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追悼 熊野秀彦先生(2) 「先師友清歓真先生を偲び奉りて」 [神道天行居]

熊野先生書簡 s60422.jpg

いま私の手元には、直接間接いただいた熊野先生の数多くの御文章、書簡、葉書、それに語られたテープ等が残る。私にしてこれだけあるのだから、いったい、どれだけの文章、言葉を残されたことか。書かれたものはすべて毛筆である。いずれも読む度に心躍り、聴く度に新鮮である。

 

修斎会で先師友清歓真先生について語られ、それが活字になったものがあった。いつどのようにして手に入ったかは定かではない。熊野先生が先師を偲んで語られたものだが、私には熊野先生を偲ぶ格好の文章だった。何回もコピーを重ねた印刷で、OCRでの読取、整理も時間がかかったが、熊野先生を間近に感じながらの、ありがたくまたうれしい作業だった。テープから起こしたそのままのものではなく、熊野先生の手が入った文章と思う。


(昭和60年3月に初めての修斎会に参加したあと、当時修道部長としてお世話いただいた熊野先生からのお手紙です。「九龍屋用箋」とある上質の和紙に、菅原道真公の漢詩と和歌が添えられています。


  秋月不知有古今 一條光色五更深 欲談二十餘年事 珍重當初傾蓋心

  君が住む宿の梢をゆくゆくと隠るるまでもかへり見しはや    菅 丞相 )


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追悼 熊野秀彦先生 [神道天行居]

DSCF8879.jpg

熊野先生御帰天」の報が昨日入った。430日とのことだった。


いつかこの時が来る、そしてその時が来た。その時とは何なのか。かみしめてみたい。


思えば、昭和の終わり、平成の始まりを、台湾日月潭で熊野先生とともに迎えた。その報告記事を書くことを熊野先生に命ぜられていた。『古道』平成元年三月号に掲載された。


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平成二十六年東北神咒奉唱大会報告記事 [神道天行居]

6月15日の務めをようやく果たすことができました。「今年は早く書くようにします」と言って引き受けたのですが、全く思いがけないことに、選挙にのめり込むことになって予定が狂ってしまいました。私にとっていちばん力をいれて書かねばならない原稿です。心の準備を整えて、と思っているうちについつい遅れ遅れになってしまうのです。年齢(とし)のせいと言ってしまえばそれまでですが、たしかに同時にあれもこれもというのができなくなってしまっています。毎日のように、書かねば書かねばと思いながら書き上げたのが10月半ばで11月号にも間に合わず、昨日届いた「古道」12月号に掲載されました。最後に「報告が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。」と書き添えていたのでしたが、それは削除なっていました。

 

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2-DSCF1561.JPG

 

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東北神咒奉唱大会(2)片倉重信宮司のお話 [神道天行居]

615日仙台青葉神社で開催された東北神咒奉唱大会の「古道」掲載報告記事を書かなければならないのだが、片倉宮司の講話のテープを起こしてからと思っているうちにどんどんどん遅れ遅れになってしまっていた。今ようやくその作業を終えたところ。貴重な話と思うのでそのまま紹介しておきます。

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3-DSCF1566.JPG
ここでこの会が行われるようになって長い年月が過ぎましたけれども、当時私の高校時代の担任の先生であった和泉先生がおられてびっくりしました。それ以来この会に対しての思いというものがずっと今日に至るまで続いているような気がします。学校時代、厳しいというかしっかりとした考えを持っておられた方で、日本の古神道そのものを教えてくれていたような気がします。その先生がこの会に所属して活動しておられることを知って、自分にとってなにか大事なものがここに隠されている気がして、私にとってこの会が私自身の修行の場としてずっとこれまできたように思います。高校時代のことですからまだ若かったんですが、いま75歳という歳になって、和泉先生のやっておられたお気持ちというのがようやくわかってきたような気が致しております。

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東北神咒奉唱大会(1)梧竹の書 [神道天行居]

615日、仙台青葉神社での東北神咒奉唱大会に参加してきた。

 

「古道」6月号掲載の清雲鴨居正恒先生の文章を紹介させていただいたことが機縁となり、たまたまその翌日手に取った黒江太郎著「窿應の生涯と茂吉」から、書聖中林梧竹が浮かび上がり、さらにその梧竹の書が神道天行居に深く関わることを鴨居先生の「清雲遺」によって知ったのが613日の朝だった。数日前届いた「中林梧竹の書」の冒頭にあった「天照皇太神」の書が、あるいは鴨居先生の御意志によって神道天行居に奉納されることになったかもしれない書であったこと、その写真版が額に入れられて晩年の友清磐山先生の机上に飾られていたということ、このことを知ったことで、わが家とはほとんど背中合わせで私が最初にお世話になった歯医者さんでもある黒江太郎さんと友清磐山先生が中林梧竹を通してつながった。

 

天行居同志が集まる東北神咒奉唱大会の前日、14日の朝、天行居と縁ある「天照皇太神」の書をなんとかみんなに紹介したくて布に染めることを思い立った。忙しい日だったが、息子の手を借りて人数分を作成した。鴨居先生の「清雲遺」のその部分のコピーとともに当日持参した。

天照皇太神 梧竹.jpg

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磐山友清歓眞先生と的伝海老塚四郎兵衛 [神道天行居]

鴨居先生の『清雲遺蹤』を眺めていたら次の文にぶつかって驚いた。先師友清磐山先生が一連の縁の中でつながってきた。


《三月十四日午前五時になくなられた海老塚的伝翁を敬悼申し上げると共に、先師との御交渉を記録しておきたい。》(『清雲遺蹤』山中人覚書 その四)


こう続く。

《的伝翁が書聖中林梧竹の研究における大家であることは世の認めるところであり、翁のことについては親しく教えをうけて、梧竹研究では出藍の誉れありとされる日野俊顯氏あたりの方がくはしいから遠慮するとして、先師と的伝翁との交際は昭和二十五、六年の頃に始まったと記憶する。》


さらに、

《『玄扈雑記』の中で、海老塚翁の手紙を引用して居られるやうに、僅かの期間ではあられたが、深く共鳴心交せられたやうである。》

 

というので、全集(第五巻)をとりだした。

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湯津磐村の精神2.jpg

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斎藤茂吉と中林梧竹、そして副島蒼海(種臣) [神道天行居]

過去からみての偶然も未来からすれば必然。いわゆるシンクロニシティ(共時性)体験。「何もかもかむながら、ますみのむすび、どうすることもいらぬ」、神道天行居の基本感覚にも通ずる。

昨日、鴨居先生の文章を書き写してアップした。書き写しつつ、あちこち関心が広がり、知ることも多かった。そのひとつ、鴨居先生の遺作集の題字「清雲遺蹤」が日野俊顕氏によることを知り、そこから中林梧竹に至った。

そして今朝、図書館から借りてきていた黒江太郎著「窿應の生涯と茂吉」を手に取って驚いた。中林梧竹が窿應和尚にとって、茂吉にとっていかに重要な人物であったかが描かれていた。

隆應和尚.jpg
窿應和尚 大正10年3月19日 彦根にて

書聖中林梧竹と茂吉をむすびつけた人は、いふまでもなく寳泉寺の住職佐原窿應和尚である。刻字の名手と称された石匠宮龜年は、明治21年に金瓶村に出張して、石碑の刻字にしたがった。そのとき龜年は梧竹の拓本一葉を和尚に示したが、梧竹の書に即座に降服して、「予一見服之」と感慨を述べてる。ときに和尚は26歳の青年であった。

茂吉は「茂吉独語抄」に「宮龜年氏は梧竹の書の拓本を持ってゐた。和尚はそれを一見して、梧竹の尊敬者になった。それから和尚は生涯梧竹尊敬者としてとほした。村民は無論、私のごとき少年も『梧竹先生』の名が脳裏にこびりついたのは全く和尚の影響であった。」と書いてゐる。


明治29年の夏、茂吉は父につれられて上京したが、あたかも宗用で滞京してゐた和尚は、茂吉父子を東京でむかへた。その年の秋彼岸の中日に銀座の寓居に梧竹をたづね、和尚は茂吉のために揮毫を依頼した。香をたきこめて観音経一巻を誦した梧竹は、おもむろに筆をとって「大聖文殊菩薩」を拝毫した。かたはらに和尚はうやうやしく合掌して、茂吉の出世をひたすら念じた。まことに崇高な劇的な場面であった。


茂吉は「大聖文殊菩薩」の書をきはめて大切にされ、戦争中に金瓶に疎開したときも、肌身はなさず捧待した。70歳の齢をむかへた茂吉は、「大聖文殊菩薩中林梧竹拝書少年茂吉十五歳のため」、短歌一首をつくり、梧竹と窿應和尚の恩をしのんでゐる。》

(『窿應の生涯と茂吉』昭和47年 白玉書房)

梧竹は明治25年に金瓶寳泉寺を訪れており、なんと「赤湯、宮内、長井方面に遊んだ形跡」もあるという。金瓶には2度来ており、二度目の滞在は長かったとのことだがその時期がいつだったかは定かではない。研究者として日野俊顯氏の名も出てくる。


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清雲鴨居正恒先生「神楽」 [神道天行居]

このところちょっとバタバタしていたのだが、そんな中で届いた「古道」6月号に再録された清雲鴨居正恒先生の「神楽」という文章にたまらなく心惹かれて書き写してみたくなった。

鴨居清雲正恒像.jpg
鴨居先生は明治37(1904)年1月5日岡山県浅口郡玉島町にて御生誕、昭和4年11月に石城山に結縁、以来生涯を通して神道天行居に於いて御奉仕され、昭和49(1974)年12月10日、70歳で御帰天。小野浩先生による「故鴨居正恒大人命霊位献詠」の中に

 君こそは同志(まめひと)のなかの同志と 先師(さきつみおや)も洩らしたまひぬ

とあった。すぐれて神道天行居的大人であったことがうかがえる。私はお会いすることは叶わなかったが、そのお名前を聞く度、語られる言葉から鴨居先生のお人柄が伝わってきていたように思う。あらためて手元にあった遺文集「清雲遺蹤」「続清雲遺蹤」を手にとった。
清雲遺蹤.jpg
題字は日野俊顯先生

以下、「古道」平成26年6月号に再録された、昭和33年1月号掲載の文章です。

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浄身鎮魂法と太陽凝視―イワトビラキ [神道天行居]

神道天行居の修斎会で行なわれる主要な修法に浄身鎮魂法がある。その達するところ下記の如し。


《カクシテ、ココロヲシヅメテ、タマキヨラカニ、ナンノカゲモササヌヤウニナル、マナコツブリアルモ、コノワザカサナルニシタガヒ、オホソラニカカルヒノヒカリ、カミヲツヅメテコノツブリメノナカニアラハルル、カヤウニナレバ、モハヤタマシヅメハナシトゲラレテ、ソノタマ、オノレトカミトノワカチナクナル、コノヒカリヒトツニマツラワヌウチハ、タマモシヅマラヌ》(友清歓眞『神機玄』)


もう30年近くになるが、はじめて修斎会に参加してこの修法を知って、達するところからは程遠いものの、そのかすかな光がほの見えて、それだけでも「すごい」と思った。家に戻って毎日やればいいのだがなかなかできない。わざわざ山口県の本部での修斎会まででかける目的は、そこで修法に浸り切ることができることにあるわけで、中でもこの浄身鎮魂法はその大きな目的のひとつだった。おのれの鎮魂状態の至らなさを知る上でもありがたい修法だ。先師友清歓眞先生 が天宇受売大神(アメノウズメノオオカミ)によって親授されたという。「余の承認なく猥りに他伝して神罰を蒙るとも余の関知するところに非ざるなり。」とあるので、こうしてここに書くことへのためらいもあるが、あえて書く。


その身体的裏付けとして松果体の存在を聞いていた。なるほどこの松果体を介して浄身鎮魂法は、飯山一郎氏が推賞する太陽凝視と結びつく。


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「君が代」のさざれ石ーシントロピー [神道天行居]

古道25.12 天地の間は感と応.jpg

月初めに届く神道天行居機関紙「古道」の第一面先師友清歓眞先生の言葉、いつもなぜかタイムリー。先に徳洲会の「再生」に期待したい」という記事を書いた。その中で、エントロピーの対立概念であるシントロピーについて言及した。今月届いた「古道」12月号、「君が代」のさざれ石に事寄せて、まさにエントロピーとシントロピーだった。


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