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小田仁二郎『触手』はどう評価されているか―その文学史的意義(「小田仁二郎と宮内」展) [小田仁二郎]

「南陽発信 世界に届け!鷹山公精神」展と併催する「小田仁二郎と宮内」展の展示データ第3弾です。これでなんとか形が整いました。

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『触手』はどう評価されているか―その文学史的意義

 

福田恆存1912−1994


当時気鋭の評論家として注目されつつあった福田恆存による巻末解説の影響が甚大だったのではないかと思われますが、『触手』は発刊当初から多くの注目を集めたようです。

 

《小田仁二郎という作家は、戦後のある時期まで、純文学を信仰する文学青年のあいだでは、伝説的に語り伝えられる存在だった。》上田周二『時間と空間』第16号 昭60

《戦後の非常に印象的な名作に、小田仁二郎の「触手」があります。福田恆存が興奮して有名な解説を書いた。ことし(昭和55年)復刊された深夜叢書社版の略年譜にも、その一節が引用されています。最初の真善美社版は、長い間、古書界に高値で君臨していました。これを読んでいなかったらバカにされた時代、というのが確かにありました。》(谷沢永一「エロチシズムの発掘ベスト95」『読書清談 谷沢永一対談集』潮出版社 昭59

 

では、『触手』の巻末に付された福田恆存による解説とはどのようなものだったのでしょうか。

 

《すぐれた芸術作品は註釈や解説を必要としないといふのは半面の真理にすぎない。とはいへ、解説なくしては誤解や拒絶にあふといふのも、やはり作者の不幸であらう。小田仁二郎はさういふ不幸をまぬかれぬ作者のひとりとおもはれる。・・・「にせあぽりや」や「触手」はヨーロッパ文学の今日の水準に達してゐる作品であり、その土地に移し植ゑても依然として新しさを失わぬものであるにそういない。》

《近代人の感覚は既成概念や意識の歪曲にあって、すっかり摩滅し、死にはてて居る。小田仁二郎はいま、なんら既成概念も先入観もなくはじめてこの世界にはいってきて、感覚以外のなにものも隔てずにぢかに現実に接触する嬰児の、あの原初的な一人称を回復せんとくはだてるのだ。》(福田恆存「読者のために」 『触手』真善美社 昭23

 

近代は自我が際限なく肥大化する時代でした。それは資本主義の精神と表裏一体です。資本主義は内在的に「過剰・飽満・過多」を求めて止みません。「強欲」の文化を産み出しました。自我の肥大化は「事実」を見る目を曇らせます。自慢話など誰も聞きたくないのに本人はまったくそのことに気づくことができないのといっしょです。小田仁二郎は、ほんとうのリアリティとは何かを求めつづけました。そしてたどりついたのが「感覚以外のなにものも隔てずにぢかに現実に接触する嬰児の、あの原初的な一人称」だったと福田は言います。その成果が『触手』です。しかし一挙にそこにたどりついたのではありません。小田は自分が生まれて通ってきた世の中について、いちばん身近かであるべき他者である「お母さん」体験を通して検証します。そしてそれをいったん根底から叩き壊すプロセスが『にせあぽりや』です。確かなリアリティに裏付けられた真実の言語世界は更地の上に打ち樹てられねばならなかったのです。「小田仁二郎の試行は近代を根底で突き抜けた」、福田はそう評価したのでした。だからこそ、近代の弊がもろもろ明らかになりつつあるいま、時代はようやく小田仁二郎に追いついたのです。ほんとうに小田仁二郎のすごさがわかるのはこれからです。

 

高橋和巳1931-1971


福田恆存の延長上にあるのが髙橋和巳による評価です。高橋は『触手』を埴谷雄高の『死霊』と対極に位置づけます。『死霊』は、自分の観念の世界を実在するものと見なして構築された難解極まりない、半世紀を費やして執筆された未完の小説です。『死霊』の第一巻は、『触手』と同じ年に同じく 真善美社から発刊されました。

 

《戦後文学は、その端緒には目くるめくような幅をもった。作家の文壇的所属を無視して、その作品を作品のもつ意味からいえば、その幅の両極は、埴谷雄高の『死霊』と小田仁二郎の『触手』に代表された。・・・創作面での、従来比類なき観念の極限化による形而上学小説『死霊』と、もっとも原始的な感覚まで後退して〈家〉の崩壊を息づまるように描いた『触手』は、ああ、この両極端の幅こそが、ひらかれゆくべき日本文学の原野を象徴するものだと夢想させたのだった。そして、それぞれの特異な文体は、構想を具体化する方法そのものであるという正当性をもっていた。「指と、指との、指の、つけねの・・・」といった短く断続し、やがてオルガスムスのようにせりあげてゆく『触手』の文体は、家庭を規定し、またそれに規定される人間存在の性と死を少年の手さぐりのうちにあかしてゆく作品の意図と相補していた。それは確かな意味であり、それは確かな真実だった。》(「戦後文学私論」『文藝』昭和388月号)

 

種村季弘19332004


『触手』が公刊されて30数年過ぎた昭和55年、稀代の博覧強記にして“二十世紀の日本の人文科学が世界に誇るべき「知の無限迷宮」の怪人” と言われる種村季弘が、「にせあぽりや」にまで深く立入りつつ全体の構造を提示した後、その読後感について次のように書いています。

 

《主題からいえば酸鼻をきわめる血の頽廃を書いた自然主義小説にそっくりでありながら、・・・すべてがもはやない世界として現前しており、・・・これから先もあり得ない世界として現前している。書かれた内容を裏切って、作品の読後感が一種あえかな王朝風のみやびを喚起するのはそのためだ。あえていうなら『桜の園』の透明な終末感、いや、見渡せば花も紅葉もない藤原定家の匂いたつ虚無の香りが、血と精液にまみれたむごたらしい宴のあとに立ちこめる。死母の巨大な汚洞は、それが生み出した無惨な人間と現実を呑み込み破壊しはするが、同時に言語として虹のような七彩の夢を吐き紡ぎ出すのである。それかあらぬか「触手」の文体は、どこか一切が終った後にはじまる新古今調の有心体の今日的な立ち帰りを思わせないでもない。生(なま)の官能をことごとく鏖殺(おうさつ―皆殺し)しおえた後に来る言語の官能の響きである。》( 種村季弘 文芸評論集『器怪の祝祭日』(沖積舎 昭59 初出「週刊読書人」昭55121日号)

 

さらに種村は、『触手』と三島由紀夫の『天人五衰』とは四半世紀の時間を隔てた「双生児的な並行現象」であると評価したのでした。

 

井筒俊彦1914-1993


瀬戸内寂聴さんは、平成3年秋の「小田仁二郎文学碑除幕式」の記念講演の中で、《(『触手』は)将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。》(「週刊置賜」平成4.3.21 と語りました。寂聴さんがそう言い切る背景には、井筒俊彦による小田評価があったのです。昨年生誕100年を期して13巻に及ぶ全集が発刊されるようになって、あらためてその業績の偉大さが世の人に理解されつつある井筒俊彦ですが、寂聴さんはこう語っています。

 

《井筒俊彦さんが小田仁二郎の『触手』の文章を「これは言語学的にすばらしいものだ。」というふうにおっしゃいました。どこがどうすばらしいのかを聞いておけばよかったんですけども、私はただ言語学的にすばらしいということを、コーランを訳すえらい学者が言ってくれただけでうれしくって、あ、そうですか、そうですかと言ってしまって聞いておかなかった。・・・そういうことがありました。そしてそれを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。》(「週刊置賜」平成4.3.21 

 

今年の3月発刊の井筒俊彦全集第4巻『イスラム思想史』の月報で寂聴さんは、仁二郎と井筒との出会いの経緯をたいへん印象的に紹介されました。

 

《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、

「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」

 と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、

「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」

 豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。

 その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》

 

井筒夫妻は余計な人間関係を一切断って、ご自分の成すべきことのみに専念するくらしを送っておられる方で、豊子夫人は買物に行っても店の人と必要以上の言葉を交わせないような人でしたが、小田と井筒夫婦との間での会話は「学生のような親しげな口吻になっていた。」と回想しています。井筒夫人はアラビア語からの翻訳書のほか、寡作ながら深く心に突き刺さる小説を残しておられます。白磁盒子』中公文庫 平5 

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それにしても、ちょっと見回しただけでもこれだけの評価を得ている小田仁二郎の文学世界、その中で主要な舞台となる宮内に生きつつ小田文学の世界に入り込めることのありがたさを十分享受させていただかねばと思います。小田仁二郎についての研究はまだまだこれからです。多くの方に関心を持っていただけることを切に願います。


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通りに出て北を見たら、「おくまんさまの大銀杏」がだいぶ色づいていました。
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公民館前の小田仁二郎文学碑の写真も撮ってきました。
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   触手  小田仁二郎

私の、十本の指、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずをまき、うずの中心に、はらは、ふっくりふくれている。それをみつめている私。うずの線は、みつめていると、うごかないままに、中心にはしり、また中心からながれでてくる。うごかない指のはらで、紋々がうずまきながらながれるのだ。めまいがする。私は掌をふせ、こっそり、おやゆびのはらと、ほかの指を、すりあわせてみる。うずとうずが、すれあう、かすかな、ほそい線と線とがふれる感覚。

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