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吉野石膏の歴史(1)戦前 [吉野石膏]

朝のドラマ「まんぷく」を見ていて「吉野石膏のすごさ」の記事を書いた。吉野石膏が他社にノウハウを提供して石膏ボード業界を立ち上げたように、まんぷくラーメンも製法特許を公開して即席ラーメン業界を立ち上げた。同じ展開だった。めでたし、めでたし。
平成9年に、宮内腰廻の吉野石膏須藤家別荘で須藤恒雄会長にインタビューした記事を探し出した。このまま埋もれさせるのがもったいなくてそっくり転載することにしました。『週刊置賜』平成9年12月6日号からです。
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須藤恒雄.jpg一郷土があって今日があるー
むかしのことなど
南陽市名誉市民/吉野石膏(㈱)会長 須藤恒雄
石膏建材メーカーのパイオニアとして広く知られる吉野石膏(㈱)の1世紀に近い歴史が、南陽市宮内から始まっていることを大切にし、「郷里があって今日があ る」と南陽市の振興発展に貢献している同社の須藤恒雄会長が、この春(平成9年)名誉市民の称号を贈られた。若い世代にこの大企業と郷土との関係を改めて 知ってほしいとこのほど、宮内菖蒲沢の別荘に滞在中の同会長に昔話を伺った。

   馬車の時代だよ

(きょうは、吉野石膏と南陽市、特に宮内との関係についてお伺いしたいのですが。)
 それはねぇ、『吉野石膏90年史』っていうのに詳しく載ってるから、あとで送ってあげよう。まあ、その本にも載ってないようなこと、少し話そうかね。
(お生れは?)
 生まれはねぇ、今の白鷹町。西置賜郡東根村畔藤というところ。もちろん百姓の生まれでね、うちの母親と初代(須藤永次翁)が身内という関係から、養子に入ったわけだ。
 私は、今の福島大学経済学部が福島高等商業といった時代の卒業生でね、昭和6年に卒業すると、吉野石膏の仕事をやれと言われ、その四月から仕事をさせられた。
(石膏というと私などには彫刻ぐらいのイメージしかなかったのですが。)
 お、その彫刻。彫刻用とか、洋食器など陶磁器の型用とか、昔のピルにはよくシャンデリアが飾られていて、その周りにジャバラといって石膏の彫刻が施してあったが、そういう飾り用の石膏、それから歯科用とか骨折した時のギブス用とか色々あった。
 宮内の六角町にね、焼石膏の工場があったんだよ。六角町の内原寄りの所に広い場所があって、そこに吉野石膏製造所の焼石膏工場があった。ぞれであそこが吉野町になったわけだね。
石膏鉱山.jpg 吉野村の荻に鉱山があってね、掘り出した原石をきれいに洗って、馬車で持ってきた。一俵16貫60キロの俵を積み上げて吉野鉱山から馬車で運んだんだなぁ。多い時は一日22,3台の馬車が入った。
 当時はやっと馬車が通るような、舗装も何もなってない細い道で、石ころを越えられなくてみんなで後押しした、そんな時代だったな。吉野までバスが通るようになったのは、よっぽどあとだからねえ。
(それだけ馬車が行き交う吉野街道は、活気があったでしょうねぇ。)
  ああ、うちの外に日本鉱業の日板鉱山って銅山があった。元々吉野村っていうのは、金銀銅の鉱床になっている場所なんだね、あの辺一帯。黒物鉱床と言って ね。その鉱床の中に石膏がある・・・米沢出身の戸内応助という人が、探鉱をやって石膏にぶつかった。それを掘り始めたのが一九〇一年、明治34年だ。良い 石膏が出たんだね、アサノセメントの東京工場に売っていた。
 
   非常に上質の石膏

石膏原石.jpg(質の良い石膏が出たんですね?
  非常にね。それで、こんなに良い石膏をセメントに使うのは勿体ない、ということになった。セメントの石膏というのは、原石のまま粉砕して入れるわけだか ら、それでは勿体ない。これを焼石膏にして出すと歯科用とか彫刻用として、まだまだいい値段で売れるから、そうやれ、とアサノセメントの人に教えられ、戸 内応助は、焼石膏工場を作った。ところが初歩だから、とんでもないやり方で焼石膏を作っていたらしい。だけんどもその石膏は非常に良くて、そちこちから注文が来るようになった。
 というわけでね、それを見ておったのが、東(あづま)銀行の石黒さんなんだ。
(石黒七三郎さん?)
  今で言うと支店長かな、東銀行の。頭取は竹森の長谷川さんだった。その石黒さんが、非常に面白い仕事だということに気が付ていた。そうこうするうちに、戸 内応助が病気などで事業不振になり、親しか(数行不明)自分ではやれないから、須藤さん買ってもらいたい」と頼み込んだ。言われて親父は、自分も金なんか ないんだから、石黒さんに相談した。非常に可愛がってもらっていたもんだからね。
 ところが石黒さんは、必要な金は出してやるから、山から工場から一切買収しろと言われたんだね。
   初代の若い頃

(それまでお父様は、石膏の方には関わっておられなかったんですか?)
吉野町.jpg 石膏なんか全然関わっていなかった。うちの初代っていうのはね、数え年十五歳の時に荒砥の絹織物問屋大友商店に奉公、年期が明けて帰郷して独立、そちこちの製糸工場に出入りしていわゆる屑物を扱っていたんだな。
  ところで、親父は大友商店におる間に始終、東京に仕入に行っておったんだね。色々なことを見、考えるようになっていた。当時、製(数行不明)料は薪で、非常に苦労していた。親父はたまたま東京に出入りしていた間に、石炭というものが燃料として最高にいいものだということが頭に入っていた。それで石炭屋を始めたわけだ。
 それにはね、アサノセメントの浅野総一郎がやっている磐城炭鉱が、この辺では一番有名だ、というわけでね、浅野総一郎の所に頼みに行くんだなあ、やらせてもらいたいと。
  売り先は、自分がたくさん製糸工場を知っているから、そこに入れるだけでも何トンでも売れる筈だ、ということでね。そこで、やってみろと言われるわけだ。
  それでねえ、景気が良くなった、儲かりすぎるほど儲かったんだねぇ。そうすると少し、こんなになってね(こぶしを鼻につけてテングの格好)、俺だって製糸工場位経営できる、というんで、製糸工場に手を出すわけだ。
 製糸工場に手を出して、(数行不明)んあったわけだから、仲間集めてね、「生糸っていうのは、支那から始まったものらしいから、一番の元の国の状況を視察しよう」というわけで、昭和4、5年頃かな、世話役になって団体組んで、中国に行ったん
だね。
  中国に行ってる間に、昭和初めの大不況にぶつかった。そしてその仕事が大暴落に遭って、ニッチもサッチもいかなくなってしまった。それで自分の住まいから 何から全部、住居もせっかく作らせたんだがね、すべて東銀行に渡して、ここ(現在の菖蒲沢の家)に引っ越して来るんだねえ。ここはね、親父が小さい時に、 よく母親に長谷観音に連れて行かれて、ここを通ると非常に穏やかないい風景でね、梅の花が咲いていたり、水車小屋なんかもあった。非常にいい所だというこ とが頭にあったんだね。それで、借金をして小さな家を建てて越してきた。
   石膏事業に専念
  親父は、小さい時から気に入っていた土地に、借金して建てたこの家に落着いて、さて考えてみると、自分は黒(石炭で儲けて、白(生糸)で全部失くして、 残ったのは石膏の工場だけ。石膏の工場も全部石黒さんに渡さなくちゃいけないというんで、石黒さんにそう言った。その時に石黒さんは「これだけは、お前が 全部石膏の販売をすることとは任せるから全部やれ」と言われたんで、石膏工場だけは残ったんだね。
 ところがその頃、よその会社は原石を 山から掘ったりするんじやなくて、輸入石膏になっていた。その方がコストも安いし、山なんか当てにしないで輸入石膏にした方がいい、ということを仲間から 教えられて、それではここ(宮内)にいては駄目だ、というのでね、外国から原石が入るに一番便利な横浜港の近くに工場を作って、そこに引っ越そう、という 風なことを考えていた。
 その矢先に、大日本人造肥料って会社が、燐酸肥料を作る時にI?燐鉱石から燐酸を取って加工して、燐酸肥料というものを 作っていたんだが・・・その時に副産石膏が大量に出るということが分かった。ただ、これが黒くて使いみちがない。石膏なんて、白いから使いみちがあるわけ で、黒い石膏なんて誰も相手にしない。白いほど良い石膏になってるわけだからね。
  そういう状態の時に、これをうまく使ってみてくれと、うちの販売店がね、10トン車で宮内に寄こしているんだ。当時、宮内には東京工大(当時の蔵前高工) 出身で、陶磁器会社から親父が譲り受けた優秀な技術屋がおって、俺と一緒に寝泊りしていたんだよ。彼が分析してみたところ石膏としては最高の値打があると いうんだなあ。
 それではというんで、ボード用としてタイガーボードの東洋建材に売ってたわけよ、何十トンかずつ毎月ね。紙と紙の間に石膏を包んだのがボードだから、色が黒いだけで石膏として値打ちがあるというんで、試作してみたら非常に立派なものができたんだな・・・。
(ポードって、ずいぷん昔からあったんですねぇ。)
 燐酸石膏を使うんだったら、原料工場の傍に行った方がいい、というわけで、足立に荒川放水路を挾んで、大日本人造肥料の反対側、橋を渡って反対側に土地を借りて、急逮うちの工場が行ったわけ。
(当時、会長さんは宮内でお仕事を?)
 そう、俺はね、学校を出た昭和6年から7、8、9と・・・・10年の秋あたりかな、東京に行ったのは。その前にすでに社長は東京に住んでおったからね。大井町に住んでおったな。
  大日本人造肥料というのはね。戦争中に日産系統の会社に変わり、現在の日産化学工業となった。その大日本人造肥料時代に、有り余っていた、副産物で捨て場 所に困っていた石膏を、まだトラックのない時代だから馬車や牛車で運んだんだね。そのうちにちっちやい三輪車が出て、それから小型トラック、四トン車なん かが出て来るんだけども、それでボード用の石膏を運んだ。
  もちろん、良いものはここ(宮内)から持って行ってたし、外国から輸入したものは―輸入した原石は、こIんな塊りのすごい立派なもんでね。これはやっぱり 横浜で小さな艀(はしけ)、20トンか30トン位かな、そんな小さな艀を何艘もつないで、日産化学の岸壁まで引っぱって来たんだねえ。
 だから、だんだん、こっちへ吉野村の石膏鉱山)は要らなくなったもんだから、昭和14年かな、操業をストツプしたわけだね。
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    『90年史』から

 吉野石膏製造所・須藤永次社長がボード事業に着目した昭和7年当時の事情を『吉野石膏90年史』から抜粋すると………
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 当社東京支店の最大需要先であった日本タイガーボード製造合資会社(東洋建材工房所改め)の石膏代金1万6千円が、焦げ付き、債権となった。同社は三菱出資の合資会社だが、すでに負債が20万円ぐらいに達していた。
 経営は破産状態であったが、製品のタイガーポードは優良で依然有望な建材であり、原料メーカー経営者としての永次は特に「石膏の性能からみても、石膏業者として当然やらねばならぬ事業ではないか」「やりようでは必ず大成できる」と確信を抱いた。
  ただ、現実に破産の運命にある会社だけに、慎重に対処しなければならず、債権を盾に経営権まで取得できるかも疑問である。そこでとりあえず、半年間の委託 経営を引き受けることとし、ポードの製造工程、販売方法等について鋭意視察研修した。そうしたなかで、代表者をはじめとする重役陣がボード事業の再建に熱 意を失っていることも知りえた。
  日本タイガーポードの主取引銀行である日本興業銀行も、同社は再建の見込みなしとして、競売に付することが決定していた。
  競売に当たって応札したのは当社と日建製紙の二社だけであった。日本興業銀行としては、石膏メーカーである当社に好意的であったことも幸いして、借地権、 建物、什器、電話、機械設備一式現状のまま、一万三千五百円で落札することができた。これが、当社のポード事業が今日ある決定的な分岐点となった。
  永次は、ボード事業を吉野石膏でやるべきであると確信し、引き受けることになった経緯を、石黒七三郎に相談したが、経験のない、しかも破産となった事業に リスクを負ってやるべきでないと反対され、やむをえず氷次単独で同事業に挑戦せねぱならなくなり、昭和7(一九七七)年六月に、日本タイガーポード製造合資会社の代表社員となった。これに伴い、東京在住のためひとまず、大井町の某土建会社の別荘を借り、その後、世田谷区上馬を経て足立に新居を構え、新事業 に取り組むこととなった。
 タイガーボード製造・販売事業は、昭和8年四月一曰、従来の日本タイガーポード製造合資会社を改組し て、日本タイガーポード製造株式会社とし、資本金十七万円で発足させた。工場は、旧来の戸越工場を継承した。おりから、日本経済も昭和恐慌を脱出しつつあった。
  昭和9年、山形県吉野村の吉野石膏鉱山は、水害により竪坑が陥没する事故にあった。石膏工場では、シシリー島より外国原石を輸入し、又、大日本人造肥料工場の石膏も初めて使用した。外国原石輸入は、同業では日東興業、サンエス石膏が昭和8年頃から行なっていた。この事故を契機として、かねてから永次の頭にあった、石膏工場の東京移転が促進されることとなった。
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