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吉野石膏の歴史(6)儲かってしょうがない [吉野石膏]

須藤恒雄会長.jpgインタビューの中でいちばんおもしろいのがここだった。「儲かって儲かって、もうどうしようもない」、須藤会長のいかにも痛快そうな話しっぷりが今でも思い浮かぶ。
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   建材用ポードヘ
(衣袋監査役)進駐軍宿舎用の石膏プラスターというのは昭和22年まで。私は23年春に米沢工専(現山形大工学部)を卒業したんだけども、会長が採用してくれない。ようやく十月に「そろそろボード始めるから来い」と言われてね、上京したんだけども、そこからボード製造が始まった。だから僕が入った時はプラスターはなんにも無かった。
(進駐軍用のプラスター生産も永久には続かなかったわけですねぇ。)
 ああ、もちろん一応宿舎が出来てしまえばね、そのあとはもうガタッと無いわけだ。それで建材用のボード製造に取り組んだ、競争会社作ってだねぇ。
 そうしているうちに、アメリカに研修にやっていた技術屋が、石膏ポードにプラスターを塗る技術を開発した。石膏ポードに孔を明けてプラスターを塗ると、剥がれないわけだ。そうすると従来の土壁だと一カ月もニカ月もたたなければ乾かないのに、石膏ポードにプラスターを塗ると一週間ぐらいで乾いてしまう。それが「ラスアンドプラスター」でね、孔の明いたポードがラスポード、それにプラスターを塗って「ラスアンドプラスター」(今は孔
を明けるまでしない、へこますだけだが)。
 それで今度は、進駐軍用のプラスターじゃなくて、本当の、戦後日本の復興建築用の建材になった。
(日本の家屋も復興需要が出てきた?)
 ああ、それでみんなラスアンドプラスターの壁になったから、物凄く売れるようになった。
   東北吉野石膏㈱設立
                   ・
  それを今度は三菱系統の会社が、吉野石膏が面白いことやってる、じゃ、俺んとこも、というんでね・・当時は、原石ではなくて化学石膏だ。大日本人造肥料 (のちの日産化学工業㈱)が燐酸肥料を作る時に出る燐酸石膏を、宮内の工場に持ってくるわけだよ。色は黒いけども、石膏としては100%いいものだ。それ で東京に引っ越してきたのが、大日本人造肥料の傍の荒川土手、大日本人造肥料工場の川向かいだね。そういうことで、燐酸石膏
を大量に使うことが分かっていた。
  それで今度は、三菱系統の東北肥料㈱がね・・ここも燐酸肥料を多量に作っていた。それで副産される石膏の処分に困っていた。だから「ただでもいいから、こ れをなんとかしてくれ」と言ってきた。で、東北肥料と合弁の東北吉野石膏㈱という名前で秋田に工場を作った。そうしているうちに、こんどはプラスターばか りでなくポードも、というわけでボード製造機を持ってってボードも作るようにした。これが合弁企業第一号となったわけだね。
 金はこっちで保証すれば何千万でもすぐ出してくれるから、資金は一切出すことない。その代わり、製品の品質、販売は吉野石膏の責任で、ということなんだね。合弁会社第一号の相手が三菱系列の大手企業・東北肥料㈱で、それが昭和34年のことだった。
吉野石膏売上高の推移.jpg   儲かり過ぎてね!
  最初は石膏代など、ただでもいいということだった。捨てるのに運賃だけでもトン何百円もかかる、大変なもんだからね。ただでもいいっていうんでやったとこ ろが、儲かり過ぎてねぇ。みな税金に納めるんじゃ勿体ないというわけで石膏代金、原料代として1トンについて二百円か、二百五十円かナ、払うことにした。 それでも儲かり過ぎるんで、六百円で計算することにした。それじゃ、吉野石膏も取れと言われたが、当座、吉野石膏は儲かっていたもんだから、余計な利益あげて税金取られても、というわけで、「いずれ吉野石膏が困ったときに利益をもらうから、この際遠慮する」って、利益の配分は遠慮した。
工場.jpg   菱化吉野石膏㈱誕生

 そういうことを、当時三菱化成(今の化学)の専務が東北肥料㈱の役員をしていて、その人が「面白い会社だ」と見ていたんだなぁ。それで、「俺のところ(三菱化成)に九州に大きい工場がある。そこでも、副産石膏が出て始末に困っている、吉野石膏を使ってボード工場を作ろう」というわけだ。
  ところがね、九州には既にうちの工場が作ってあった、昭和30年かにね。それで九州では無理だ、と。では大阪にしようというんで大阪湾岸をずっと見たんだ けども、まだ造成なんていうのは全然無かったんだねえ。それで、姫路の近くの高砂というところにね、軍需工場が閉鎖になって空き地になっていた一万八千 坪、ちょうどボード作るのにいい場所があったので、その空き地を買った。
 川っ淵で1000トン以上の船が入れる岸壁もあったもんだから、そこに三菱化成と東北吉野石膏を一緒にして「菱化吉野石膏㈱」と名前を変えて、その秋田工場と高砂工場ということにしたわけよ。で、高砂工場に、秋田工場と同じ設備をすることにしたわけだ。ところが、その時既にアメリカでは、吉野石膏とは全然違う機械でポードを作っているということを、うちの技術屋は皆わかっているわけだ。そ したら三菱側が、分かっているんならアメリカ式にやれ、二億三億余計に掛かったって全部化成が保証するからというわけで、本当に新鋭の工場ができた。 アメリカタイプのオートメーション設備、日本第一号なんだ。これが非常にうまくいったものだから、従来のポードは間題にならなくなった。それですぐに東京 工場にも、高砂工場より更にいい設備を吉野石膏単独で作ったわけだよ。  

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  『吉野石膏90年史』から
 観世音菩薩に信仰厚い永次社長は、太平洋戦争戦死者の慰霊のため、郷里の長谷観音堂の大修理を行うとともに供養塔を建立した。完成後の6月13日、地元有 力者の遠藤常五郎、山口吻七、佐藤義一、伊藤長太郎、渡部孝一,遠藤梅吉、石黒七三郎ほか町会議員各氏の協賛を得て、東京・浅草寺の大僧正大森師の一行を招き落慶法要を営んだ。戦没者の諸霊があってこそ我々が今日、各々の職分を全うし得るものと感謝の意を捧げ、平和を願う趣旨によるものであった。

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「宮内歌碑めぐり」より)

06 長谷観音全景.jpg

 置賜三十三観音三十番札所の長谷観音。西暦千六百年の長谷堂の戦いで、直江軍が持ち帰ったともいわれる観音像が秘仏として祀られています。

 

07 長谷観音信綱歌碑.jpg

ここには、「置賜は国のまほろば」の歌碑などとともに、文化勲章の第一回受賞者、佐佐木信綱の歌碑があります。「宮内戦没者供養塔」の傍らにあって、戦争で散っていった若い命を悼み、「長谷のみ仏」への祈りが捧げられています。

 

08 長谷観音全体像.jpg

 

    長谷の御仏  佐佐木信綱

  国のため 玉とくだけし ますらおを

        とはに守りませ 長谷の御仏

 

10 佐佐木信綱と須藤るい.jpg

 一生を歌の道と万葉集の研究に捧げ、唱歌「夏は来ぬ」で知られる佐佐木信綱、その歌碑は全国に数多くありますが、四基もあるのは宮内だけだそうです。吉野石膏の創業者須藤永次の奥さんのるいの、歌の先生だったのです。



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