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訃報 流政之さん [小田仁二郎]

JIN No.3.jpg5日前に知った訃報です。小田仁二郎関連でメモっておきます。仁二郎没後間もなく寂聴さんによって発刊された「JiN」全三巻の表紙が流政之作品でした。手元に第3巻があります。小田が中心の同人誌「Z」の表紙も流作品でした。寂聴さんの『場所』(新潮社 2001)「西荻窪」の章にこのことが書いてありました。
《私は小田仁二郎を中心にして、新しい同人雑誌を始めた。「文学者」の中で、吉村昭、北原節子(津村節子)の夫妻が入り、吉村さんの学習院時代の友人で「赤絵」の同人だった鈴木晴夫と、小学館の編集者で私と親しかった田木敏智が参加した。他にも何人か呼びかけに応じてくれたが、最後に残ったのはこれだけだった。/ 編集会議のため、同人たちが、小俣家の離れを屡々訪れるようになった。きん女は訪問者が多くなったのを景気がよくなったと勘ちがいして喜んでくれた。/ この下宿に移ってほどなく、ある日私は近所の質屋叶屋の人口で、質種の蚊帳を肩にかついだ長身の男と出会った。それは京都油小路三条の大翠書院時代、常務だった吉田政之輔だった。会社がつぶれて以来、彼も上京して、本来の望みだった彫刻家への途を志している。名前も流政之と改めていた。どんな場所や境遇にいても、性来の美貌と姿の好さは際立っていて、何気なく着ているものも、垢ぬけて人目を引いた。/ 上京以来、すぐこの近所に下宿しているという、奇遇に喜んで、それぞれ質屋で用を果した後、つれだって私の下宿へ帰った。/ それ以来、流政之は度々立ち寄るようになり、仁とすっかり意気投合して、夜遅くまで話しこむこともあった。「文学者」では煙たがられ、友人もない小田仁二郎は、非社交的な性格とばかり思いこんでいたが、小説家以外の人々にはすぐ好かれ、信頼されるという一面があったのに、その頃私はようやく気づいてきた。/ 新しい雑誌の構想がまとまり、誌名は終りから始めるという意味で「Z」とつけた。表紙は流政之のオブジエを村井修の撮影したもので飾らせてもらうことに決った。》(176-177p)
小田と流の関係が、小田と井筒俊彦との関係に重なります。(→井筒俊彦夫妻と小田仁二郎・瀬戸内寂聴さんとの交流
訃報記事の中で寂聴さんが語っていました。
将来語り合う仲 お互い、無名だった頃からの知り合いで、「いつか世界的になる」と将来を語り合った仲でした。いつかまた会えると思っていたけれど……。流さん、待っててね。》毎日新聞
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彫刻家の流政之さん死去 サムライ・アーティストと評価

2018年7月17日19時32分

https://www.asahi.com/articles/ASL7J53JDL7JPTFC002.html

 米ニューヨークの世界貿易センタービルにあった「雲の砦(とりで)」などの作品で知られる彫刻家の流政之(ながれ・まさゆき)さんが7日、老衰で死去した。95歳だった。故人の遺志で葬儀は行わない。香典や供花は遺族の希望で辞退している。

 長崎市生まれ。零戦のパイロットとして終戦を迎え、独学で彫刻を学んだ後、62年に渡米。600トンの石を使った巨大な壁画「ストーンクレージー」などの作品を手がけ、「サムライ・アーティスト」として注目を集めた。75年に帰国し、高松市庵治(あじ)町に設けた工房を主な拠点として、制作活動を続けていた。

 三味線のバチのような形の「ナガレバチ」や、人間の胴体部分が空洞になった「サキモリ」などの代表シリーズがあり、大阪・梅田の阪急三番街、神戸のメリケンパークなど、各地に作品が残る。日本建築学会賞や日本芸術大賞、中原悌二郎賞、吉田五十八(いそや)賞などを受賞。日本アカデミー賞のトロフィーのデザインも手がけた。

 長女で画家の麻二果(まにか)さんは17日、「アーティストとして生きるということを、その全てを以って教えてくれた父でした。これからも変わら ず父の作品は生き続けます。世界に、日本の各地に存在する作品を愛でてくださることが父の遺した願いです」などとするコメントを発表した。


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