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吉野石膏の歴史(4)むかしのことなど [吉野石膏]

恒雄会長.jpg   米沢藩の気風

 宮内のあの辺っていうのは、多勢亀五郎なんて貴族院議員になった素晴らしい人もいる。色々な人がいるけども、あの土地にいての成功でね、事業家で中央に出て成功した人はあまりいないんだねえ。
 米沢藩っていうのは、大体が質素倹約、質実剛健、金側けなんていうのは藩の教えに無かったんだね。だからみな軍人とか学者。学者、軍人は出ているけどもですよね。ね。それから日銀総裁になった結城豊太郎、池田成彬、宇佐美洵、その外学者も、酉置賜あたりからも有名な人が出ている、しかし金儲けするなんていうのは、卑しむべきことという教育だったから、みな軍人や学者になったんだねえ。
 事業家で、東京に出てきてなんとか格好がついたのは須藤永次ぐらいだろう。あとは、最近では川崎電気か。川崎電気は中川か?初代社長が、本社を東京に移すな、と言ったんだね。それで今も中川の方が本社だ。だから、南陽市に税金を納めるんでは一番だろう製糸関係は駄目になったからねえ。

   全てが一万倍?
吉野町.jpg うちが東京に出てきて六十三年になる。昭和十年だったからね。うちの倅(現社長永一郎氏)は宮内で生まれてるんだ、昭和九年に。私は昭和六年に学校出てから足掛け五年は宮内町にいたから。吉野の石膏山に行ったり六角町の工場で、経理の方をやっていた。
 当時はねえ、職人の日給なんちゆうのは、良い分で一円だ、朝七時から夕方五時まで働いて。休みの日は出ないから月二十三円位。
(それで生活できたんですよね。)
 出来たよ、もちろん。酒が一升一円もしなかったんだから。米がねえ、高橋源内商店から買って石膏山に運んでたんだが、記憶にあるのはね、良い分で一俵八円だったもの。四斗、六〇キロか?それで外米が南京米、南京米って言ってたが四円八十銭。ところがねえ、外米は麻袋に入っていて匂いがしたもんだよ。
(外米も食べていたんですか?)
 ちゃんぽんにしてね、食べていた。そういう時代だったよ。昭和六年から十年頃はね芸者あげて、二時間半で一円だった。
(芸者さんがいたんですか?)
 いっぱいいたよ。赤湯まで連れていかれたことは無いけども、笠原とか宮沢とかって、ついて歩いたなあ。あとは芳武に行ったり、もちやか?あの角の店。腰掛けて一本飲んで・・・そんな時代だった。
 一日一円の収入があるなんて良い方でね。そういうこと考えると、今はすべてのものが一万倍だね。
 大学卒業して、月給五十円もらっている人なんていうのは、珍らしかったからね。学校の先生なんていうのは優遇されていたが、それでも師範学校出て三十五円か四十円位だ。一般のその辺に勤めている人は、良い分で二十円か二十五円。
(衣袋)私は昭和十二年から十八年まで米沢工業に居たが、その間月謝はずIっと五円だった。全然変わらず五円。下宿代はどの位だったかなあ。
 我々は下宿料が十五円から二十円取られたな。
(すると、当時学校に上げるっていうことは、大変なことでしたねぇ。)
 大変よ!下宿させるなんていうと。
(当時福島高商に進む人など、めったにいなかったんですね。)
 いなかった。めったに入れてもらえないわけよ。
(会長は、子供の頃からずっと、上の学校を目指しておられた?)
 俺はねえ、福島高商なんてのは、全然考えていなかった。東京の学校に行きたくてねぇ。当時はね、慶応などは金持ちの学校だから駄目だ、早稲田がいいってんで、早稲田に入りたった。当時、左の方(思想的に)が盛んな時だったから。ところが東京は駄目だ、っちゆうんで、福島に入れられたわけだ。早稲田なんて入ってると、今頃は左の方でねえ、ハハ・・・。、
どうなっていたか。そういう時代だったんだよ。
   関東大震災の頃
 昭和三年に長井中学を卒業した。高等一年から中学に入ったから、中学一年の時に関東大震災があった、大正十一年ね。ちょうどそのあたりに、長井線が荒砥まで行ったんだよ。長井線なんて言うのは、マッチ箱列皐でね、初め乗った箱から他の箱には移れない。貫通列車じやないからね。冬は薪ストーブ焚いて走っていたんだ。
 その長井線で荒砥まで行くようになったのが中学一年の夏休み近く、五、六月ごろだったかな、それまで中学まで自転車で通った。三里あるけども、自転車で一時間掛かんないで行ったんじやないかな。
 そして夏休みも終って、九月一日、ガタガタ揺れた記憶がある。関東大震災の日だ。そして毎日毎日、東京から逃げて来た人が荒砥駅に降りたもんだよ。相当の人が東京に出て、働いていたから、どんどん逃げて来たんだね、焼け野原になったわけだから。
(当時、大震災のことなんていうのはラジオで知ったわけですか?新聞?)
 ラジオなんてあったかな、あんまり無かったろう。詳しい状況なんていうのはなかなかわからない。逃げて来た人から聞くぐらいでね。
 長井中学では、芳武茂介と一緒だった、三年前に亡くなったが。宮内では外に二人居ったが、小田仁二郎とか新聞によく書いてる金山の大竹?(俊雄)、彼らは、二級下だから、全然一緒に行動したことなどは無かったねえ。  (つづく)
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『90年史』より

循環リサイクルシステム

 リサイクルのシステムは二つのタイプに分類される。
 その一つは、例えば「新聞や雑誌」が回収されて他の用途である「段ポール箱」に姿を変え、再生されること。もう一方はデルミ缶」が回収されて、再び同じ「アルミ缶」に再生利用されるタイプ。
 この後者のタイプは、単純な資源リサイクルではなく、再び同じ機能価値を生み出すという、[循環リサイクル・システム男なのである。
 平成8年4月、吉野石膏㈱は『再生’利用業」の厚生大臣認可を受けた結果、建築現場から出る「せっこうボード端慰を、再びその生産された工場に回収して、「タイガーポード」の原料として活用できることになった。
 「タイガーポーどは単なるリサイクル資材ではなく、端材の回収後も、無駄なく活用される『循環リサイクル・システム型」の建材なのである。
 地球環境とリサイクルが世界の合言葉となったこの頃、「タイガーポード」はこのように21世紀に向かっての注目に値する産業資材として評価されるに至っている。
2.練磨小.jpg

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