どうなる!?お祭り「子供神輿問題(琴平神社)」 [吉野石膏]
20日の琴平神社祭典の反省会で子供神輿存続が問題になった。今年の準備の段階で子供みこし実行委員会から存続問題が提起されていた。
明治時代、この地域(宮内東部)に大きな火災が相次いだ。以下は『おみきばばちゃの夜噺』巻末年表にある火災の記録。
明治5(1872)年4月9日 宮内大火。戸数500戸中300戸焼失。死者2名。火元は鳥居の場掛舞台。
明治24(1891)年 宮内町役場、宝積坊等焼失。火元宝積坊。
明治26(1893)年5月 宮内大火。粡町27戸焼失。火元片平浅右衛門豆腐屋。
明治33(1900)年9月 宮内大火。105戸焼失。火元十文字風呂屋。
もう神様に願うしかない、高橋弥藤次という人が四国讃岐の金比羅宮に参詣祈願、御分霊を勧請して火伏せの神様としてお祀りしたのが双松公園琴平神社のはじまり。粡町、足軽町、久保、仲ノ丁、横町、五町内住民が氏子である。
時代はそれから60年を経た昭和36(1961)年、仲ノ丁の料亭山﨑屋に生まれ粒々辛苦、超優良企業吉野石膏株式会社を育て上げた須藤永次(1884-1964)翁が、会社が隆盛に向うきっかけとなった魚籃観音を琴平神社に合祀、あわせて浅草宮大工による最高級子供神輿を奉納、毎年5月5日の例祭日に地元の子どもたちが町内を渡御することになった。祭りを実施するに余りある資金も奉賽されたほか、これまで毎年欠かさず協賛金の御奉仕を受けている。最初の年、私も当時中学2年で参加し記念の写真が残っている。(写真を見ると、五町内の他に宮町、菖蒲沢の子供もはいっている。)以来56年、子どもたちによる神輿渡御は続いてきた。
五町内が粡町と仲の丁、足軽町と久保、横町の子供育成会が三班交代で実行委員会をつくり子供神輿を繰り出してきた。今年は横町が当番。子供のいる家庭が3軒、小学生の数も10人足らず、しかも一軒は法事と重なって祭りに参加できない。実は数年前から軽トラックの荷台に載せての神輿渡御になっていたのだが、もうそれだってたいへん、という気持ちが準備段階で表明されていた。しかし今年はなんとかがんばって、あとは反省会であらためて考えようということで迎えた20日の反省会だった。
けっこう長時間いろいろ話されたが、要するに「子どもたちにとって昔のお祭りは楽しかった。みんなでわいわいやるのもいいし、何よりいろんなものを貰えるのがうれしかった。今は何を貰っても別にうれしくないし、せっかくの連休、家族で出かけた方がいい。」たしかにそういうことなのだ。楽しくなければ祭りでない。としたら、今の子どもたちにとって祭りが楽しいものになるにはどんな祭りだったらいいのだろうか。来年までそのことを真剣に考えてみよう・・・という結論になったのでした。
【追記 30.5.6】
昨日がお祭り。地区長代理で参列してきました。時折激しく雨が落ちてくる寒いお祭り日でした。結局、子供神輿への子どもの参加は叶いませんでした。地区内4ヶ所に設けられた祭場に15分ぐらいずつお飾りして参拝していただく形でした。
出御。紅白幕に雨雫。
還御。
祭事終えての直会。冷たいビールでは寒くて・・・
火伏せの神様のお祭りらしい雨模様。これまでは神輿に参加の子ども達を慮って雨を降らさなかったのかもしれない。
帰る頃、青空が。
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