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吉野石膏のすごさ [吉野石膏]

モネ20150410c.jpgシスレー20150410d.jpgルノアールimg_0.jpg先日(24日)のEテレ日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」に山形美術館のモネ、シスレー、ルノアールが登場した。いずれも吉野石膏コレクションだ。今年は「印象派からその先へ −世界に誇る吉野石膏コレクション−」と題して名古屋、神戸、東京での巡回展が予定されている。ほかでもない、朝のドラマ「まんぷく」、ライバル会社相手のスッタラモンダラを見ながら吉野石膏を思い出した。

須藤恒雄 腰廻りで.jpg平成9年(1997)、「週刊置賜」の木村陽子さんに手伝って、吉野石膏の須藤恒雄会長にインタビューしたことがあった。その時聴いた話、《(終戦でみんなが途方に暮れる中で)しかしこれからは、大空襲でこれくらい焼けたんだから、必ず大復興建築が始まる。それには、またマッチ一本ですぐ撚えるような家を造らしては駄目だ、と。少なくとも内装だけは、燃えない家を造らなくちゃならない・・・そういうことを宣伝しながらね、ボードを売ろう、ということでね、そういうことで、始まったわけだ。/ ところがねえ、今度は専売特許(新たに開発した須藤式ボード製造機)になったからね、うち一軒でやってたって、そんなもんは知れたものだから、競争会社を作ってね、切磋琢磨してやっていった方がいい、というわけで・・・それでそっちこっちにね、競争会社を造った。そして切磋琢磨しながら拡昄しろ、ということで、ボード業界をつくったわけ。いまはそれが「石膏ボード工業会」ということで・・・。長い間、その会長やったりなんか、そんなことで勲章二回ももらったということになんのかねぇ。(聞き手:これはもう無くてはならないものですしねぇ。)ポードなんていうのはね、重厚長大安物の代表だから、気安く使えるわけですよ。》 こうして石膏ボードは戦後日本の「住」になくてはならないものになった。
 須藤永次.jpg『吉野石膏90年史ー創造と決断の軌跡ー』(平成2年)には「ボード技術の公開」と題してこうある。《ボードは「競争と量産なくして繁栄なし」という永次社長の考えから,その急速な普及を目指してパテントを放棄し,技術を公開し て,日東石膏㈱,大阪耐火ボード製造㈱に事業化を慫慂した。この結果,両社とも須藤式ボード製造機を導入することとなり,当社分と合わせ計3基を三菱化工 機㈱に3月4目発注した。/ 三菱化工機㈱への発注に当たっては,1基は大阪耐火ボード製造㈱に7月末,2基は当社と日東石膏㈱に8月末をそれぞれ納期 として,組立て,試運転に不備の場合の措置,「須藤式ボード製造装置」の銘板を機械に付すること,などの覚え書を日本耐火ボード製造㈱,日東石膏代行の三 菱商事㈱,三菱化工機㈱の3社間で3月4日付で作成している。/ これらの機械設備が完成したのは23年であったが,この間に日東石膏㈱の技術者2名に約 6か月,大阪耐火ボード製造㈱には1年にわたり実習を兼ねて技術指導を行なった。大阪耐火ボード製造㈱は,10月に操業開始の運びとなった。/ なお,大 阪耐火ボード製造株式会社は22年8月に設立(資本金50万円,社長・伊藤長太郎)された新会社で,当社も10万円出資した姉妹会社である。》
この思いの背景にあるのは、恐ろしくも悲惨な空襲の体験だった。「あのような日本の住宅を変えねばならない!」の強い決意があってのことだった。同じく使命感に発して即席ラーメンづくりに取組んだはずの萬平さんの怒りっぷりが、私にはかえって不自然に思える。実際の安藤百福さんはもっと鷹揚だったのではないだろうか、と思ってしまう。今後の展開がどうなるかだが、今のところ時代逆行でしかない。前記事、mespesadoさんによる「グローバリズム化」善悪の仕訳原則それが消費者・生活者にとってメリットがあるかどうか」ということで判断すべし》はここでも有効だ。萬平さんの気付きに期待したい。最近読んだ『蒋介石の密使 辻政信』を思い起こしながらも(権謀術数の蒋介石と、それに取り入る辻政信)、そもそも日本人でないからああなんだ、とは思いたくない。製作者の感覚、姿勢が問われている、そう思った。
(平成9年〜10年、『週刊置賜』に掲載された須藤恒雄会長のインタビュー記事、全文紹介したくて準備中です。)

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mespesado

 いつも私の放知技の記事を紹介してくださりありがとうございます。めいさんの記事はいつも読ませていただいておりますが、今回の須藤恒雄会長のことばの中の

>うち一軒でやってたって、そんなもんは知れたものだから、競争会社を作ってね、切磋琢磨してやっていった方がいい、というわけで・・・それでそっちこっちにね、競争会社を造った。

という下りには思わず目が覚めるような感をいだきました。まさに日本人の心そのもの、という感じで、「『競争』とは何か」という問題に対する鋭い問題提起だと思いました。
 私の放知技での連載でもこの話を引用させていただきたいと思いましたので、よろしくお願いします。

by mespesado (2019-02-28 07:18) 

めい

mesさん、いつもいつもほんとうにありがとうございます。今朝の「まんぷく」見て、「ふく子が修正してくれそうで良かった!」とここに書こうと思って、mesさんのコメント見つけました。このところ「吉野石膏のすごさ」思わせられるところあって、昨日もある会合で語ってきたところでした。われわれにとって何かと身近な企業がmesさんに注目していただいてうれしいです。よろしくお願いします。
by めい (2019-02-28 08:32) 

めい

安藤百福さんの実像についての記事を読みました。
https://jp.quora.com/%E4%BB%8A%E3%81%A7%E3%81%AF%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E3%81%AB%E9%AB%98%E3%81%8F%E8%A9%95%E4%BE%A1%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7-%E3%81%A8%E3%81%A6

(問い)
今では社会的に高く評価されている人物の中で、とてつもなく社会的に評価が低かった黒歴史がある方はいますか?

(答え)
インスタントラーメンを発明し、世界の食に革命をもたらしたとして世界的に評価の高い安藤百福です。

「ラーメン王」「ミスターヌードル」として後世にも語り継がれる伝説の人となっていますが、驚くべきことに、実は発明なんてしていなかったということが明らかになっています。

1.研究小屋など存在しなかった

安藤百福自伝『魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞社2002年)によると、昭和31年に理事長を務めていた信用組合が経営破綻し無一文となって、池田市の「研究小屋」でインスタントラーメンの研究を始めたそうです。約一年後の昭和33年にほぼ完成、家族総出の生産作業に入ったとあります。

ところがこれは真実ではありません。

昭和33年に百福が籠もっていたのは「研究小屋」などではなく、拘置所だったのです。

百福が理事長を努めていた大阪華銀は、昭和32年9月に放漫経営から取り付け騒ぎを起こします。百福はその最中に400万円を横領した疑いで逮捕起訴され、翌33年に有罪が確定しました。もちろん、この事実は自伝では触れられていません。

横領の理由は、相場に手を出して大損した穴埋め。

(『財界展望』昭和58年5月号)

つまり、自伝の記述は真っ赤な嘘だということになります。

台湾人である百福はその人脈を活かし、戦前から手広く事業を営んでいましたが、戦災で多くの建物を失いました。自伝ではまるで戦後の灰燼の中から再起したような物語が描かれていますが、台湾人である百福は戦勝国民となって莫大な賠償金を手にしており、それを元手に戦後さらに事業を拡大したのです。昭和31年の時点でいまだ大阪華銀の理事長を務めており、チキンラーメンの開発時点において既に日本屈指の富豪とされていました。

2.チキンラーメンは他人の発明品

自伝によると、百福は妻が夕食に揚げた天ぷらをヒントに「瞬間油熱乾燥法」を考案したとあります。

これも嘘です。

拘置所を出た百福は、華僑仲間である許炎亭という人物と再会します。上掲の記事において「安藤君とラーメンの結びつきは私が作った」と述べている人物です。

許炎亭は、大和通商という会社の役員でした。大和通商は華僑の陳栄泰が経営する会社で、その陳の発明品である「鶏糸麺」という製品を大阪で販売していました。鶏糸麺とは、明時代の中国で点心として賞味されていた「鶏絲麺」にヒントを得て作られた即席麺、つまりインスタントラーメンです。

(『新日本経済』昭和38年1月号)

なお、陳栄泰は鶏糸麺を自分の発明だと主張していますが、これも嘘だということが判明しています。鶏糸麺は、台湾の員林という街で開業していた「清記冰果店」というお店の店主、戴清潭の妻が考案したものです。のみならず、実は台湾では鶏糸麺以前から即席油揚げ麺が各地で作られていました。

百福は許炎亭と共に会社を設立、鶏糸麺に「チキンラーメン」という名前をつけて代理販売を開始します。この頃、すでに華僑を中心に油で揚げた即席麺は市場に出回っていました。

3.稀代のトリックスター、誕生

さて、ここから起業家・安藤百福の伝説が始まります。

チキンラーメンに途轍もない将来性を見いだした百福は、「東明商行」という会社の経営者、やはり華僑の張国文が考案した即席麺の味付けに関する特許を買い取ります。

当時の価格で2300万円。現代の貨幣価値でざっと7億円ほどです。

併行して許炎亭から鶏糸麺の製法を聞き出し、陳栄泰と許炎亭にばれないよう母スマの名で特許を申請。

(『財界展望』昭和58年5月号、呉は帰化前の百福の姓)

(『新日本経済』昭和38年1月号)

こうして製法と味付け両方の特許を握った百福は、既に量産されていた即席油揚げ麺の企業に対し堂々とライセンス料を請求し、インスタントラーメン界に君臨する王者となります。

ところが、百福はここで安泰とはしません。

まさに「金のなる木」であるふたつの特許を武器に資金を調達、その莫大な資金を、広告代理店を使っての巨大キャンペーンに投じます。やがて「チキンラーメン」ほか「カップヌードル」など、日清食品のインスタントラーメンが日本のみならず全世界を席巻することになります。

百福が突然チキンラーメンは自分の発明だと言い始めたのは、上掲の張国文と陳栄泰が亡くなったからです。死人に口なし、百福は自伝を上梓して堂々と歴史を書き換えてしまいました。

こうしてみてみると、安藤百福は不撓不屈の発明家などではなく、まったくとんでもないトリックスターだということがわかります。日清食品のさまざまな記念館や博物館で展示されている百福像は一切がまやかしなのです。

しかしそこも含めて、私は安藤百福が好きなんですよね。倒れても再起を繰り返し、50歳にして意欲盛んで、鋭敏な嗅覚でインスタントラーメンの将来性を誰よりも評価し、業界が疎い特許を固めてビジネス化し、いち早く広告の重要性を理解して大金を投じ、最終的に今の評価を築いたわけですから、たとえ自伝が嘘にまみれていたとしても、やはり偉大な人物であることに変わりはないと思うのです。

本稿の内容は、以下の研究成果によるところが大きいものです。本文中の画像もこちらから引用しています。ご興味のある方はぜひご覧ください。

近代食文化研究会さんによる、チキンラーメンが語らないインスタントラーメンの黎明史

【番外編】NHK『まんぷく』チキンラーメンは本当に「発明」なのか(上) | デイリー新潮

 (野嶋剛)

【番外編】NHK『まんぷく』チキンラーメンは本当に「発明」なのか(下) | デイリー新潮
 (野嶋剛)
by めい (2020-08-09 04:22) 

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