきて、何十万単位になってね。時代も変わったし、というわけで、みんさんが亡くなられたあと、管理していた遠藤かほるさんから、 突然、お返ししたいという話を私のところに持ってこられてねえ。資金は二百六十万ぐらいになっていこっちも困ったんだけもねぇ。
 これを何に使ったらいいか考えて、もともと永次社長は、貧しい学生の学資の面倒をみたりしていた人だから、小学校に寄付しようとなった。しかし、いくら何でも二百六十万では何にもならんし、格好もつかないというわけで、二百五十万足して五百十万として宮内小学校に寄付した。昔の学校の名前を付けて「鍾秀奨学基金」として学校に贈った筈だよ。
 このことは、遠藤かほるさんに聞かれるとよくわかると思うよ。
 (るい夫人は)東京に出てきてからは、終戦後間もなく、熱海に住むようになってね、最初山の上に住んでおって、あとで下にさがって来てからだねぇ、友人に誘われて、佐佐木信綱先生に弟子入りして、短歌を始めたんだな。
(その頃何歳ぐらいでいらしたんですか?)  .
 五十何歳かな?それであとになって、宮内の長谷観音に慰霊碑を建てた時、信輛先生の歌を頂いて、歌碑を建てた。あとから「雪の暮花の朝の観世音(高浜虚子)」の句碑もね。
須藤夫妻像07-DSCF7955.jpg(須藤るい夫人の歌集『うしほの花』には夫永次氏を詠んだ歌が多い。
 希望に燃えいつまでもいませる石膏に魂こめてつくします吾背
 褒章二つあるじの胸にかがやけり五月風吹くこのよきあした)
(お父様は短歌は?)
 やってないね。ただ自分で『須藤永次翁伝』って自伝を出しているが、あれは須藤克三さん(宮内町出身の児童文学者)が熱海に来て、何日聞か泊り込んで、おやじが口述したものをまとめたものなんだよ。
(ご親戚ですか?)
 うん、親族になっていたんだな。
(つづく)

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